日を経ずして、鶴富は腹に強い痛みを覚える様になった。「姉様も身重で大変じゃろう」と、小一郎の妻加代も時々来て呉れていた。
この日は何時もの症状と違っている。腹の痛みは一定の時間を経て繰り返した。下腹部に針を刺す痛さである。
「産まれる……」
加代は急いでくどで湯を沸かし、産婆を呼びに人を遣った。
程なく汗を拭き拭き来た産婆は、鶴富を診るなり、
「こりゃあ、もう頭が見えとる」
そう叫んでから四半刻(30分)とせず、泣き声の大きな赤子を無事出産した。女児であった。
朦朧(もうろう)とした意識が彼女の中で徐々に覚めていく時、大八郎様は如何に思し召すか、と先ず思った。男児にありしものならば、何れ下野に在る宗久が許へ、己のいとし子を差し遣わさねばならなかったであろう。女児でよかった。女児にあれば、吾が手許に何時までも置いておく事が出来ようものじゃと、そうも考えていた。
平家の元落武者はもとより、源氏の討手の一部残留者も、勿論椎葉の村の衆も、皆こぞってこのやや子の誕生を祝福した。椎葉為継は云うまでもない。彼は所領を嗣子小一郎に譲って以来、小一郎夫婦と同居の隠居の身であるが、夫婦にまだ子を儲けられないでいる中での女児の誕生は、彼をして殊の外喜ばせていた。
「おお、可愛(もぞ)か子じゃ。判るかのう。そなたの爺(じじ)じゃ」
と、まだ歩く事も話す事も出来ぬ女児に、いやまだ目さえ見えぬであろう孫の枕元に遣って来ては、頻りと話し掛けている。
女児は「久(ひさ)」と命名された。宗久の一字を貰い受けたのである。
相も変わらず宗久からの書(ふみ)はなかった。鶴富は幕府の那須大八郎宗久殿宛として、久誕生の書状も認(したた)めたのであったが、下野へと下向したのか、宗久からは如何なる音沙汰もない。
「この子も、父御(ててご)の顔も知らぬ儘に育ってゆくのであろうか。いや、父御は居らずとも 私はこの山懐に、やや子とともに生きてゆかねばならぬ」
鶴富は、吾が身に似た久の境遇を思い嘆息もした。しかし、子供を授かった事により、今までどこかひ弱さも残していた若い女性(にょしょう)は、昨日までと違った母の靭(つよ)さを見せ始めていたのである。
誕生から五年を経て椎葉の久は、子供の頃の鶴富の様にすくすく育っていた。
「母様、これは何じゃ」
畑仕事に精を出す鶴富の後ろから、娘の大きな声がする。振り返ってみると、得意満面の久の手には 何か大きな黒い物がぶら提げられている。
驚いて鶴富が近付くと、何とそれは 久の小さな指先に足を抓(つま)まれた土竜(もぐら)の死骸であった。
「いけませぬ。そこに早う捨てなされ。それは土竜じゃ」
鶴富は畠の隅にそれを捨てさせ、穴を掘って土に埋めた。
近頃の久は、好奇心旺盛な時期である。鶴富が驚き、呆れる事ばかり一日中している。
木登りもしてみせる。勿論 大きな木ではないが、それだけに細枝だから危険極まりない。何時ぞやは柿の木から落ちた。幸いにして大事に至る事はなく、落ちて暫くは泣いていたが、次の遊びに入った途端ケロッと忘れている。
ついこの間は、男の子らに混じって戦遊びをしていた。それだけであればまだ良い。例の斬殺された黒木の兄が一子を木切れで殴り、ワァワァ泣かして帰って来た。数え上げたら限(きり)がない。
「やはり武人の血であろうか。若しこれが男(おのこ)にあらば、大八郎の殿は如何に喜びたまいしものならん」
そう思うと、宗久に相済まぬ思いもした。しかし何よりも、この常にジッとしていない娘を養育していく自信も、半ば失くし掛けていた。
「よか、よか。子供じゃによって。いずれは……」
そう言いながら、為継も始終おろおろしながら久を見守っている。
この頃の久は、随分鶴富に似てきたと為継は思う。やや切れ長で黒目勝ちの大きな目や、豊かな頬の愛くるしさは、椎葉に初めて来た頃の鶴富にそっくりであった。鶴富だけではない。太く濃い眉は、椎葉を去った宗久をも髣髴(ほうふつ)とさせた。
「男でなくて良かった。これが男にあらば、いずれ宗久殿が許に……」
