さなぼり

9.あとがき

 ちょっとしたボタンの掛け違いにより、人間の一生は思わぬ方向に走ってしまう事がある。
 それは、時には好ましい方向に走る事もあろうが、そのような事は極めて希であって、大抵は好ましからざる方向に、あれよあれよという間に突っ走ってしまう事のほうが普通であろう。ボタンの掛け違いに気付いた時には、もう既に遅く手遅れなのだ。衣服は歪み、見苦しいものになってしまっている。
 この物語の場合がそうであった。疑念は新たな疑惑を招き、そこに手違いも生じて取り返しのつかぬ結末を迎えてしまった。勿論、反対派による意図的な要素も多分には含まれてはいたであろう。が、変事の元凶は、多分に盛誉兄弟二人による。
 とは言え、ある変事の原因を遡及していくならば、全てが一人の人間のみに起因するものでもなかろう。究極の原因というものは、際限なく過去のどこまでも遡っていける筈である。と同時に、ひとつの変事の波紋は、これまた際限なく未来に、周囲にと、どこまでも引き継がれ拡大されていくであろう。
 筆者は、人吉を中心とする郡部に少年時代を過ごした。その頃、秀吉や武蔵といったいわゆる英雄豪傑には大いに興味を示したが、一方で郷土の歴史伝説の類にはさほどの関心も抱かなかった。ただし、この猫寺伝説の存在は知っていた。知ってはいたが、いつ頃誰が関与し、またどのようなものであったのか、特に知ろうとも思わなかった。却って、当時は佐賀・鍋島家の猫騒動のほうが面白く感じていた。
 故郷を離れて四十年も五十年も経つと、やはり故郷の自然と文物が懐かしく思えてくる。近年では数年に一度ほど故郷を訪れてみるのだが、田舎とはいえやはり時代の潮流には逆らえないもので、もう往時の面影も結構少なくなっている。道路でさえ、かつて歩いていた筈なのであるが、その道路にはいつの間にか支道が出来ていたりして、あるいはまたかつての本道が支道になっていたりと戸惑う事もしばしばなのだ。
 今年の五月であったか、再び懐旧の念が生じてこの球磨に行ってきた。勿論主な目的は猫寺伝説の生善院や茂麻ヶ淵、更に相良家ゆかりの居館址を訪ねる事にあった。生善院ではここの住持・千葉弘実様が、寺内を丁寧に案内してくださって猫寺伝説の由来もお話くださった。千葉様はまだ若い尼僧であったが、前住持が存命であれば更に詳しい話が出来たであろうに、とおっしゃっていた気がする。十分なお礼さえ申し上げずに辞去した事が、今は心残りである。
 本筋に戻るが、今日の科学が発達した社会では、怨霊だの化け猫だのの類を信ずる者は少数派であろう。しかし、この時期、物騒な話ばかり飛び交う戦国期に於いては、特に民衆の間では大真面目に語り継がれていた話だろうと思う。一方、このような話が伝承されているところをみると、何かこれに類する事件があった事にほぼ間違いはあるまい。ただ、特異な事件であるだけに、これを面白おかしくするための尾鰭(おひれ)がついて、更には相良家の内紛に乗じたある一派が意図的に作り出した話であるのかも知れない。
 どこの藩に於いても多かれ少なかれ様々な伝説と血なまぐさい歴史がある。が、特に相良家に於いては鎌倉時代より明治維新に至るまでの約七百年間、この地域を治めてきた領主であるだけに幾多の事件も出来した。主として、相良頼景を祖とする一族重臣同士の権力争いであるが、筆者はこの化け猫騒動の裏にも何か重臣同士の確執があったのではないかと考えている。書き急いで疎になりすぎた嫌いがあるが、本件に関してはより時間を割いて、まだまだ細部に亘る綿密な調査が必要であろうと思う。
 再び筆者の少年時代に戻るが、周囲には深水・犬童・上村・桑原・東・西・丸目・豊永・多良木 等々、この物語の中には登場しないまでも相良家と関係ありそうな友人・知人が結構いた。また関連する姓として、椎葉・那須と呼ぶ者も結構な数いたのである。その彼らにいちいち出自を訊ねる事はなかったが、今思うと残念でならない。ひょっとすると彼らは、本流ではなくてもその傍流であったかも知れないし、場合によってはその家に珍しい遺品・系図などが遺されていたのかも知れないのである。
 さて、人間の欲望には際限がない。財欲を満足させれば、次は名誉や地位であろう。これは古今東西を問わず一様のようだ。しかし、これらの欲望がやがて果てしない暗闘を繰り広げていくことになり、事の成り行き次第では夥しい(おびただしい)血を流す事にもなっていく。時には策略で以って敵を捻じ伏せ、蹴落とし、そして己を含む一族の安泰と繁栄を得るべく企図するのである。その一方、繁栄の後にはいずれ没落が来る。どこの国の歴史を紐解いてみても、太古の昔から今日までの未来永劫(みらいえいごう)に続く繁栄や栄光など決してない。
 また、他人の失態を己の好機として捉える事、これなども筆者には出来そうにもない。筆者などは到底競争社会、ひいては弱肉強食の世界などには生きていけそうもない人間なのだ。とは言いつつも、何らかの原因によって生か死の極限状態まで陥った時、今のように平然としていられるかどうか、これまたその択一には自信がない。人間とは本来弱い生き物であるようだ。戦乱等により生命の直接的危機や飢餓状態に陥った場合、殆どの人間は通常の我々の知る人間性を喪失している。さもなければ、残念ながら己の死をこそ意味するからだ。
 翻って、最愛の息子達を失った玖月の悲嘆・憤怒はいかほどであったであろう。況してや(ましてや)それが策謀による犠牲であったら尚更の事である。その立場に立って見る時、加害者に対する復讐を思う心は容易に想像出来よう。かといって、か弱い女の身で巨大な権力に立ち向かおうとすれば、それは当時としては怨霊となって相手を祟るぐらいしか方法がないではないか。今日でこそ国家権力が法の下に当事者を裁いていこうが、この当時充分に整備された法体系があった訳ではあるまい。
 この小品に著わされた相良家の不幸の一部、と言うよりその殆んどが、玖月の怨霊と玉垂の所為(しょい)であったとは考えがたい。実相はたまたま相良家の混乱期に、この怨霊話が暗合しただけであろうと筆者は考えている。
 しかし話としては面白い。特に犬童九介の酒による大失態などは、陰湿な話の多い中で笑わせるところでもある。尤もその結末は笑わせるどころではなく、悲惨な事になるのであるが。今日のアルコール好きの多くの人々も、大いに肝に銘ずべき事ではあるまいか。勿論筆者も含めて。
 最後に、この稿を仕上げるに当たっては、人吉市教育委員会歴史遺産課の三村講介氏に大いにご協力いただいた。主に中世の相良氏から近世大名の一員となる過程の考証についてである。貴重な意見も付記してくださった。改めて、ここにお礼を申し上げたいと思う。

