7.暗雲・相良家 (一)
このやうな事があって二年ほど経った頃、相良家当主忠房も既に十三歳になってゐた。
中央では羽柴秀吉が小牧・長久手(ながくて)で徳川家康と争ひ、巧妙な手口で己の天下取りの地歩を着々と固めつつあった頃である。その相良氏は、今や完全に島津氏の支配下にある。
元来忠房は病弱な体質であり病の床に臥せってゐたが、その病状は日を追って悪化し、明日をも知れぬ命となった。するとまたぞろ、怨霊の祟り話が人口に膾炙(くわいしゃ)し始めた。ここ数年の間己には何ら害がないと知ると、家中の者も領民も安心し切ったやうに、対岸の火事として相良家の行く末を傍観する態度に出始めていた。ただ、この事態を己らの政争の具とせむとする、様々な裏面での工作も存在したのであった。
島津氏に積極従順を標榜(へうばう)する深水派と、これを好しとせぬ犬童一派とは、水面下で激しい攻防を繰り返してゐた。薩摩に居住して島津との間に何らかの接触ありと疑念を抱かせる頼貞に対し、深水の執る(とる)優柔不断な態度は、犬童一派にとり我慢ならぬものでもあった。おぞましい事件の後も、頼貞はいまなほ薩摩に居座ったままなのである。
深水も、決して頼貞の動きに手を拱ひて(こまぬひて)見てゐた訳でもなかったが、犬童一派からすると何とも歯痒い(はがゆい)思ひであったのであらう。であればこそ普門寺襲撃に関しては、盛誉よりもむしろ、頼貞への疑惑に繋がる湯山宗昌を成敗(せいばい)したかったのである。それがちょっとした手違ひから、盛誉を殺害せしめたのであった。
犬童一派にとって、深水の体調不良も好都合の材料であった。彼らは、
「お屋形様の病はお気の毒ぢゃッどん、深水様のそィはまた猫の祟りぢゃらう。一旦は、湯山一族討つべしと命じた深水様への、玖月どんと化け猫の復讐たい。恐ろしかこつばい」
と、犬童頼安の知らぬ処で囁き合ふてゐた。犬童一派は湯山兄弟の誅伐には異議を一切唱えなかったし、深水派の頭領の体調不良に関しても、冷淡にその病状を見守ってゐたのであった。この話は再び城下に喧伝された。しかし、これまでのやうに、もう領民達が極端に恐れ戦く(をののく)事はなかった。
一方の忠房の病状は更に悪化し、終には薬石の効なく他界した。跡目は忠房の舎弟・頼房(後の長毎)が継いだ。
頼房は、島津氏の軍門に降って無念の死を遂げた豪勇・義陽の次男であり、幼少の頃より島津氏の人質となってゐて辛酸を嘗め(なめ)尽くした人物であった。彼もまた忠房同様若年にして、相良家当主の座に就いた。
忠房の遺骸は、人吉の願成寺(ぐわんじゃうじ)に埋葬された。
その後さしたる怨霊に纏はる(まつはる)話もなく、時は流れた。
ただ、九州における島津氏の勢力は益々拡大の一途を辿ってをり、更に北へ北へと進撃を続けてゐたのである。
先に島津氏は、阿蘇氏の出城・甲佐城に相良義陽を以って甲斐宗運に立ち向かはせ、義陽に悲壮な討ち死にをさせてゐる。このやうに、今は島津の先鋒として敵と対峙せねばならぬ立場の相良氏に、猫の騒動などにかまけてゐる暇などなかったと云ふてよい。
天正十八(1590)年には秀吉による天下統一が成るのであるが、これに先立つ同十五(1587)年現在、秀吉に対抗する勢力としては薩摩・島津氏と小田原・北条氏を残すのみであった。秀吉は先ず天下統一の先鞭(せんべん)として島津征討に乗り出し、十五万とも二十万とも云はれる大軍を九州に送って来た。
それ以前に、既に豊後の大友宗麟(そうりん)は秀吉の軍門に降ってゐる。そして島津義久・義弘・家久三兄弟の勢力打破を秀吉に懇願してゐた。相良家当主・頼房は島津傘下として日向に出陣してゐた。その間の人吉城の留守を預かって来たのは深水長智である。
深水はこれまで、島津氏に対し敵対せざる人物と思はれて来たが、この人物が八代に駐留する秀吉に密かに謁してゐた。さすがに相良家譜代の老臣であった。機を見るに敏、彼は秀吉の軍門に降る事により、島津の支配下から離脱して、併せて相良の所領安堵を計らむとしてゐたのであった。
破竹の勢いの秀吉は快諾した。さうして、押し寄せる秀吉軍の前に、さすがの島津氏も屈服し日向から撤退、頼房は島津氏の束縛から解放され人吉に帰還した。ここに秀吉の九州平定が成り、人吉・求麻の地にも一応の泰平の機運が漲って(みなぎって)来たのである。
ひと頃の領域が縮まりこそしたものの、再び三十数年振りにこの地を安堵された相良氏は、新たな近世大名としての道を歩み始めた。とかく批判も多かった深水ではあったが、島津氏監視の間隙を縫ふて秀吉に謁を請ひ、相良氏の安泰を図った功績は、やはり大であったと云はざるを得まい。
後の秀吉の朝鮮出兵の折には、相良氏は加藤清正の寄騎(よりき)大名として出陣した。更に後年、慶長五(1600)年の関ヶ原では当初西軍に属してゐたが、今度は犬童頼安の子頼兄(よりえ)の働きによって東軍に転じ、人吉・求麻を領する本格的な近世大名として生き残って行く事になった。
