1.玖月の述懐 (一)
これからお話いたします物語は、私が黄泉路(よみじ)に旅立って後に知り得たるものも多分に含まれてございますが、先ずはお耳を拝借いたしとうございます。
在世の頃、私は仏に帰依(きえ)したる身にて玖月善女(くげつぜんにょ)と称しておりましてございます。更にその剃髪以前、湯山城主・湯山弾正宗之(ゆやま だんじょうむねゆき)が室でもございました。夫との死別の後に僧形(そうぎょう)となり、夫・弾正の菩提を弔いつつ、日々を御仏に仕える身の上であったのでございます。
大方の皆様方の既にご推量の通り、私はもうこの世の者ではござりませぬ。ただ、つい先頃まで幽界をさ迷う者の一人であった事をご承知いただき、娑婆(しゃば)での私の存念の程を皆様にお伝えいたしたく存じておりまする。
あの凶事(きょうじ)以来既に五十年、数年前には相良長毎(さがらながつね)公により生善院(しょうぜんいん)もご建立いただき、更には追善法要も営んでくださりました。さればこれを機に、私もそろそろ仏界へと立ち戻り、真に成仏いたしたく存ずる次第にござります。なお、この生善院は、現今、別名を「猫寺」とも称されておるやに聞き及んでおりまして、物語とはこの猫寺に纏わるものにございまする。
私の享年でござりまするか。それは遠慮申し上げておきとうござります。ただ、弾正宗之が子、元湯山城主・湯山 佐渡守宗昌(さどのかみむねまさ)と普門寺法印・盛誉(ふもんじほういん・せいよ)と申す二人の子の母親と申せば、凡そ(およそ)ご理解賜らんものと存じまする。
なお、人吉の相良家とは、私どもの湯山家は遠戚でもございましたゆえ、夫・弾正は人吉の出城湯山城を任されていたのでございます。相良家には元々このような城砦(じょうさい)が、湯山城の他にも十数ヶ所ございました。城と申せど山の小さな砦でございます。配下も五十名ほどもおりましたでしょうか。大方はこの付近の地侍衆でございました。
さて、度重なる薩摩・島津氏との戦の中で夫・弾正は武運拙く(つたなく)討ち死に。それに伴い城は長子・佐渡守宗昌が護り、次子・盛誉は肥後国求麻郡(くまごおり)岩野村(現・熊本県球磨郡水上村岩野)の名刹(めいさつ)・普門寺の住持となったのでございます。湯山村と岩野村は、お互い隣同士の村にございます。この二つの村は、求麻の中心地人吉の町から凡そ六里から七里(24キロから28キロメートル)ほどもございましょうか。湯山村のほうがやや遠くございましょう。そして、わが子宗昌と盛誉、この二人の兄弟は私からさほど遠くない処に居を定めおりしものなれば、私をよく気遣ってくれる子らでございました。
また二人は、往時薩摩の吉松とか栗野(現・鹿児島県姶良郡湧水町)とかに居を構えし相良頼貞(よりさだ)殿とも昵懇(じっこん)でございまして、しばしば書(ふみ)の往来もあったやに聞き及んでおりまする。ただ、頼貞殿は人吉のお屋形(おやかた)様・相良頼房(さがらよりふさ)、後の義陽(よしひ)公とは腹違いの弟君であられまして、お仲があまり宜しくございませんでしたとか……。はたまた頼貞殿は島津と手を携え人吉の相良を討たんと画策しておるなどと、とかくあらぬ噂も飛び交うお方でございました。それゆえ、私自身も二人の頼貞殿との親交には、密かに心を痛めるようなところもあったのでございます。
その頼貞殿が多良木にお出向きになるとの事でございます。それが不幸な、事の発端となったのでございました。
事の発端についてお話いたします前に、その頃の相良氏と島津氏の確執をお話しておかねばなりますまい。
元来相良氏は、初代頼景(よりかげ)公が鎌倉殿より遠江(とおとうみ)国相良荘から肥後国多良木荘へ、地頭として下向(げこう)を命じられて以来のもの。既に三百年を優に越えておりまするが、薩摩の島津氏も同様、やはり鎌倉殿より薩摩に封じられてございます。
それからと申しますもの、相良氏と島津氏は互いに九州南部から中部に掛けて覇を競い、度重なる合戦を繰り返してまいりました。相良氏について申せば、二代長頼(ながより)公のとき、人吉の胸川(球磨川支流)に豪族・矢瀬氏を討ち、この地に趣向を凝らしたる結構を成して、こちらを下相良、多良木荘を上相良と称してまいったのでございます。もっとも人吉では長頼公を初代と申し上げているようでございまするが……。爾来、政(まつりごと)の本拠が漸次(ぜんじ)人吉に移ってまいった事は申すまでもございませぬ。
