さなぼり

3.襲 撃   (一)

 ――玖月善女の言う絵草紙『相良家猫騒動異聞(いぶん)』を見ると、概略次の通りである。原書は古文体であるが、表記は原文を尊重した仮名遣いとして、あとはやや現代風に改めた。
なお、玖月の話しと重複する箇所もある。ただ、そこは原書を尊重してそのままにしておいた――。
 天正十(1582)年三月十六日を討伐の日と定めた宿老らの議決に沿うて、反宗昌・盛誉一味は、計画が露見せぬやうにあらゆる方策を講じてゐた。主立ったものは、老臣犬童頼安の息の掛かった者共である。
 普門寺に集ふ宗昌・盛誉兄弟を討つべく画策してゐたのであったが、どこからかその計画は宗昌に筒抜けとなり、宗昌は日向へと遁走(とんそう)、今もってその行方は分かたぬのである。だが、彼ら反兄弟一味の者は、密かに探索の手を日向にも差し向けてゐたのであった。
 一方、かかる策略を相良家当主忠房の知る処ともなれば、幼君とは云へ、いつ何時普門寺襲撃停止(しゅうげきちゃうじ)の沙汰が忠房から、あるいはその周辺から発せられるかも知れぬ。若し(もし)停止とあらば、その折に発つ使者は犬童九介(いんどうきゅすけ)であらうと思量(しりょう)して、その使者が普門寺討伐隊の許へ着到出来ぬやう計ってゐた。九介は犬童一派なれど頼安の一族に連なる者なれば、一味の襲撃計画についてはその一切を、九介に対し秘すべく申し合わせてもゐたのである。
討伐隊長は黒木千右衛門である。
 さて、かねてより普門寺襲撃のために手抜かりなく手段を講じてゐた一味は、人吉から岩野村に掛けての主要道の茶店と云ふ茶店に、残らず次のやうな意の「触れ書き」を発してゐた。
――近々重大なる任務を帯びたる早馬の、咽喉の渇きを癒さむが為店に立寄り候事(さうらふこと)あり得べし。されば彼者(かのもの)、無類の酒豪に候へば、水に代へて焼酎・酒・肴を以って賄ひ(まかない)労をねぎらふべきもの也。此段 (このだん)心得申すべく候事――
 どこの茶店の亭主にとっても、領主の命に逆らふ訳にもゆかぬ。いつ何時、来るか来ぬかも判らぬ使者に、迷惑な思ひでもあった。
 さても襲撃当日となった。されど、その前夜に宿老深水長智から襲撃停止の命を受けて、犬童九介は人吉を卯の刻(うのこく・午前六時)に発ち、岩野に向けて己の愛馬の手綱を取ってゐた。
 九介は西村・一武村と求麻川に沿ふて一気に駆けた。装束(さうぞく)は一応小具足に身を固めて鉢巻を締め、槍を一本手挟んで(たばさんで)ゐる。川沿ひの処どころには、桜も既に綻んで(ほころんで)ゐた。
 半刻(一時間)ばかり駆けて、ちゃうど免田村の築地付近まで至った頃の事である。無性に咽喉の渇きを覚えて来た。重大な任務を帯びての急ぎの早馬だけに咽喉も渇いて来たのであらう。見ると、幸いにも茶店の看板が掲げられた一軒の民家がある。
「こぎャん早うから店の開いとる筈はなかばってん」
と不思議にも思ひながら、取り敢へず我が身と馬の水だけでも貰はむと考へ、愛馬を店の端の木に繋ぎ案内を請ふた。すると意外や意外、亭主が直ぐに出て来て応対してくれた。初老の男であった。
 九介は不思議にも思ひつつ、「朝早うから相済まんばってん、城から急ぎの用の者たい。こィから岩野まで走らんバならんと。俺と、こン馬にちッと水の欲しか」と、申し入れた。すると亭主は愛想よく「はい、承知してござす。お使者でござすな。城中からお触れの廻っとりますけん、直ぐ支度バいたしもんそ。ちッとばッかしお待ちくだッせ」と言ふ。九介はその間店の外に出て馬に水を遣ったり餌を与へたりしてゐたが、ややあって亭主が九介を呼びに出て来た。馬もホッと一息ついたのか、その間盛んにブルッブルッと大きな鼻嵐を吹いてゐる。
 店に戻って驚いた。程よい程度に燗をつけられた焼酎と、適当な肴まで用意されてゐるではないか。「触れの出とるちうとったばってん、家中ン者も味なこつバすッたいなァ。何ちうこつぢゃらうかい」と、少々訝しくも思へたが、目の前に現れた焼酎の香りを嗅ぐと、もうそのやうな思ひもどこかへ吹っ飛んで仕舞った。めっぽう酒好きの九介の事である。まあ、一杯くらゐはよからうと当初はその積もりであったが、いつの間にか度を過ごし一升(1・8リットル)ほども飲って(やって)仕舞った。九介は良い気分になった。既に呂律も廻らなくなってゐる。