平成二十三年九月二十九日   



ガラとチョク

球磨焼酎特有の酒器・ガラとチョク(出典:谷口商店)


編集後記

 どうでしたか?水上村岩野に在る「猫寺」の由来は。
  小川様から「伝・九州相良妖猫始末」の投稿は2023年末。400年以上も前のこと故旧かな遣いでルビを振って有り、読みながらルビを外して( )の中にふりがなを記入。ところが第八話の作成中に、原稿のコピペでルビが外れ、( )の中にふりがなを自動で書き込んでくれることに気づきましたが、既に第八話で後の祭りばい。
 第七話に「本堂に続いて観音堂も建てた」と有ります。これが江戸時代に人吉藩家老 井口武親(いぐちたけちか)が、人吉球磨地域に在った100箇所を超える観音堂の中から選んだ33箇所が、「相良三十三観音」と呼ばれ、その24番目が「生善院観音堂」です。観音さんのお姿は、春と秋のお彼岸時のご開帳と人吉球磨ガイドで拝んで下さい。(YouTubeも有ります。観音さんクリックでページジャンプします)
 観音堂は江戸時代の寛永2年(1625年)の建立で、平成2年(1990)9月に国指定の重要文化財になったとの記念碑が立っていて、観音さんは日本遺産 人吉球磨でも拝むことが出来ます。

あさぎり関西会HP担当 種村 康富  


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