時代が下って戦国の頃、相良氏の勢力も絶大なものとなり、薩摩の大口、日向の椎葉・米良等、更に肥後の求麻は言うに及ばず葦北・八代を領有し天草も支配下に置いたのでございました。この頃の相良家のお屋形様は頼房様、後の義陽公でございます。一方の島津家は、豪勇で名を馳せた義久・義弘・家久の三兄弟の時代でございまして、薩摩・大隅・日向の三州を支配下に置き、更には求麻・人吉にもその触手を伸ばして来ていたのでございます。
中央では後の太閤殿下が、明智氏を討ち、柴田氏を討ち滅ぼし、着々と天下取りの野望を露(あら)わになすっていて、この九州でも島津氏を始め大友氏・龍造寺(りょうぞうじ)氏と各大名が競い合って九州の統一に血眼になっている時でございました。
中でも島津氏は日向の耳川の合戦において大友氏を討ち、勢い余って北上せんといたします。そういたしますると、その障壁となりますのが当然人吉に君臨せる相良氏でございましょう。
その一方の相良義陽公は、島津氏の北上を阻止すべく阿蘇氏の重臣甲斐宗運(かいそううん)殿とも誼(よしみ)を通じてございました。甲斐様は阿蘇氏の出城・甲佐城の城主でございます。一時的にせよ、島津氏は、ここは相良と事を荒立ててはならぬと考えたのでございましょう。されば、島津家当主義久公は義陽公に対し、相良氏との衝突を回避すべく起請文(きしょうもん)をさえお送り申し上げておりましたとか……。
されど相良氏の南の守りとも申すべき薩摩の大口の陥落に続いて、天正九(1581)年には水俣城も島津氏の手に落ちたのでございました。特に大口の陥落では、私も詳しくは存じませぬが、ご承知の一武村の剣客丸目蔵人佐長恵(まるめくらんどのすけながえ)様、こなたのご失態が大きかったやに聞き及びましてございます。まだお若い砌(みぎり)のことゆえ血気盛ん、功名に逸り過ぎた所為(せい)でもございましたでしょうか。因みに、この丸目様も相良氏の後裔(こうえい)でございます。
さて、とこうするうちに相良氏と島津氏の形勢は大いに変わってまいりまして、終にはさすがの相良氏も島津氏の軍門に降る仕儀(しぎ)と相成ったのでございます。
ただ、その降伏の条件が相良家には厳しいものでございました。葦北全域の割譲と人質を求めてまいったのでございます。その人質のお方こそ相良氏のご兄弟お二人、義陽公の第二子頼房様、後の名君長毎公。ご長子が頼房様のお兄君忠房(ただふさ)様で、義陽公のお後の当主をお継ぎになられる方でございます。
相良氏を己の支配下に置いた島津氏は、葦北全域割譲の後も更に八代の割譲も迫り、いよいよ本格的な北上を開始いたしました。その手始めとして島津義久公は、先ず阿蘇氏の甲斐宗運殿攻撃の先陣を義陽公に命じたのでございました。
義陽公は、「これはもう、死して宗運殿にお詫び仕る他にはあらず」と、討ち死に覚悟で宗運殿に挑み、響が原(現・熊本県宇城市豊野)に見事果てなされてございます。相良氏の島津氏に対する忠誠を認めた義久公は、相良氏の人質のうち忠房様を、直ちに人吉へと送り返したようでございました。
はてさて、前置きが少々長くなり過ぎたようでございます。話を先に進めてまいりましょう。この名将・義陽公のお腹違いの弟君こそ、これからお話申し上げます人物の一人・頼貞殿なのでございます。
では、頼貞殿が人体(にんてい)に付き少々申し上げておきたく存じまする。
義陽公のお腹違いの弟君にあらせられた事は、先刻お話した通りにございます。その為かお二人の仲はあまり宜しくなかったご様子なれば、薩摩の何処かの地に、長年そちらにお住まいでございました。為に、あれやこれやの嫌疑も掛けられたものでございましょう。
ただ、大口も水俣も陥ちて島津氏の統べるところ(すべるところ)となりますると、相良家では
「頼貞殿は島津と手を組み、何か好からぬ事を企んではおらぬか。次は人吉に攻め入る謀議でも凝らしているのであろう。されば頼貞殿、疾く(とく)討つべし」などと、陰では物騒な話も飛び交っていたものらしゅうございます。いえ、いえ、私もかようなる事実がありしものかどうか、詳しくは存じ上げませぬ。
そのような折りも折り、前の合戦で義陽公がお討ち死に。頼貞殿は恐らくその墓参を兼ねてのことでありましょうが、多良木までお出向きとの事。義陽公の首塚(くびづか)は八代との事ながら、墓所は人吉・願成寺でございます。やはり人吉での長逗留には、何か居づらい側面もございましたのでは……。
