さなぼり

2.怨 念  (一)

 さて、その後ほどなく、その頼貞殿が多良木に参るとの報らせが届いたのでございます。義陽公とは不仲であったとは雖も(いえども)、ご兄弟でいらせられますゆえ、間違いなく墓参を兼ねての事でありましょう。ただ、人吉では居心地も悪ければ、墓参を終えて直ぐさま多良木へと向かい、黒肥地村に青蓮寺(しょうれんじ)を参詣されました。ここは相良氏初代頼景公以降の八代長続(ながつぐ)公まで、上相良の代々のご当主がお眠りになる墓所にございまする。
 その多良木に逗留される頼貞殿が宿所を、宗昌・盛誉の兄弟二人がお訪ねいたしたのでございます。勿論二人の訪問の目的は、久闊(きゅうかつ)を叙するためにあると同時に、義陽公のお悔やみを申し上げる事にございました。他に何がございましょう。ただ、それのみにございました。私はかように信じ切っておりまする。
 宗昌と盛誉との歓談の後、頼貞殿は再び薩摩へとお戻りになられましたが、これを漏れ聞きたる相良家中の一部では、いよいよ宗昌・盛誉兄弟討つべしとの声が密かに、されど大きく囁かれておった様子にございます。
 盛誉につきましてはさほど悪い噂は耳にせなんだものの、確かに宗昌についてはあまりよろしくない話も幾度か私の耳にも達しておりましたる事、これは事実でございます。何でも人吉の城中に於いても、他家の家人(けにん)をあたかも己の配下のごとく傲慢にあしらうとか、とかく人物が傲岸不遜(ごうがんふそん)で尊大であるなど、しかも湯山城で何を考えておるやも解らぬ等々の話もございましたため、私も密かに心を痛めておりました。そのような折、多良木で頼貞殿と密会せしとなれば、私は密会などと考えておりませぬが、彼らの恰好の餌食(かっこうのえじき)となったものでございましょう。
 かくの如くして、彼らは単なる憶測と妬みから様々な虚言を弄し(きょげんをろうし)、知恵を絞り、終には重臣方に偽の訴えを申し立てたのでございます。重臣方の中には、事の真偽をよく見極めたる上でと慎重なる意見の方もあったやにござりまするが、先刻も申し上げましたるごとく女性(にょしょう)の佐代様はやはり恐怖のほうがお強かったのでござりましょう。二人を討つべしとの意見に大いに賛同され、つまるところ、三月十六日を以って決行と決したのでございました。
 討手の大将黒木千右衛門はまだ年若く意気盛んな頃なれば、しかも米良と云う人吉からやや遠い地の侍ゆえに、多少の功名心があったのでございましょうか。すぐさま米良と須木の地侍数十名を引き連れ、求麻へと向う手筈を整えたようでございました。
 片や人吉に於いては、反宗昌・盛誉の軽輩どもは、万一この討伐が中止になった場合も踏まえて、どこまでも手の込んだ術策を仕組んでいたのでございます。

       (二)

彼らの仕組んだ術策とは、かくの如きものにございまする。
 万一の普門寺襲撃中止のお使者が発ちたる場合に備えて、人吉から岩野までの往還の各茶店全てに、偽の「触れ書き」を発する事にいたしたのでございました。
 もし早馬の発つとあらば、大方その使者は無類の酒好きとして名を馳せたる犬童九介(いんどうきゅうすけ)殿であろうと予側していたゆえに、この男に途上の茶店で酒を振舞わせ、更に酔い潰してしまわんと、かくなる魂胆でございます。
 犬童九介殿とは、重臣犬童頼安殿の縁戚の者にして、筋骨逞しく、きっぷの良い好漢にございました。勿論、九介殿本人は、そのような偽の「触れ書き」が出回っていようなどとは露ほども考えておらなんだのでございましょう。また、このお使者に発ちし事が、後にわが身を滅ぼすことになろうなどと、当人は思いも因らぬことであったに違いありませぬ。
 そのように偽のお触れが仰せ出されております中、ご重臣方、特に深水長智殿は襲撃の前日まで一抹の不安を抱いておいででございました。その不安と申しますのは、私も後々に伺い知りたる事にございましたが、「宗昌は何を考えておるのか解せぬ俗人なれば致し方あるまいが、盛誉は領民からも慕われておる仏僧じゃ。もしこれを討たば、相良家にとりて後々まで厄介な事になりはせぬか」と、やや考えも改まってきた様子にございました。終には襲撃の前夜となって、緊急に犬童頼安殿と佐代様に諮り、襲撃中止と決したのでございます。
 その中止の早馬は、彼ら反宗昌・盛誉派の予測通りでございました。九介殿が翌朝十六日卯の刻(うのこく・午前六時)に人吉を出立する事にいたしたのでございます。襲撃の段取りは巳の刻(みのこく・午前十時)でございましたゆえ、岩野まで二タ刻(四時間)もあれば充分であろうとの、老臣方のご判断でございましたでしょう。
 されど、ちょうどその頃、黒木を総大将とする討伐隊は法印盛誉の普門寺を目指して、山中に足取りを速めていたのでございました。

       (三)

 米良から岩野まで山道ばかりでございますため、凡そ八里(32キロ)ほどもございましょうか。黒木が一隊は、恐らく夜明け前より山越えして参りしものと思われまする。攻撃開始の刻限には、既に普門寺近くまで達していたようでございました。
 一方の人吉の動きが如何であったのか、と言うより犬童九介殿の動きがいかようであったのか、それをお話し申し上げておきましょう。
 ああ、しかしながら、私はもう苦しゅうございまする。これから先を語りますには、私にはもう耐え難く、今もまだ胸も張り裂けんばかりにございます。
 たとえ反宗昌・盛誉の一味徒党であったにせよ、何ゆえに謀まで巡らせて二人を誅せざればならなかったのか、何ゆえに弁明の機会さえ与えようとせなんだのか、思えば受け止めがたき仕儀のみにございまする。
 相良家に対する怨念は、まだ私の中にいくらか燻っておりまする。私の愛猫「玉垂(たまだれ)」とともに一応の怨みは晴らしておりまするが、元は私も御仏に仕える身、更に今は長毎(ながつね・相良頼房)公により度々ご供養も頂く身なれば、もうこれ以上の騒動は心苦しゅうござりまする。また、悪鬼と化した私の振舞いの一部始終を、私の口から、いかなればお話しする事が出来ましょう。一部には、私も慙愧に堪えぬ(ざんぎにたえぬ)ところもあるのでございます。
 幸いなるかな、私の手許に、この辺の出来事を記した絵草紙がございます。誰が、いつ頃著わしたる物かは存じませねど、さればこの草紙にお目をお通しくださいまして、後は色々とご推量願えれば幸いでございます。恥ずかしき事ながら、私も玉垂もおどろおどろしい絵姿にございまするが……。ああ、またこうして今、あの出来事を想い起せば想い起すほどに、まだ私も気が狂わんばかりにございまする。
 ただ、先ほども申しあげましたとおり、相良家を長年に亘って苦しめたる罪障(ざいしょう)は、本来ならば御仏にもお赦し賜らぬものであったやも知れませぬ。業深き(ごうふかき)女とは、大方私ごとき者を称する言葉にござりましょう。




山門

千光山生善院山門の看板には(猫寺)とある(出典:文化遺産オンライン)

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