さなぼり

「山の笹舟」 ―― 平氏一門に血を享(う)けしゆえに

   別 離

    (一)

 鶴富の腹は、日増しに大きく膨(ふく)らんできた。今ではもうその腹のやや子の父親が誰であるのか、詮索する者とて一人もいない。早く源氏と平家の融和の印しを見たいと言う者ばかりである。
 ここ三ヶ月程の間、重い腹を抱えて彼女も多忙であった。
先ず、小一郎は中瀬が娘加代を娶(めと)った。続いて三月も経ぬ内に、小一郎が妹マツは高橋家へ嫁いだのである。打ち続く慶事に、その大半は為継が仕切ったとは云え、身重の体の鶴富とて安穏(あんのん)としている訳にはいかぬ。さすがに少々の体の気だるさを感じていた。
「次の慶事は姫様じゃて。早う玉ん如(ご)たるお子が見たかもんじゃ」
弟妹二人の婚姻の席でも人々は皆囃(はや)し立てたが、鶴富にはこの儘、良い事ばかりが続くとも思えない。何時(いつ)かは屹度(きっと)、何時の日かのさほど遠くない時期に、来て欲しくない日がやって来るであろう。そう考えると、打ち続く戦乱の世に生を享けた己が、今更ながら呪わしく思われて来るのである。
 一方の宗久はすっかり村里に溶け込んでいる。
追討使として率いた兵の大半は、既に鎌倉や下野(しもつけ)へと戻した。
――平家の残党共は、一人残らず討ち果したり。身共は今暫く此処に逗留(とうりゅう)の上、民人(たみびと)共が生業(なりわい)を検分致し度(た)く存じ居り候――
と帰還する兵士共に言い含めてある。勿論、鎌倉への書状も認(したた)めた。
 更に宗久は、平家の多くの落武者が生活する山の中腹に祭られた祠(ほこら)を、やや大きく造営した。鶴富が屋敷の直ぐ近くではあったが、鶴富や己が為ではない。平家の守護神厳島神社を落武者共が分祀(ぶんし)して、彼らが密かに参拝していたものを、より以上に大きくして遣った(や)ったのである。
 思えば宗久も数奇な運命であった。壇ノ浦に平氏が滅亡して後、各地に散った残党の中の椎葉山中での追討は、本来宗久が兄 那須与一宗高が受くべきものであった。以前に、与一宗高は工藤(くどう)祐経(すけつね)と共に日向へと下向(げこう)しているしている。当時の鎌倉では、安徳帝の崩御(ほうぎょ)、更に平氏一族の滅亡についてかなりの疑義を差し挟んでおり、日向にも兵を差し向けていた。またそれ以上に、壇ノ浦にて滅失したる三種の神器の行方に関して、各地に兵を送り必死に探索していたのである。
工藤祐経とは、後の頼朝による富士の巻き狩りの折に、曽我(そが)兄弟に討たれる事になる文武両道に秀でた人物で、頼朝の股肱(ここう)と頼む臣である。幸いにもこの時には、祐経が神器の奪還を果たし、与一と共に鎌倉へと帰還したのであった。
更に後日、落武者討伐の大将として、与一は二度目の日向への下向を命ぜられた。が、与一はその折 病に罹(かか)っていて、命(めい)は舎弟大八郎宗久にと経巡って来た。
 命を奉じた宗久は、日向国五ヶ瀬へと兵を進めた。総勢百名程を各地へと分散して、己を中心とする一団は、耳川の支流十根川沿いを椎葉へと向かったのである。その後十根川沿いの適地に陣屋を構えて、後に鶴富が屋敷近くまで本陣を移動したのであった。
もしもその時、弓の名手与一宗高が病に臥(ふ)せっていなかったら、大八郎宗久がこの山中を訪れる事はなかったであろう。この椎葉に下向する事のなかりせば、落武者共に対する憐憫(れんびん)の情に誘われる事もなかった筈である。
否、それ以上に宗久にとって大切に感ぜられたのは、鶴富との出会いであった。鶴富が腹に、今や子を為(な)さんとしている事実であった。
かつて、文覚(もんがく)上人が遠藤盛遠(もりとお)と称してありし頃、渡辺渡(わたる)が妻袈裟御前(けさごぜ)に懸想してその袈裟を誤りて殺害、後に仏門に帰依したる話が想起された。
宗久が鶴富を殺害する事も、仏門に帰依する事もなかろうが、いっその事 武士を捨て、この椎葉の地に生きようかとも徐々に思い始めている。出来得る事にあらば、鵜戸に身を隠せる鶴富が父御 景清殿もこの地に共に暮らさばよからん、とさえ思っていた。
宗久は、景清が安否について、鎌倉への書(ふみ)も発(た)てた。しかし何の音沙汰もない儘に徒(いたずら)に日は過ぎ、鶴富の腹はいよいよ臨月に近くなっていた。