 
    (二)

 亭主が次々に持ってくるガラ(この地方独特の焼酎を容れる容器)に、九介は朝から真っ赤な顔付きとなり、終には足下も覚束なくなった。フッと我に返ると大事な用件が残ってゐる。まだ忘れ去ってはゐないのである。
「こりァ、いかんばい。俺にァ大事か用のあッとたい」
九介は、頭は朦朧としながらも、四半刻(三十分)ばかりを経て茶店の亭主に礼を述べ、再び騎乗の人となった。
ふらつきながらも何とか馬に乗り、暫く普門寺の方向、東に向けて走った。火照った顔に当たる薫風が何とも云へず心地よい。更に暫く馬を駆り、そろそろ多良木に這入(はひ)らうと云ふ頃であらうか。どうにもならぬ睡魔が彼を襲うて来た。落馬しさうであった。
「いかん、いかん。こりァいかんばい。ちッとばっかし休まにァならんごたる」九介はそう独り言を言ひながら馬を下りた。幸ひ往還(わうくわん)脇に大木があったので、その木に馬を繋ぎ、己は木陰の草地に右腕を手枕にして横になった。侍たるもの、万一の時に利き腕を取られぬためである。
この盆地の田植えの時期にはまだ少々早い。所々に蓮華草が植わっているが、田圃は見渡す限りの空地である。横になって見ると、普段より山野が大きく見える。焼酎の所為(せゐ)もあったらうが気分も何となく爽快になった。
横になって暫くの間、頬の辺りから長く伸びた雑草が微風になびき、鼻をくすぐってムズ痒かった。しかし、それも束の間であった。いつしか大きな鼾(いびき)をかきながら、九介はぐっすり寝入って仕舞ったのである。
どれほどの時間を眠ってゐたのであらう。何か夢も見てゐたやうであったが思い出せぬ。頭がガンガンして少々痛む。ハッとして天空を仰ぐと、既に陽は燦々と天空の中央近くに懸かってゐて、地上の全てを眩いばかりに照らしてゐる。
「仕舞た(しもた)ァ」急に叫び声を挙げた九介は、己の任務に気付き飛び起きた。が、もうとっくに討伐隊による普門寺襲撃も開始されてゐる頃であらう。一瞬にして酔ひも醒め、頭の痛みもどこかに吹っ飛んで仕舞った。
 大急ぎで再び手綱を取り、求麻川沿ひを東に遡る岩野の普門寺に向けて馬首(ばしゅ)を巡らせた。川を遡るほどに徐々にではあるが、幅はやや狭まって来る。諸所の川の中に人が立ってゐるのが見える。漁をしてゐるやうだ。
 しかしながら、それを眺めつつ走るやうな、そんな余裕など今の九介には到底なかった。馬も潰れるほどに走らせた。喘ぎながら走る愛馬の全身からは、湯気さへ立ち昇ってゐる。かうして湯前を過ぎ、岩野に這入る頃には山々がいよいよ迫って来て、遠くの山裾に夥しい(おびただしい)煙が望見されるやうになった。
 更にその煙の方向に馬を走らせると、そこが普門寺の前門であった。馬も、更に己も全身汗びっしょりであった。だが、もう黒木を筆頭とする討伐隊の、ただの一人も残ってゐない。
事の全ては、既に決した後であった。


    (三)

