4.玖月と玉垂 (一)
その襲撃の後、庵の一室に閉じ籠もったままの玖月(くげつ)は、ここ四・五日の間盛誉の供養の為の読経はするが、他に何をすると云ふ気も起きぬ。ただ終日(ひねもす)、愛猫「玉垂(たまだれ)」を膝の上に乗せて撫で回し、盛誉の無念を思ひ、ただ涙するのみである。
愛猫「玉垂」は捨て猫であった。年に一・二度、玖月はこの庵から二里ほど離れた市房山中腹の神社に参詣する習はしであったが、一年ほど前の参詣の折、この仔猫を拾って来たのである。全身真っ黒の雌猫であった。この玉垂が、玖月の膝の上で咽喉をゴロゴロ鳴らせつつ、時折咽び(むせび)泣く玖月を見上げてゐる。
この時であった。玖月の沈む心に、ある忌はしい思ひが頭を擡げて(もたげて)来たのは。
「そうたい。これから二十一日間市房神社に籠り、相良家と襲撃に加担したる輩をバ呪ふてやればよかとぢゃ。空事(そらごと)を以って盛誉バ陥れ、殺害までいたしたる罪障は決して許すまじ。おのれ、今に見やれ。私が怨念、決して晴らさずにおくものか。玉垂、そなたもこの尼僧に力添へをこそしやるがよか」
泣き腫らし(はらし)た玖月の目に僅かな光が点り(ともり)、更には異様な色を孕み(はらみ)始めた。玖月の膝の上の玉垂にも言ふて聞かせるやうに、時には玉垂を目の前に抱き上げて囁く如く、呟く(つぶやく)如くに、恨みの籠った声を発してゐたのである。その目は御仏に仕える者のそれではなく、既に悪鬼の持つそれであった
かくして玉垂を連れた玖月は、市房神社へ籠り始めた。二十一日間の参籠(さんろう)である。五穀を絶ち、口にする物と云へば水のみであった。
「五穀を絶ちて願掛けまする。どうか我が存念ご承知ありて、相良家に仇を成すべし。わが子を殺害されたる怨念、どうかどうか晴らしたまへ」
玖月は祈り、祈り疲れたら横になった。起き出してはまた祈る、この繰り返しである。空腹感は、参籠三日目ぐらゐが最も激しい思ひであった。酷い眩暈(めまひ)がする。だが四日目くらゐから幾分慣れた。この間の玉垂は、玖月の傍から片時も離れやうとはせぬ。しかし、玉垂も腹が減ってゐるのであらう、時折力なく鳴き、玖月に餌を求めてジャレ寄って来る。元々利口な猫であった。普段は餌(ゑ)がなくとも、どこからか鼠などの小動物を捕へて来て己の腹を満たしてゐるのであったが、ここでは外に出やうともせず、玖月の許を離れやうともせぬのである。
「玉垂、見てゐやれ」
この神社に籠り始めてその四日目ほどの夜の事、玖月は懐剣の鞘を払うや己の左手の拇指(おやゆび)の腹に傷を付けた。指から血が流れ出ると、玉垂に向かひ
「さあ、玉垂。私がこの血、舐むッとばい。これから毎日、そなたに我が血を舐めさすほどに、また、こたびのこの顛末、そなたにも言ふて聞かせうほどに、我が怨念、そなたは我が思ひを体して、相良家バ祟りやれ」
玖月はさう語り掛けながら、玉垂にその血を舐め尽くさせた。それでもまだ流れ出る血は、神殿に向かうて相良家を呪詛(じゅそ)しつつ、所構はず(ところかまはず)塗りたくった。日が過ぎて行くほどに、傷付かぬ指はなくなった。時にはその血で以って、まるで血を搾(しぼ)り出すかのやうに、「怨」あるひは「恨」と、おぞましく神殿に書き込んだのである。
時に、この神社に参詣に来た一人の村人がゐた。玖月が参籠を始めて十四・五日も経った頃である。この頃の玖月はもうすっかり力も失せてゐる。神社の板壁に凭れ(もたれ)たまま、呪文を小さく唱へるのみになってゐた。ここに参詣しようと云ふ村人は何も知らぬ。玖月が呪詛のため参籠してゐようなど、考えてもみぬ事であった。
男が神社に近付くと、異様に吠えるやうな猫の泣き声がする。神社の周囲は数百年から千年の年月を経た大木の群れに取り囲まれ、夕刻の薄暗さが感じられる。その異様な雰囲気に、男はまるで背中から冷水を浴びせ掛けられたやうな恐ろしさを感じた。
