ふれなで祈願考 所感 小川 龍二
2月1日
第一話の「ふれなで祈願考」を拝読いたしました。当初、平仮名で「ふれなで」と見聞きしたとき、「さて、ふれなでとは何だろう」と正直考えた次第でした。あるいは、球磨地方に「そのような方言があったかな」等々。しかし、これが「触れ撫で」であることを知り納得いった次第でした。
なるほど、確かに「触れ」、また「撫で」するような信仰が結構国内外にあるようですね。いや信仰というより、やはり祈願というほうが正しいのでしょうね。多鈕細文鏡など、過去に耳にしたことはあっても、これらに「手ずれ」の跡があることなど初めて知り得た事でもありました。さらに各地の神社仏閣に「賓頭盧さん」があり、これらの各部位がすり減っていることも本で見たことがありました。やはり人間とは弱い生き物で、己の身体の一部に病弱な個所があればそれを何とか克服したいという思いの現れであろうと思います。このメールをしたためている最中に思い出しましたが、太宰府天満宮には臥牛があり、その頭を撫でると知恵を授かる、という言い伝えがあるようです。当方も二、三度大宰府に行ったことがありましたが、主な目的は大宰府政庁跡の見学でしたから臥牛もよく覚えてはおりません。言われてみれば確かに臥した牛の頭が光っていたような……。
第一話を拝読させていただいた感想としては甚だ簡単なものかと思いますが、次回をさらに楽しみにお待ちしたいと思います。思考力も随分鈍ってきた今日、この「ふれなで祈願考」で改めて勉強しているつもりです。
2月6日
「ふれなで祈願考」第二話、興味深く拝読いたしました。12支、すべてにわたってこのような祈願物?があるとは考えもしませんでした。それにしても貴兄においては、よくぞこのような調査もされたものだ、と感心もしています。三重県伊勢市の松尾観音寺の板目、人の手が加わってこの様な文様ができたのでは、と考えられるほどです。しかし、確かに人の手が加えられていますね。触れ撫でするという行為の人の手が……。 耶馬渓の羅漢寺の「極楽のなで犬」ですか。実はわが家のカミさんの出自が福岡県の東端で、中津市の西隣になりますが、羅漢寺には1度だけでしたが当方も訪問したことがありました。これはもう50年ほど前のことで、当時の当方としてはこのような「なで犬」があったのかどうかさえ全く記憶にありません。婚前でもありましたからそのようなことには関心がなかったのかもしれません。
岡山県、和気神社には「撫でしし」とか。和気町というと和気清麻呂の出身地ですね。一方の当地での話、現在の我がマンションから約1~2キロ程度のところに足立山という低山が存在していて、結構イノシシが出没する地域のようです。この山の中腹に妙見神宮という社があって、和気清麻呂の像も建てられているようです。また近くには清麻呂がイノシシの背に乗って走る姿の像もあったことと思います。当方はあまり神仏に手を合わせるという習性が少ないため、かつて近くまで水を汲みに行っていたことが結構ありましたが、幸か不幸かイノシシに出くわしたことはありませんでした。清麻呂とイノシシとの伝説はもうすでに貴兄に置かれてはご承知の事かと思いますが、皇位を狙う弓削道鏡の野望を打ち砕くべく宇佐神宮に使わされた清麻呂の足の筋を切り彼を動けない者にしたが、幸いイノシシが彼を背にしてこの地の湯川まで連れて行き湯治の末回復させた、と簡単にはこのような話であったと思います。詳しくはパソコンでも見られるようですからそちらに譲りますが、岡山の和気神社でもやはりイノシシが祭られているのですね。初めて知りました。
貴兄の労作、取り敢えず目を通させていただきました。まだまだ全国には面白いものがあるようですが、改めてまたゆっくり読了させていただきます。 全国的に寒さがぶり返してきたようです。
2月15日
第三話「いろいろな触れ撫で祈願」、興味深く読ませていただきました。必ずしも信仰心からばかりの「触れ撫で」ではない、ということも良く分かったような気がします。特に当方の関心を引いたのは、金塊の触れ撫でによって往時の4分の1ほどまで擦り減ってしまったということ、いかに金や銀が柔らかい金属であろうともそこまで擦り減るものだとは考えもしませんでした。いやあ、悪い者共がいて、少しずつ削り取っていったのでは、と思ったほどのことです。それにしても貴兄の様々な事物に対する探究心には、いつもながら感心させられています。やはり学者たる血が、そのように向かわせいるのでしょうね。
2月22日
第四話、拝見いたしました。中でも、やはりあさぎり町上南の「紙つぶて仁王像」に当方としては注目いたしました。そのような仁王像の存在など、また濡れた紙礫をぶつけるなど全く想像もしないことでした。これが、特に旧上村にあったことなど驚きです。また、その紙礫を神仏にぶつけて、己の不具合箇所を引き受けてもらうという祈願でしょうか。神仏こそ良い迷惑であるかもしれませんね。やや笑える話であるのかも。
「百見不如一触」、僭越ながら先日のわが想いと一致するようなこともあったようで嬉しい限りです。「さする刺激で神経細胞再生」とか、確かにそのようなことは有り得ることかな、という思いです。舌足らずの表現ばかりで申し訳ない思いがいたしますが、今後の当方の作品作りの上においても、大いに役立つこともあるような気がしております。今後の益々のご研究や著作を楽しみにしております。
五感と五官 小川 龍二
簡単に「ごかん」などと言うが、「ごかん」に「五感」と「五官」があるとは私はうかつにも思いもつかなかった。考えてみれば確かにそうである。国語辞書によると、「五感」とは「人間が外界の刺激を感じることができる五種の感覚。視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚」とある。「五官」とは当然その五感を生じせしめる5つの感覚器官、ということになるだろう。目・耳・鼻・舌・皮膚のことだ。
さて、「ごかん」のいずれをとっても、人間に不必要なものはない。じゃあ、何が最も重要か、と聞かれれば誰しも返答に窮するはずだ。ただ、視覚と聴覚については、ある程度触覚でカバーできるかもしれない。しかし、嗅覚と味覚については触覚でもって補完することは無理だと思われる。現今の私の情けない頭では、これらの代用となるものなどどこにも見出しえないのである。ただ近未来的に見れば、生成AI等の目まぐるしい進歩によって、このような問題もいずれ解決できるようになるのかもしれない。
私の知人に、彫像と触覚についてあれこれ調査・探究している方がある。彼は各地の神社仏閣に鎮座する像を頭に描いているようだ。彫像と私は言うが、これらは既に「神格化されている偶像」と呼ぶべきかもしれない。彼は、これらの偶像に触れたり撫でたりする行為を「ふれなで祈願」と呼んで、その著作物も著している。言わば古今東西の一般大衆が、神社仏閣に安置されている動物等々の彫像に「触れ・撫で」してご利益にあずかろうという、一種の人間の深奥に潜む欲求の探究である。
ただ触れ・撫ですることは、触覚の不自由な方々を除いて各障碍をかこつ人々にとってもできないことはない。少なくとも、神仏のご加護を享受できたような感覚に浸れないこともないだろう。人間とは強いようでも、結構弱いものである。その弱さが神仏にすがり、さらにそこに付属する彫像に願をかけるのであろう、と思われる。
五官に障碍を持つ人々、あるいは胸の内に何らかのわだかまりを持つ人々に、「触れ・撫で」する行為によって心の福音がもたらされれば幸いである。やはり五感のうち、触覚については特別なものであろう、という気がしている。