 伽藍(がらん)に這入って見ると、まだ燻ってゐる残り火の周りを村の衆が取り囲み、頻りに(しきりに)水を掛けてゐる。本堂は勿論の事、堂と云ふ堂はその殆んどが焼き尽くされてゐるのである。処によっては柱の一部だけが斜めになって、黒焦げたまま突っ立ってゐた。
「法印さまァ、法印さまァ」と、泣き声とも叫び声ともつかぬ声が、どこからともなく九介の耳にも届いて来る。周囲を見渡すと、焼き尽くされたばかりの堂からさほど遠くない場所に池がある。その池の畔(ほとり)の樹木もやや焼け焦げてゐるが、大きなモクセイの木の傍には、筵を被せ(むしろをかぶせ)られた四つの遺骸が並べられてゐる。黒木千右衛門隊の襲撃ののち村の衆が憐れんで、ここにそれらの遺骸を移したのであった。
 九介は筵を一枚一枚めくってみた。二つの遺骸は既に真っ黒に炭化してゐて、その内の一体には首がない。恐らくこれが盛誉であらうと九介は考へた。もう一体は小振りであるところから、雛僧(すうそう)の某であらう。
 更に別の二体は、かなりの手傷を負って絶命してゐる。火傷の痕跡はない。二人は寺男であらう。もう一人寺男がゐた筈であるが、その姿が見えぬ。
 まだまだ寺内に異様な臭ひの立ち込める頃、裏山に逃げてゐた寺男の一人が発見されて、村人に伴はれて九介の許に遣って来た。先刻起きたばかりの恐怖からまだ抜け切らぬのか、血の気は完全に失せて歯も咬み合はぬほどにブルブル震へてゐる。
 九介が討手の者でないと知るや男の気分もやっとの事で落ち着いて来て、ポツリポツリと襲撃の模様を話し始めた。
 男は、黒木一隊の攻撃開始の時には庫裏にゐたと言ふ。その朝の法印盛誉は普段と何ら変はりなく、本堂で朝の勤行(ごんぎゃう)に勤めてゐた。男が徒ならぬ(ただならぬ)物音に気付き本堂を覗いて見ると、雛僧は既に斬殺されてをり、盛誉も彼の後ろに廻った黒木と思しき侍が首を打たむとしてゐる直前であったらしい。男は一人何とか逃げおほせて、この通り助かったと言ふのである。
 場所を変へて、九介はその寺男から更に詳しい話を聞き取らうとした。さうして男の先導をしながら先程の遺骸安置所付近をふと振り向くと、その傍に跪き、さめざめと啜り泣く(すすりなく)女らしき者がある。衣に身を包んだ一人の尼僧のやうであった。
「あン尼さんは誰な?」九介が男に尋ねると、「盛誉様のお母上、玖月善女さんでござすばい。気の毒ッかこてなァ」と、言ふ。 その玖月は、黒焦げになった首のない盛誉の遺体に取り縋り (すがり)、いつまでも噎び (むせび)泣いてゐた。


    (四)