多良木と申せば上相良でございますが、この当時は既に下相良家十一代・長続(ながつぐ)公により滅亡させられておりまして、今はただ、黒肥地村(現・熊本県球磨郡多良木町黒肥地)に館址が遺る(のこる)ばかりになっておりましてございます。それとも頼貞殿は、相良家発祥の地を訪のう(おとのう)て、何か昔日の縁(せきじつのえにし)でもお探しになったものでもございましょうか。
上相良はご承知の通り、初代頼景公が鎌倉殿より多良木荘に封じられて以来、求麻川(球磨川)を天然の要塞として黒肥地の地に居館を構えられしものにございます。その構えはおよそ四十五間四方(81メートル四方)もございましたそうで、直ぐ前には川幅の広い求麻川を望み、後方には山々が控えておりまする。また東方には市房の山が、南方には白髪岳を望む絶景の地でもございました。
ただ、二代長頼公の時代になりますると、人吉に壮大な城郭を構えて、勢い人吉を求麻に於ける政や商いの中心となしたのでございました。自然、上相良の勢威は衰え、終には上相良八代頼観(よりみ)公の時その命運が尽き果てたのでございます。
その多良木を先ほどの頼貞殿が訪う(とぶらう)との話しにございます。報らせ(しらせ)が我が子湯山宗昌から、岩野村の普門寺法印・盛誉の許までもたらされまして、宗昌は、「頼貞殿が許へ伺わぬか。義陽公のお悔やみも申し上げねば」と申すのでございましたが、盛誉は思案げに首を振り「今は時期が少々悪しゅうはないか。頼貞殿へは、あらゆる嫌疑の掛けられておる時なれば……」と、このように申して乗り気ではなかったげにござりまする。
とは申せ、懐かしいのは盛誉も同じ。終には二人して、多良木の宿所まで頼貞殿を訪ねたのでございました。
さて、その一方の人吉城に於いては、頼貞殿や宗昌らを快く思わぬ家中の士が何かと謀(はかりごと)を巡らせていたようでございました。本来であれば先に頼貞殿の疑惑を糺す(ただす)べきであろうに、彼らはこの際傲慢なる宗昌をも討ち取ってしまわんと、かくなる陰謀を企んだものと思われまする。侍共の中心は、老臣・犬童殿配下の者らであったとも聞き及んでおりまする。彼らの謀と申しますのは、「頼貞殿が多良木に参るとあらば、宗昌・盛誉兄弟が頼貞殿と面晤(めんご)するであろうゆえ、これを以って、兄弟には相良家に対する謀反の心ありとして誅伐(ちゅうばつ)すれば良かろう」と、かような事であったらしゅうございます。
そこで更に彼らは、折を見て家中の老臣に次のごとき讒言(ざんげん)をいたしたのでございました。
「湯山兄弟は頼貞殿と密会し、島津と手を相携えて人吉・求麻に攻め入る謀略を画策いたしておりまする。いま、跋扈(ばっこ)せる奴ら奸物どもを誅伐せざれば、いずれお家に仇なすは必定」
これを聞き、驚愕したのはご重臣方にございます。直ちに深水長智(ながとも・宗方むなかた)殿、犬童頼安(よりやす・頼母たのも・休矣きゅうい)殿らは、お屋形様の姉君・佐代様を含めて協議なされまして、事態が最悪化する以前の討伐止むなしと決定(けつじょう)いたされしものの如くにございました。ご当主のお屋形様・忠房公は、御歳まだ十歳なれば、姉君・佐代様が協議に預かられたものにございましょう。
殊に、佐代様は女性(にょしょう)ゆえに恐怖心も一段とお強うございまして、「もし、この人吉・求麻が薩摩兵に蹂躙されるとあらば、我等が命も危うかるべし」と、かように一日も早い誅伐をお望みになりましたそうな。
討伐隊の総帥には、米良の地侍 黒木千右衛門(くろきせんえもん)と申せし者が選ばれたげにございます。米良とは日向国米良荘の事にございまするが、米良(現・宮崎県児湯郡西米良村・宮崎県西都市東米良付近)も須木(現・宮崎県西諸県郡須木村)も椎葉(現・宮崎県東臼杵郡椎葉村)も相良氏の支配地でございますゆえ、彼らの相良家に対する忠誠の度合いを測るためにも、この役目が仰せ付けられたものでもございましょうか。
さて、襲撃の日は天正十(1582)年三月十六日と決したのでございましたが、湯山城にある兄・宗昌に攻め寄るのか、あるいは岩野に普門寺の盛誉を攻めるのか、まだ決しかねておる様子もあったやにございます。つまるところ、何かの通達を以って宗昌を普門寺の盛誉の許に(もとに)呼び寄せ、二人を一挙に殺害せんと謀って(はかって)いたのでございましょう。