     (二)

 夏の椎葉の山々では、あちらこちらで焼畑の火の手が上がっている。
(ほむら)は乾燥した地肌に喰(くら)い付く様に、めらめらと燃え広がって行く。ただ、斜面の上段から下段に向かって順次火を入れていった。一気に燃え広がるのを防ぐためと、少しでも表土を長い時間焼くためである。焼けた草木は肥しとなった。
焼畑の際には一家総出である。自然の神々に祈り、自然の恵みに感謝し、その後 火を入れる。そのうちの誰かが他の場所に延焼せぬよう火を守った。
その激しく燃え盛る炎を検分していた宗久は、一方で戦火に焼き尽くされた京や他の町々を思い浮かべていた。
「愚かなる事を……」
修羅場と化した都大路、その火炎地獄の中を逃げ惑う民衆の姿を思い起こして、宗久は思わず一人で呟いている。
「戦の炎は何も生ぜしめねど、此処の炎は人に糧(かて)を生ぜしめる。この炎こそ本来あるべき姿なれ」
と、山の斜面を舐め尽くす焔を眺めつつ、彼の心には何か沸々(ふつふつ)と温かい物が煮えたぎっていた。
 焼畑の、まだ火の後も生々しい頃、蕎麦の播種(はしゅ)をする。全て自然の意に逆らう事なく、先人から村人達に伝承された通りの敬虔さで作業に従事するのであった。
「何と此処は大らかなのであろう、優しさに満ちし処ならん」
そう、今更ながら思っていたのである。
 その宗久の許へ、幕府からの使者と云う報が齎(もたら)された。急ぎ急ぎ屋敷に戻る道すがら、景清が件にあらずや、などと考えつつ小走りに走って行った。
屋敷に着くと騎馬武者二人待っていて、何れも侍(さむらい)烏帽子(えぼし)姿に太刀を佩(は)いている。使者は顔見知りではなかった。
使者の口上の後 書状を受け取って開いてみると、急ぎ帰還すべしとの命である。
「遂に……」
宗久は絶句した。予想されない事ではなかった。が、今その命を目の当りにした時、偽りではないかと云う思いと、何を今更、と全てを否定したい様な思いにさえ駆られた。此処に下向してより、既に三年に近い月日が流れている。もうこの地で生を全うしてもよい覚悟にもなりつつあった。
 鎌倉の勢力図絵も大きく変わりつつある。先に頼朝が不慮の死を遂げ、二代目頼家も伊豆に北条時政(ときまさ)・義時(よしとき)親子に弑(しい)されて、今や天下の実権は完全に北条執権家に掌握されていた。その付近の事情もあるべし、と鎌倉から遠い宗久は考えていた。
幕府の召還の命には、御家人としてやはり従わざるを得ないであろう、さりながら気懸りは身重の鶴富が事である。彼はこの使者の突然の訪問について、全ては己の胸の内に秘めて、鶴富への告知は一切憚(はばか)かった。
この二日間の宗久は、苦しい決断を迫られていた。

     (三)