 普門寺への攻撃はほぼ段取りの通り巳の刻(みのこく・午前十時)に始まった。
第一隊は前門から討って入り、第二隊は裏門を固めた。総大将は黒木千右衛門である。多良木方面から湯山村方面に通じる往還から左手の山に向かって、やや登った処に前門がある。周辺一帯は緑なす山また山である。
 黒木の指揮する第一隊、裏門の第二隊ともそれぞれ十名ほどの陣容であった。残りの者は普門寺周辺を固めた。城主が逐電した湯山城の、戦意も完全に喪失してゐたかつての宗昌の配下の者も、その一部が黒木に率ゐられて来てゐる。併せて三十名ほどが襲撃した。
 寺内に攻め入ると、隙を見て逃亡した寺男も一人ゐたようであるが、二名だけは刀槍を駆使しての抵抗甚だ(はなはだ)しい。しかし、たちまち十名ほどの討伐隊に取り囲まれて、特に槍の名手某に突き抜かれ斬殺された。堂宇内に潜んでおる者があるやも知れぬと、黒木は各堂に火を掛けさせた。その紅蓮(ぐれん)の炎は春霞の空に向けて高々と、一気に煙とともに屋根を突き抜けて噴き上がった。
 本堂からは読経の澄んだ声が響いて来る。恐らく盛誉法印であらうと、黒木は手下の者二名を伴って本堂に這入った。その時、物陰から走るやうに飛び出して来た者がある。寺の雛僧(ひなそう)であった。僧に似つかはしくもなく、その手には刀身二尺ばかりの脇差が握られてゐる。しかし飛び出して来た瞬間、たちどころに黒木の配下二人に斬り立てられて、絶命した。
 盛誉と思しき仏僧は、広い堂内で一心に『般若心経』を誦して(じゅして)ゐる。その僧に、黒木は一声掛けた。
「盛誉殿にござすな?」 返事はない。仏僧は更に声高に経文を唱へるだけである。討伐隊を拒絶する姿であった。黒木はこの僧の背後に回り、腰の己の自慢の太刀を引き抜いた。 「されば、致し方なか。君命なれば、御免」さう叫ぶが早いか、気合とともに盛誉の首筋に向け右斜めから横に振り下ろした。その一太刀で、ほぼ事は済んだ。
 瞬間、夥しい血しぶきが天井に届くほど噴き上がると同時に、その血しぶきは、盛誉の首をも二尺ほども上に突き上げて、ゴトッと云ふ鈍い音とともに前方に落とした。落ちた首はそのまま三尺ほども前に転がって、須弥壇(しゅきだん)の前で停止している。
 黒木はその首を包み、一旦本堂の外に出た。近くの者に首の主を確かめると、盛誉に間違ひないと言ふ。それから本堂にも火を掛けた。本堂もたちまち炎上して、やがて一刻(二時間)もすると鎌倉以来の名刹も焼け落ちた。ただ、近くの民家に延焼せぬやう池から水を汲んで来て、焼け跡に一応の水を撒いた。村の衆は遠巻きに、事の成り行きを見守ってゐる。勿論それで火が完全に鎮火した訳ではなかったので、黒木は村の衆に今回の普門寺襲撃の訳を話し、残り火の消火を頼んで引き揚げる事にした。
 盛誉が首は首桶に入れ、報告の者に持たせて人吉に送った。
襲撃停止の報をもたらすべき犬童九介が普門寺の門前に立ったのは、この直後の事である。


    (五)

 九介は人吉に戻った。戻るや直ぐ、事の次第の細大を洩らさず、深水長智や犬童頼安の老臣連中に注進した。
「先ほど盛誉が首も送られて来たばってん、然る上(しかるうえ)はお屋形様(おやかたさん)にも申しあげんバならんぢゃらう。そぎャんしても、汝は、何ちう失態バしたとか」
 深水は己もその責任の一端は免れぬとは思ひつつも、九介の失態を厳しく問責した。
一刻ほど九介から事の詳細を聴取したる後、深水は当主忠房の許へと伺候する事にした。幼少の君主とは云へ、それは臣下たる者の務めである。深水の表情は沈痛な面持ちであった。普段から渋面ではあったが、今はより険しい。
その報告を聞き、忠房は不快感を露はにした。童顔ながら眉間には皺を寄せてゐる。そこはやはり生まれながらの君主である。聡明な資質でもあったので、老臣らの己の裁可も得ぬ勝手な振舞ひに腹も立ってゐたのであらう。幼君は、それを的確に表現出来ないだけであった。 「難儀ぢゃ」と、ただ一言発したのみである。深水は、「犬童九介に係る処分、更にこたびの不始末に加担したる者共の処分に就いては、のちのち改めてお屋形様の御意を得たく存じまする」
このやうに忠房に言上して、噴き出す汗を拭いつつ当主の前を辞去した。
 追って沙汰を待つやうに、と深水から言ひ渡されてゐた九介は暫くその座に留まってゐたが、やがて犬童頼安のみが再び入室してきて、九介に小声で言ふ。九介は頼安にとって一族の端に連なる。犬童は、九介が襲撃計画に当初より加担してゐたのではないかと危惧しつつも、焼酎を飲んだが為に襲撃を阻止できなかった事実をより重く見て、
「こン責めは汝が負はんバならんぞ。犬童の筋の者であれば、なほのこッたい」と言ふ。
 かう言ふ頼安の真意は解ってゐる。否、頼安に示唆されるまでもなく、既に己の心奥で決してゐた事である。
普門寺の襲撃現場に己の失態により遅参したそのときから、一旦は求麻川の河原で腹も切らむとした。だが、そこで腹を切って果てたでは己の役目は果たせまい。「全ては人吉に注進せし後の事ばい」と、ゐたたまれぬ気分ながらも考へてゐた。
その日の九介は、同輩の凍り付くやうな眼差しを気にしつつ屋敷へと戻った。