折に触れては為継も、久が女児で良かったと鶴富に話し掛けていた。
そして、さらに数回の春秋を重ねた。十になった久は、さすがに近頃は村の男の子らと戯れる事も少なくなった。
鶴富は、己が子供の頃宮原の親重に教わった通り、久にも読み書きを学ばせ始めた。活発で勝気な性格の儘に久は育ちもしたが、頭の方も利発な娘であった。全ての物事に対しても積極的で、愚図ついたり物怖(ものお)じしたりなど一切しなかった。
鶴富が誦(じゅ)する詩歌も、久は忽(たちま)ち諳(そら)んじてみせた。一時的に記憶しているだけかと思いもしたが、数日を経てもしっかり覚えているのである。鶴富のほうが誤って仕舞うと、逆に久が、「母様それは違う」と訂正してくる始末である。
宗久からの音信はもう幾年もない。ただの一度だけ、久の様子を問うて来たのみである。
山椒の木に吊り下げられた鈴も、あの時以来その儘であった。木の丈もまた少々上に伸びたのであろう。鶴富の背丈ではもう届き兼ねる高さまで、何時の間にか成長している。
近頃の鶴富は、宗久との再会など疾(と)うに諦めきっている。それだけに久の成長のみがこの母の願いであり、年頃になれば娘に相応(ふさわ)しい婿取りをする、それだけが望みとなっていた。
しかしその一方、成長してゆく宗久が遺児 久を、何とか彼にひと目でも見せて遣りたいとも思った。が、女の身で、まだ見た事も、増してや行った事もない下野国・那須荘なぞ遠過ぎる、到底 己には不可能であろうと思われた。
第一に、先ずこの険しい山々を下らねばならぬ。下ったところで、他所(よそ)とて宮原以外知らぬではないか。今ではすっかりこの山里の女となった鶴富である。京・鎌倉等の華やかな風俗に、今の彼女が何処まで馴染めようか。時の流れと共に、かつて親重から教わった人々の心情も、もう当時とはすっかり変わっていよう。
それに宮原の養親も、椎葉の為継も、もう老体である。いつ何時、何が起きても不思議はない。
あれこれ思案すると、とても下野までなぞ行けるものにはあらざる、と改めて思っていた。その上、仮に宗久を訪ねて下野まで出向いたところで、彼はもう既に 別の妻子を為している事であろう。あらゆる危険を冒してまで下野に行き、後悔して椎葉に戻るなど考えられない事であった。
女とは如何に不自由なものであろうか、何一つとして己の意に添うものなぞありはせぬ。鶴富には女として生を享(う)けた吾が身が、一層恨めしく思われた。
久も十六になった。すっかり大人びて振舞う姿に、近頃では祖父為継も気圧(けお)されるばかりである。
だが老いた為継も、鶴富と久が事は気懸りと見える。或る時の事、
「実はのう。先だって、さる者より祝言の話があってのう」
と、為継が切り出した。
祝言と聞いて、鶴富は顔を輝かした。
「義父上様、それは宜しゅうござりました。早速その縁談(はなし)をお進めなさりませ。私も早うその方にお目に掛かりとうござりまする」
「いやいや、そなたは何か思い違いを致して居らぬか。わしが事にはあらず。そなたが事ぞ」
鶴富は吃驚(びっくり)した。疾(と)うに連れ合いを亡くしている為継、彼が後添(のちぞ)いを迎えんとして切り出した話とばかり不覚にも思い違えていたのである。しかも、その話と云うのは為継が事などではなく、まさか己の婚儀のそれであったとは。
鶴富には、もう二夫に見(まみ)えようなどの気持ちはさらさらなかった。もし婚儀と云わば、娘の祝言の方が先では、と そう思った。
「まあ、義父上様。冗談(わやく)が過ぎまする。私は嫌でござりまするぞ。既に私も、四十に懸からんとしておりまする。されば、今更他家に嫁ごうなどと、私は露ほども思いませぬ。久が話しにあらば、いざ知らず。また、義父上様がご不自由の身ゆえ後添いをと申さるるのにあらば、私は決して抗(あらが)いは致しませぬぞ。むしろお祝いをなん申し上げまする」
為継は苦笑して、頻りと薄くなった白髪頭を掻(か)いている。
