深田 上 免田 岡原 須恵

知ったかぶりⅡ

世界灌漑遺産 百太郎溝・幸野溝

 2017/2/1の朝日新聞熊本版に「300年間現役 登録を祝う会」が錦町で開催されたとありました。
忘れていました。インドのニューデリーに本部を置く国際かんがい排水委員会(ICID)が、昨年11月8日にタイのチェンマイで開催され、日本から申請があった14施設を「世界かんがい施設遺産」として登録が決定していたことを。
そうです、その14番目(リンクが切れているので別ページを引用) 幸野溝・百太郎溝水路群 が有ります。

 「かんがい施設遺産」と言えば、熊本県人で山都町の 通潤橋(通潤用水) を知らない人は居ないのでは?
今回は、300年以上も前に先人が作った「百太郎溝」と「幸野溝」とが今も現役として活用されていることを知らしめた登録です。

 で、どこを流れているのかというと、下の記事に国土地理院の地図を埋め込んであるんですが、クリックされた方は居られないかも?
免田川との交差はサイフォン式で免田川の川底を伏し越ししている。免田川との交差はサイフォン式部分をクリックして表示される+部分が百太郎溝のサイホンが有る箇所です。 左下の縮尺ボタン「-」をクリックし、300m表示にして5センチ程南側にあるのが幸野溝です。
この地図はマウスで動かすことが出来ます。幸野溝は破線表示の暗渠(あんきょ)が多いですが、湯前町の発電所のマーク辺りに辿り着きます。

 その暗渠が日本最古の「石合掌作り構造」であることが評価されて世界かんがい施設遺産に登録されたんだそうです。
誰かその写真を投稿してください!

幸野溝

あさぎり町にお住まいの方から写真投稿がありました。

写真は撮影スポット①で、上東(永山地区)から免田川を跨ぐ開水路橋。その昔は石組みであった幸野溝も、今ではコンクリート製に。右手が免田川です。

麓の幸野溝

撮影スポット②は、地図の赤い部分の開水路橋を県道43号線から見た麓地区の写真。(写真クリックで拡大)
ここも既に石組みではないが、年代を感じる。流れは、白髪神社境内の地下を潜る暗渠に繋がります。

撮影スポット

 地図クリックで拡大します。

 ※上部の幸野溝・百太郎溝水路群をクリックしてください。内部の石合掌造りの写真があります。

 

疏水・百太郎溝

百太郎溝旧樋門

 あさぎり町には球磨川に合流する免田川、井口川、田頭川、銅山川などの自然の川以外に、球磨川を源流としている疎水が2つ流れています。(球磨川の左岸にあるため、須恵、深田の方はご存知ではないかも?)
 疏水とは、辞書には灌漑(かんがい)・給水・舟運・発電などのために、新たに土地を切り開いて水路を設け、通水させることとあります。

 写真は、多良木町の史跡「百太郎溝取入口・旧樋門」です。写真クリックで説明文が有ります。

 関西で疎水と言えば、滋賀県の大津から京都の宇治川につながる琵琶湖疏水が有名で、桜の頃になると「山科疏水」と言う名称にもなる。その疎水百選にあさぎり町を豊かにしてきた「百太郎溝」と「幸野溝」が選ばれています。

 

 あさぎり町 ルートマップ には疏水名までは記載されてはいないが、ルートマップ更新時にはあさぎり町を豊かにしたこの2つの疏水名も是非記載いただきたいものである。

 そのルートマップを拡大し、湯前町を見ていただくと、①-C部に球磨川の取水口「百太郎堰」が記載されている。
 幸野溝は国道219号線と交わった所(①-D)までしか書かれてはいないが、球磨川の取水口は現在の場所(発電所)よりも600m程上流の湯前町の馬返だったらしい。
 荒野に水を引き込むための百太郎堰の着手は鎌倉時代末期の1670年代(*1)?とも言われ、多良木町字松下から多良木町、旧岡原村・上村・免田町を通り、錦町の原田川に至る五期に亘った全長約19kmが完成したのが1710年。灌漑面積は約1500ヘクタールにも及んでいます。

   *1.写本・「百太郎溝由来」に延宝八年(1680)に岡原村宮原まで掘り通しとある。

 これらの工事の全てが流域農民達の手(*2)によるよるもので、堰を何度作っても豪雨時期になると跡形も無く壊れ、幾多の難工事と多大な犠牲のもと偉業が成し遂げられたので、百太郎の人柱伝説まで有る位です。以来、昭和35年に始まった百太郎利水南部改修工事の際に新しい樋門と交換されるまで一度も壊れることもなく使われ、その旧・百太郎樋門を移築した百太郎公園(多良木町、写真)で見ることが出来ます。

   *2.元禄九年(1696)、岡原村宮原から上村の脇井手・免田川までは、上村の無援の農民12歳位    から70歳近い老人までの老若男女が総出で掘りとばした。と記録にある。

 幸野溝には谷水薬師近くに水路橋があるので疏水と判るが、百太郎溝を下ってヘルシーランドの先まで行くと免田川との交差はサイフォン式で免田川の川底を伏し越ししている。ここを見るとやっぱり疏水なんだな~と思う。

 中学時代に渡ったことのある吊り橋(石田橋)を渡ってみましたが、結構揺れましたね。サイフォンの入り口側にはゴミが多くて、出口のみの写真としました。

百太郎溝 石田橋 サイフォン
岡原付近にて 免田川を跨ぐ吊橋(石田橋) サイフォン出口

 この疏水が、流域の原野に球磨川の水の恵みを注水し、広大な米の耕作地へと変貌を遂げさせ、今では流域の生活基盤の安定と経済発展の基礎を築き、それが言うまでもなく『球磨焼酎』の原料となる米を美味しくさせている。今では溝という名前が自然に溶け込んでいるため疏水と思われる方が少ないかも知れないが、水田に留まらず防火用水や生活の水に “なくてはならない存在” となっている。

 今の様に土木機械が無かった時代に、球磨川に堰を作り、その水をくま川鉄道の経路言えばで免田から人吉までの約19kmを引き込むことは難業だったと思う。これを引き継いでいる我々は、300年も前に伏し越し(サイフォン)等の高等な工事をした農民(先人)を誇りに思わなければならないし、忘れてはならない、今の球磨が繁栄する水利事業の文化遺産を残してくれた先人が居たことを。

*旧岡原中学校の 校 歌
  ♬ 不毛の土に水を引き  豊かな郷に育んだ  人の恵むを仰ぐとき ・・・とありました。
 熊本県内の多くの校歌を作詞した 山口白陽 の頭の中にも、この幸野溝や百太郎溝のことがあったんだろうか?

 ここに「百太郎溝史」という本があります。百太郎溝土地改良区が 高田素次氏 に執筆・編纂を依頼し、平成5.9.1発刊されたもので、その冒頭に 『人柱伝説』 の記載があるので、引用します。(…その16ページに筆者の判断があるがそこまでは云うまい。)

百太郎之碑  

 百太郎溝の人柱伝説は生きている。
多良木町の慈願寺には、百太郎溝の人柱になったという百太郎の大きな供養碑が建てられていて、百太郎溝土地 改良区では、毎年この寺でその法要を盛大に営んでいる。
伝説は伝説ではなく、史実と信じられて生きているのである。

 供養碑は百太郎公園にあるものと同じ樋門で作られており、その左側面には以下が刻まれています。

南部利水計画に基く百太郎大改修に際し その樋門の一部を移し
開鑿当時 人柱となりたる百太郎の供養と
五穀豊穣の願いをこめて この碑を建立す
         昭和三十五年四月二十八日  百太郎奉讃会  


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