    (六)

 翌日の事である。非番であった九介は遺書を二通認めた(したためた)。一通は老臣宛のもの、一通はまだ若い己の妻と老母宛のものである。
――忠ならず、孝またこれならず。こたびの失態、身の置き所もなし――
さう認めて手文庫に仕舞った。午後になって、九介を案じる妻に、「久方ぶりたい。墓参に行くけん用意バしてくれんか」と、手桶に水を入れ、上等の線香を準備させた。
袴姿に二本差しで、屋敷を後にする九介を見送る妻の目には、薄く涙が滲んでゐる。昨夜からの九介の動きは、彼女をして何事かを察知させるに充分であった。夫の姿が見えなくなるまで立ち尽くしてゐた妻は、やがて屋敷の内に戻った。暫くの間、声を忍ばせて一頻り泣いた。更には、赤い目のまま仏壇に手を合はせてゐたのである。
四半刻ばかり歩いて、九介は犬童家の菩提寺に着いた。墓地はいくらかの木の葉が落ちてゐる以外は、きれいに掃き浄められてゐる。
父と祖父母の墓を後回しにして、先ずここからやや離れた場所の、眷属(けんぞく)の長なれば頼安家の先祖の墓前に先ず跪いた。
その後、今度は己の家の墓域に戻って、それぞれの墓前に向かひ線香を供へた。最後に、己の子供時分に身罷った(みまかった)父の墓標の前に端座した。その泉下の父に向かひ、彼は己の不忠・不孝を短く詫びていた。
端座したまま、九介は己の袴の帯を緩め始めた。その帯を緩めるごとに、静寂な寺内に衣擦れの音がやや響くやうにも思はれる。が、ゆっくりと己の引き締まった腹を押し開いて行くと、下帯の下には筋肉質ではあるが、丸い腹がその顔を覗かせた。さうして、今から切り開かねばならぬ己の腹を、九介は二度・三度と、さもいとほしげに撫で回した。
ほんの一瞬ではあったが、襲撃の朝の己の所業が悔やまれた。しかし、この切腹の座にあって武士のとるべき姿ではないと、改めて九介は思ひ直したのである。
ややあって、己の佩刀(はいたう)は父の墓前に置いた。九介は小刀を右手に握って柄頭(つかがしら)に左手を添へ、一気に左脇腹に突き立てた。更にその勢ひを持続したまま、気合とともに右に引き回した。前に突っ伏した九介の腹からは、臓物の一部が食み出してゐる。そのだらしなく垂れ伸びてグニャグニャとした掴みどころのない物は、闇に蠢く妖怪のやうでもあった。
  暫くの間、九介は襲ひ来る死の苦痛に打ち振へて全身を痙攣させてゐたが、ほどなくそれも止み、絶命した。「見事ぢゃッた」家中の士は、一人残らず彼を賞賛した。
 後日、深水はこの事件に拘(かか)はった者の処分を発した。しかし、必ずしも事態が十分に吟味解明された上での事ではなかった。
宗昌・盛誉兄弟と頼貞に、謀反の疑ひありとして進言して来た家中の士を含めて、共謀したと思はれる者数名を追放処分とした。いづれも犬童派の者が多数を占めてゐたのである。更には、安易に彼らの讒言を取り上げた罪として、宿老深水長智と犬童頼安は自らを謹慎とした。だが己らのこの処分は、幼君忠房の手前のみと云へなくもなかった。
この後、暫くの間犬童派は鳴りを潜めた。




生善院map

くま川鉄道湯前駅から徒歩30分


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