「いやはや、とんだ藪から蛇じゃ。いや、わしも後添いなど望んでは居らぬ。身の回りは、何時も小一郎の嫁が気付こうて呉れるでの。それよりか黒木が兄者殿、そなたも存じてあろう、名を何と申せしか、そうじゃ智成(ともなり)殿じゃ。その智成殿その智成殿が先年妻を亡くしてより後添いを探しておっての、姫様では恐れ多けれどと申しつつも、そなたさえ諾(うん)と言うて呉れればとの事なのじゃ。如何(いかが)じゃろう。わしは良か縁談(はなし)とは思うがの。それに、大八郎殿はもはや戻りは致さぬ。下野へ下りぬるとあれば、既に彼(か)の地に妻子も儲けて居ろう。そろそろ見切りもつけねばならぬぞ」
「義父上様、その儀ばかりはもうお許しを……。大八郎様が今更お戻りとなどとは思いませぬが、一度はもう一人で生きてゆかんと操を立てたる身、平にご免下さりませ」
黒木智成が事は鶴富も良く知っている。昔、源氏の討手の者共がこの椎葉に初めて遣って来た頃、三人一緒に斬り込んで逆に斬殺された かの黒木が兄者であった。
決して悪い男ではない。むしろ村一番の器量人と云ってよかった。ただ鶴富は、もう男の都合によって己の人生を翻弄(ほんろう)されとうない、と自由に独りで生きる道を選んでいたのである。
鶴富の頑(かたくな)なまでの強い意志を汲んだ為継は、
「左様か。されば致し方あらず。先方(あちら)にはわしより、然るべく申し伝うべし。じゃが、縁談はこれのみにあらず。久にもあるのじゃ。智成殿が第二子智行(ともゆき)殿じゃ。今年二十歳(はたち)じゃと申す。この智行殿が久を痛う気に入りし由、『わしが事より智行が縁談を勧めて下され』と智成殿の申し入れなのじゃ。わしは母娘(おやこ)揃うてと云うも悪しき話にあらずと、むしろ喜んでありしが、そちが嫌じゃと申すにあらば無理強いは致さぬ。されど、久が事のみでも進めてみては如何(いかが)じゃ……」
智行とは、久が子供の頃 戦遊びの最中に棒切れを持って追い回し、終には泣かしたあの男の子、智成が次男であった。その智行も、もう今では嫁を娶(と)ってもおかしくない年頃である。
「智行殿にござりまするか。なかなかの殿御と思いますれど、久が諾(うん)と申しまするかどうか。それに、私が智成殿の申し入れをお断りせしとあれば……。如何((いか)に?」
「いや、それは懸念には及ばぬ。先程よりの話しの如く、智成殿は己が事より、むしろ智行殿と久が事こそ一層ご執心なのじゃ。久が心を予め諮(はか)りたる上で、早急に事を進めんが良かるべし、とこそ考えるがの」
鶴富の縁談は諦めたとしても、久のそれには大いに乗り気の為継なのである。彼女は久にこの縁談を持ちかけてみる事にした。
ただ、ひとつだけ条件を出した。その条件を先方が請けて呉れるにあらば、娘を説得してみると言うのである。
「義父上様、唯ひとつお頼み申したき儀がござりまする。頼みとは、智行殿へは吾が那須の家を継がしむべく、久が元へ婿入り願い、その為にも新しく屋敷を建てていただきとうござりまする。いえ、私のみはこの屋敷で十分にござりまするが、三人の住まいとなり、更に何れ子でも為しましたるならば、もう狭うござりましょう。婿殿に那須の姓を継がせたもうは、下野の大八郎様がご意思にもござりましたれば」
「おお、左様であったな。されば、黒木殿へも左様申し伝うべし」
と、答えながらも為継は、鶴富はやはり今でも心の隅の何処かに、何時とも知れぬ宗久の帰還を待ち侘(わ)びているのであろうと感じていた。鶴富は口にこそせぬが、女の性(さが)とはこうも、と彼はつくづく思い知らされていたのである。
鶴富が智成の申し入れを拒んだ事により、両家の間に気拙(きまず)い空気が流れるのではないかとも思われたが、以外と久の縁談は次々と調えられていった。久も智行が事は憎からず思っている様子である。
話は着々と進み、風薫る卯月(うづき)の佳き日に無事祝言が執り行われた。
そしてこの日より黒木智行は、那須下野守智行と称し、椎葉に新たな那須家を設立したのである。