因みにこの年の洛中では、織田信長公が明智様の弑逆(しいぎゃく)によりお果てなされ、秀吉公の天下取りが堰を切ったように動き始めた時でもございました。もっとも、その京での動きが、相良でのこの変事と深き繋がりがあろうなどとは露ほども思いませぬが。
話を元に戻しまする。
襲撃の日が決したその後、宗昌が如何なる報らせ(しらせ)を受け取っていたかは知る由もございませぬが、宗昌は日向方面へと逐電。若き日に妻子も亡くしてありし事なれば、身軽く行方を晦ませ(くらませ)しものにございましたろうか。この後暫くの間、杳として(ようとして)生死のほども知れませなんだ。ただ、私も今このように幽界に参ってみますると、盛誉殺害の後のとある日、日向の隠れ里を相良の一味の者に襲われて殺害された旨、宗昌も申しておりまする。
それでは、いかようにしてこの事件が起きてしまったのか、それをこれよりお話してまいりとう存じます。
本題に入ります前に、やはり普門寺と私の庵についても少々触れておいたほうが宜しゅうございましょう。
寛永二(1625)年、現在の千光山生善院(せんこうざんしょうぜんいん)が建立されます四十数年前、すなわち私どもが現世にありましたる時分、その場所に普門寺がございました。いえ、現在の生善院よりも更に大きな伽藍であったと申し上げても宜しゅうございましょう。普門寺の創建はもう遠い昔、鎌倉の頃でございます。それ以来、代々の法印がこの寺院を護ってまいりました。
盛誉が法印に、いわゆる第一等の僧位たる僧正に並べる位を授けられて、ここの住持になりましたのは、さほど古い話ではございませぬ。盛誉法印と雛僧(ひなそう)一人、それに寺男三人とで寺を護り、村の衆も「法印様、法印様」と、慣れ親しんでいたのでございました。ああ、あの悔やみきれぬ兇変(きょうへん)が出来(しゅったい)いたしますまではのう。
私はと申しますると、私の夫・弾正と死別の後は髪をおろし、この普門寺から一里ほど離れた山中に庵を営み菩提を弔う日々にありしことは、先に申しあげたとおりにございます。
忘れも致しませぬ。天正十年の三月のあの日、岩野の普門寺が突如襲撃を受けたとの報らせに訝しみ(いぶかしみ)驚き、取る物も取りあえず駆けつけたのでございました。桜も盛りを迎えようという時季にございます。されど私が着到いたしましたのは、歯痒くも既に全ての寺の者は殺害され、堂宇(どうう)は炎上し尽くした後にございました。
運よく、と申しましょうか、時宜(じぎ)よろしく事を事前に察知した宗昌は日向に逃亡。しかし、後に相良の手により討たれし事、これも先刻申し述べたとおりにございます。
泉下(せんか)での宗昌の話しによりますると、宗昌は盛誉に対し共に難を避けんと図ったげにござりましたが、盛誉はこれを拒み「兄者ともども拙僧も逃亡せしとあらば、相良の家中の者より、頼貞殿に、ひいては薩摩に加担したるに相違なしと、あらぬ疑義を差し挟まるるは必定。されば拙僧はここに居残り、島津との交渉なぞ露ほどもこれなく、はたまた頼貞殿は勿論の事、我ら兄弟にも相良家討滅の陰謀など一切関わりなき旨申し開きをいたしまする」と、そのまま普門寺に居残ったのでございます。そして、徐々にこれからお話してまいりましょうが、かくして盛誉は落命いたしましてございまする。変事の細部を知り得ましたるは、私も後々の事にござりました。
相良藩 化け猫騒動(猫寺の由来)は、水上村のHPに詳しく掲載されています。
水上村の生善院は、普段は「猫寺」と呼ばれ、狛犬ならぬ「狛猫」が山門の両脇に建ち、訪れる人を見守っています。ウィキペディアの山門の写真では石作の「狛猫」が窺えますが、最近の写真では猫の部分を黒く塗られて、ただの黒猫になっている様です。(残念!)
尚、生善院(水上村岩野)までは、くま川鉄道湯前駅から、徒歩30分ほど。
今から76年ほど前に、岡原中学校の遠足で訪れたと言われる杉下潤二様から当時の写真の投稿が有りました。
山門の階段に座っての写真は、前列右から2番目が杉下さん。何と下駄ばきです。
山門の狛猫(Wikipedia) | 狛猫ではなくただの黒猫 |
76年前の中一生 | 生善院観音堂(1625年建立)(じゃらんネット) |