8.感 懐
左様でございます。
私も玉垂も、藩主・長毎公が普門寺跡地に生善院を設けて私どもを法要下さった事により、それまでの呪縛を解いたのでございました。もっとも私の呪詛が、先ほどの草紙に記されたとおり、全て相良家に害をなしたるものとは思いませぬが……。盛誉と宗昌、そして私も、今は花園に囲まれた極楽世界に生きておりまする。
前世のかかる私が所業、許されざるものとして難ずる者の多々あること、これもよく存じ上げておりまする。されど、いかようにして大きな権門に立ち向かい、わが存念を披瀝(ひれき)すべきであったか、か弱き女の身なればいかなる術がございましたでしょう。いまだに定かではありませぬ。魔界の者として立ち向かい怨念を晴らす、これ以外いかなる方途がございましたでしょうか。今も昔も、女の生き様とは誠に厳しく悲しく、また因果なもののようにございまする。
されば私などは、定めし地獄に堕ちるものとばかりに考えてございましたのに、さて、閻魔様のいかなる匙加減がございましたものか。多分に、私が御仏に仕える身の上でありし事ゆえ、更には私を哀れに思し召しての事ゆえにござりましょう。かくのごとくして極楽世界に参りしは、誠に幸いと云うべきにござりました。
今、その昔(かみ)に立ち返ってみますると、我が子宗昌にも至らぬ点は多々あったようにございます。いえ、盛誉さえ私の知らぬところで、何か疑わしき事があったのやも知れませぬ。全ては我が子のみを信じる親馬鹿の為せる業(なせるわざ)と、お笑いあそばしても宜しゅうございます。
ただ、瓜田の履(かでんのくつ)、李下の冠(りかのかんむり)と云う事もございます。何かの折に生じたるひとつの疑念は、それを逸早く(いちはやく)払拭せぬ限り、やがては恐ろしい結末を招来する事にもなり得る事、心すべきことやも知れませぬ。更には、策略を巡らす輩もあれば、それに乗ぜられる者もある、それは終には、お互いにとっての不幸の始まりでもございましょう。また、栄枯盛衰は世の常の事、今の幸運に随喜(ずいき)し、あるいは不運じゃと言うて嘆き悲しむ事もございますまい。「月満つれば則ち虧く」(つきみつればすなわちかく)、とも申しまする。御仏は、全ての者をご照覧下すっているのでございます。
それはそうといたしまして、人吉のお城中ではその後も様々な騒動が出来(しゅったい)いたしたのでございました。先刻ご高覧くださいました草紙の通りながら、相良家の義陽、忠房、長毎公と、ここ三代の君主にいたしましても、まだお若い砌(みぎり)に当主もしくは藩主の座にお就きになりましたる事ゆえ、上村、深水、犬童、東殿等々常に権勢を巡っての争いが絶えなかったのでございます。誠に騒乱の絶えないお血筋とでも申しましょうか。
しかし、鎌倉以来連綿と続いてきた相良家のこと、島津家や相馬家とともに時勢に上手くおもねり、これからも存続いたす事でございましょう。現世に、劇的な変化のない限り。
私の拙い、またお恥ずかしい話も、ここまでにいたしとうござりまする。
生善院の御朱印(出典:Omairi)