関ヶ原に先んずる慶長元(1596)年頃、相良家における老臣同士の対立が再び波乱含みとなってゐた。
島津氏の麾下(きか)を脱して、豊臣大名としての地歩を固め始めた相良家における功績は、深水の力量が大と云へたが、一方の犬童頼安(休矣(きゅうい))も決して安穏としてゐた訳ではない。この相良家中における二つの勢力に他の老臣が絡み、更に門葉(もんよう)と呼ばれる相良一族が絡んで複雑な様相を呈し、簡単に対立が解消される事はなかった。
この頃には、深水家も犬童家もそれぞれに世代交代してゐる。深水は長智の孫・頼蔵(よりくら)が、犬童は子・頼兄が当主になってゐた。長智は秀吉による天下平定の年、すなはち天正十八(1590)年、すでに他界してゐた。相良家の治政に大いに功あった長智であったが、後年は僧形となり三河入道宗方(みかわにゅうどうそうはう)を称して隠棲し、晩節を全うした。お家安泰の為には様々な術策を弄しつつも、戦乱末期を機敏に奔走した相良家重臣の死であった。
深水頼蔵の姻戚で竹下監物(けんもつ)と云ふ者があった。この竹下は、湯山宗昌の後を受け湯山城を守ってゐたが、ある問題が出来(しゅったい)して犬童頼兄と対立した。平時の水は支障なく流れ、時には方円の器にも従ふ。が、一旦凍り付いた水はさうはゆかぬ。
対立は深まる一方で、終には石田三成の仲裁となり、竹下とその後見人たる頼蔵が敗訴した。その余勢を駆って頼兄は頼蔵を攻め、深水一族は討滅させられたのである。
栄枯盛衰は世の常とは云ふ。かつて権勢を誇った深水一族の、幸ひにも命永らへたる者達は、爾来、世の場末に慎ましう生き延びる事となって行った。
一方の、関ヶ原の後の頼兄は、東軍に寝返って相良家を安泰せしめた功により相良の姓を許された。相良清兵衛頼兄(せいべゑよりえ)を名乗り、いよいよ力を増幅させた。
さて、一応の争乱も静まり、藩主・長毎(ながつね)は新田の開発・求麻川の改修等の治政にも、大いにその力を傾注するやうになってゐた。公称でこそ相良藩の総石高は二万数千石であったが、実質五万石になりなんとする生産量を誇ってゐたのである。が、一つだけやはり気掛かりな事が残ってゐた。長年の戦乱続きで、暫くの間顧みる事もなかったのであるが、普門寺の盛誉法印斬殺と玖月善女の怨霊と呼ばれるものへの処置である。
城内外にも祠を設置し祈祷もした。しかし、必ずしも鎮静化したとも言へない。怨念の有無も、本来ならば個々人の心の在りやうであらうが、さうとばかりも言うておれぬ。やはりここいらで民心も一新せねばなるまい、と長毎は考へてゐた。
慶長二(1597)年、玖月と猫の霊を慰むるため、人吉の青井阿蘇(あをいあそ)神社に慈悲権現社を建立した。更に後年の寛永二(1625)年には、清兵衛頼兄と協議し、岩野村の普門寺跡地に新しく仏寺を造営する事にした。既にこの焼き討ち事件より四十数年の歳月が流れてゐる。新しく建立された寺院を真言宗智山派千光山生善院と云ふ。
かっての壮大な普門寺の伽藍配置も、位置もやや異なってはゐたが、同一境内である。焼失を免れた樹木も数十本は残されてゐたので、その内の幾本かは寺内の別の場所に移植し池の配置も替へた。
本堂に続いて観音堂も建てた。ここに盛誉と玖月のそれぞれの影仏(かげぼとけ)を、阿弥陀如来像と千手観音(せんじゅくわんおん)像として安置したのである。
更に相良氏は、例年三月十六日に市房神社を参拝させ、その帰途には生善院を参詣するやう領民に求め、代々の藩主自らも実行した。また、京の仁和寺(にんなじ)から盛誉に対し、権大僧都(ごんのだいそうづ)も追贈させた。これにより玖月や猫の怨霊話も漸く沈静化した。
なほ、今日では玖月が身を投じた茂麻ヶ淵は、子供の守護神「護神(ごしん)さん」として信仰されてゐる。
更に時代は降っての寛永十七(1640)年の事、相良家のおける中心的役割を果たして行くやうになってゐた頼兄は、いよいよ藩政を牛耳り専横の度合ひを強めた。ために、相良藩二代目藩主・頼寛(よりひろ)はこれを忌避して幕府に提訴した。尤も(もっとも)これ以前の、長毎の臨終に先立つ四年ほど前から、頼兄に対しある危うさを感じ取ってゐた長毎は、内々に頼兄の処断に就いて頼寛と相計ってゐた形跡がある。その結果頼兄は一時小田原藩預りの身となった。一方の国許の人吉では頼兄の養子・頼昌(よりまさ)が藩主・頼寛に抗ひ(あらがひ)、一族が屋敷に立て籠っての全員討ち死にと云ふ事件も惹き起こされた。この騒動を「お下の乱」と呼ぶ。この時、屋敷地の地下に秘密の地下室が発見された。ただ、この地下室がいつ頃、またどのやうな目的で設置されたのかは謎である。更に、頼兄は後に津軽への遠流(をんる)となり、高齢で客死した。
この後も相良藩に於いては、様々な事件が出来した。その都度、また怨霊の祟りではないかなどとも噂されたが、時代が降るに従って、そのやうな話もいつしか聞かれなくなって行った。
市房山神宮(出典:水上村の歴史) |
茂間ヶ嵜水神社(出典:人吉・球磨) |