 武門の習いとして、夫(つま)を軍場(いくさば)へ送る家人(かじん)は決して涙など見せてはならぬ、鶴富は常々そう考えてきた。
「この二日ばかり大八郎様の様子が変じゃ。やはり先日の村の者の話とは真実(まこと)であろうか。大八郎様が屋敷に、鎌倉よりのお使者のありたる由、お使者とは如何なるお使者ならん」
鶴富はもう気が気ではなかった。が、宗久が訪れて来る気配はない。昨日も今日も、山椒の木に鈴を掛けていたにも拘らず宗久は来ぬ。いや、屋敷の内から鈴に向かって、密かに手さえ合わせていた。何の効験(こうけん)もなきか、と今は彼が恨めしくさえ思われるのである。
 三日目の宵闇(よいやみ)が山も家々も全て包み込んだ頃、宗久が遣って来た。鶴富は急いで宗久が為の膳を整えて、その前に着座した。着座したものの、鶴富の何時もの柔和な面持ちは消えている。彼女自身、己の動きが普段よりずっと硬くなっているのが感じられた。宗久も同じ様である。
食を勧める鶴富に、珍しく怒気を含んだ様な声で宗久は口を開いた。
「要らぬ。かようなる話はしとうなけれど聞いて呉れい。身共は……」
怒っているのかと思うと、宗久の目は薄く潤んでいる様でもある。続けて彼は声を振り絞る様に、また何度も言わずに済む様に、まるで厭な事は一気に済まして仕舞おうとでも云う様に立て続けに喋り出した。
 「身共は鎌倉へ戻らねばならぬ。よくよく思案せし上での事じゃ。身共も幕府の家人ぞ。主の下知(げぢ)には従わねばならぬ。武人は、名こそ惜しむべけれ。そなたを相伴うてとも存ずれど、それも適(かな)わぬ。そなたは身重の身じゃ。
 如何なれば、山を下り、更に遥かなる鎌倉まで連れて行けようぞ。相許せよ。ただ、此処に残しおくそなたと、遠からず生まれ出ずるやや子が気懸りでならぬ。さにあれば、幾許(いくばく)かの金子(きんす)を此処に遺しおかんとぞ思う。僅かなるとは雖(いえど)も、母子(ははこ)二人の暮らしに事は欠くまじ。出立は、三日の後じゃ。不憫じゃが、その手助けもそなたに頼まねばならぬ。そなたが父御 景清殿が事も、この儘立ち行くとありては心残りなれど、何れ鎌倉に着到の後、詳らかになるならば書(ふみ)も致さん。その内よき便りもあらんか。しばし待つのじゃ。さても、生まれ出ずる子の顔も見らで立ち行くは、口惜(くちお)しゅう覚ゆれど……」
 宗久が此処まで話を進めた時、鶴富にはこの日が何時の日かは、と予期されていた事であったけれども、どっと一度に涙が溢れ出た。鶴富の腹の中では、また やや子が忙しく動き出して、頻りに腹の内から蹴っている。「父(てて)なし児は嫌じゃ」と、まるで宗久の出立を阻止せんとでもするかの様な激しさであった。
 宗久は鶴富の肩を抱いた。ややあって、彼女の腹の上から、宗久は吾が子を二・三度撫(な)で上げた。
 「この子が男(おのこ)にあらば、それで好し。されば、吾が生国(しょうごく)下野国へと差し向かわしむべし。一廉(いっかど)の武人に育てようぞ。更に、身共の佩きたるこの太刀、この太刀は那須家伝来の『天国丸(あまくにまる)』と申せし業物じゃ。前髪をおろせし後、この太刀を携えて下野へと発(た)たせたまえ。この子が 万一女子(おなご)にあらば、そなたが許に育てよ。美しゅうて賢き姫として育み、何れ何処ぞの婿殿を迎えて娶(めあわ)せるのじゃ。そしてその婿殿には、吾が姓那須を名乗らしむべし。重々頼み参らす。この地に代々、那須を引き継ぎ参らす事 肝要ぞ。やよ、忘るべからず。」
宗久は一層強く鶴富を抱いた。彼女の小さな肩は震えるばかりである。
 「女子とは哀しき者にござりまする。男の都合によりては、幸せにも不幸にもなりまする。実の父御(ててご)は私を置いて行方(ゆきかた)知れず。育ての親は、図らずも私をこの地に追い、いや言葉が過ぎてござりまする、それは私が身の為を思えばこその措置……。そして更に私は、契り合いたる吾が夫(つま)と今また離別せねばならぬとは。やがて、やや子も産まれましょう程に、夫なき身は神仏にお縋(すが)りする外になきかと……。もう生きる望みも失(う)せてござりまする」
(むせ)び泣く鶴富に、もう為す術(すべ)もない。
「武人の妻が、如何(いか)なれば女々(めめ)しき……」
 と、思わず宗久の口を突いて出た言葉に、鶴富は激しく詰(なじ)り喚(わめ)き、涙を堪(こら)えて言った。 「鶴は、女子にござりまする」
 それきり二人は抱き合った儘、最後の朝を迎えた。