その思ひを振り払って社内を覗いて見ると、なんと、そこの板壁と云ふ板壁は赤く血塗られてゐるではないか。「怨」あるひは「痕」の文字も見える。生きてゐるのか、死してゐるのかさへも判らぬ一人の女の横で、一匹の黒猫がこちらを見据えつつ唸り上げてゐるのである。
参詣どころではなくなった。恐怖のあまり、この男は急ぎ転げ落ちるやうに山を降って村に戻った。が、その後一向に震へが止まる気配もなく、いつしか廃人となった。
かうして満願の頃になると、玖月の頬の肉はげっそり落ちた。更に眼窩(がんくわ)は異様に窪み、愛猫玉垂とともに全身痩せこけ、その目だけはまるで油でも塗ったやうにギラギラと、異様な光を放ってゐるのであった。
市房山を西の方に降って行くと湯山城があった。つい先頃まで、玖月が長子宗昌が相良氏から預かってゐた山城である。否、城と云ふより峻険なる九州山地の山懐に抱かれてゐる砦であった。
この砦の近くの奥まった処に、谷川の瀬を集めた淵がある。求麻川の水系であらうが、山の深い木立に囲まれてゐて、その淵の付近だけポッカリと穴を穿った(うがった)やうになってゐる。底知れぬ水の深さは青く沈み、まるで淵の主の竜神でも潜んでゐそうな場所である。流れ落ちる水のない滝壷と云ふてもよかった。現にこの傍には水神社が祀られてゐて、この淵を村人は「茂麻ヶ淵(もまがふち・茂間ヶ淵)」と呼び、篤く信仰してゐたのである。
玖月は結願(けちぐわん)となったこの日、市房神社からこの茂麻ヶ淵まで山道を降り始めた。体力の殆んど全てを使ひ果した玖月にとって、山を降る事さへ難儀であった。谷川沿ひをよろめきつつ一歩一歩進むごとに、足は強張り(こはばり)息も切れて、幾度ここでもう果つるのではないかと思った事であらう。全行程を杖一本に縋り(すがり)つつ、しかも指の痛みを堪へ(こらへ)ながら、一刻の時間を掛けてどうやら水神社の前まで辿り着いた。髪は乱れ、あちこちに血の滲む白の衣は綻び、体中から異臭を発してゐる。痩せこけたその姿は、既に昔日の玖月ではなく、地の底から這ひ出て来た悪鬼であった。
ここに辿り着くまでの間、常に玖月の後方では、「ギャーオッ、ギャーオッ」と吠えるやうな、玉垂の異様な叫び声がしてゐた。まるで玖月を守護するかのやうに、辺りを見回しながら玉垂は後を付いて来るのである。聞きやうによっては、玖月の血が欲しいと泣き叫んでゐるかのやうでもあった。
漸く辿り着いた水神社の前に、玖月は地面にぺたっと座り込み、玉垂を己の傍に引き寄せた。そして祠に祈りを捧げて懐剣の鞘を払ふと、今度は己の手首を思ひっきり切り割った。噴き出す血をまた玉垂に舐めさせ、まだ流れ出る血は水神社に手を振って振り掛け、更には幅広く塗りたくったのである。
「よかか、玉垂。我が怨み、やよ、忘るまじ。憎き輩は相良の者ぞ」
さう玉垂に言ひ聞かせながら再び血を舐めさせると、先ほどまで鳴きおらんでゐた玉垂はすっかり大人しくなった。それから玖月は猫を抱いた。抱いたまま淵の際(きは)の断崖まで、足を引き摺るやうに進んで行った。玖月の歩いた後には点々と、血の痕が続いてゐる。
断崖の上で一旦玉垂を下に降ろして合掌し、再びその猫を抱いた。抱いたと見るや一瞬の内に衣を翻へし(ひるがへし)、崖下の青々とした淵を目がけて身を投じた。
暫くの間、二つの物体は淵の水面を交互に浮き沈みを繰り返してゐた。が、やがて力尽き水底へと沈み、再び浮き上がる事はなかった。後には波紋が幾重にも広がってゐる。しかし、それもいつしか掻き消されて、いつもの深く青々とした藍色の淵に戻って行った。
「玉垂」様は、ねがい猫という台座に座っておられます(出典:Ameba)