     (四)

 宗久の出立の朝は小雨であった。
出立に格別の支障はない。直(じき) 止むであろうとの判断であった。晩夏ともなれば、山里の雨の日はやや肌寒い。昨夜は鶴富が屋敷で共に過ごし、別れを惜しんだ。
 宗久仮寓(かぐう)の屋敷の備品類は全て昨日までに鶴富が処分した。その殆んどが皆思い出深い物ばかりであったが、宗久への未練を断ち切る為にも思い切って火に掛けたのである。屋敷については、宗久と袂を分かって椎葉に残留する事になった一人の配下の者が、宗久の後のこの家に住まい、鶴富とやがて産まれ出る児を見守る事になった。この男は近々、村の恋仲の娘を娶り、この地に土着したいと言うのである。
 出立の日の従者(ずさ)は二人。何れもこの里に討手として来て以来、山や畑の耕作に勤(いそ)しんできた者ばかりである。しかし終(つい)ぞ、二人の武者姿は今日まで見る事もなかった。今改めて見てみると威風堂々、辺りを払う若武者ばかり。その三人の颯々(さっさつ)たる扮装(いでたち)に、鶴富は三年前の宗久との出会いを思い起こして、また新たな涙に誘われるのであった。
 もう数こそ少なくなったが、平家の落人の数人も途中まで宗久を送って行くと言う。更には元源氏の者三人も同様であった。近々妻を娶ると云う男を含めて、この椎葉に居残る彼らは、この地に脈々と源氏の流れも引き継いで行く事になるのである。
やや老いた舅(しゅうと)中瀬と父為継を伴って、小一郎も来た。今はもう敵も味方もない。源平もなく里人もなく、全ての者が一体になった椎葉の見送りであった。
雨も完全に止んだ。薄日のさす天空には、淡くではあるが山から山へと虹さえ橋を渡している。
 鶴富は鶴富で、真っ赤に泣き腫(は)らした目に臨月の大きな腹を抱えて、宗久に最後の言葉を掛けた。
「あの枝をご覧(ろう)じあれ」
 彼女が指したのは山椒の木である。庭の小道脇の下部の棘(とげ)は、全て摘み取ってある。その葉叢(はむら)からは雨水がポトリ、やや時間を置いてまたポトリと滴っている。蜘蛛によって枝から枝に張り渡された細い糸には、雨水が朝日に光り輝く連珠となって爽やかな空気の中に煌めいている。その中にポツンと一対の、二人が見慣れた鈴も掛けられた儘であった。
「出で立ちの朝にお怪我などあってはならぬと、棘は全て摘み取っておりまする。どうか、道中くれぐれもご無事であらん事を……。鈴は今日より、毎日此処に掛けて置きまする。大八郎様が、そなた様が、いつ何時でも 此処にお戻りになれまする様……」
 鶴富は深く頭を垂れた。それに答えて宗久は、
「重畳(ちょうじょう)。何れまた便り致す。そなたが父御 景清殿が消息を含めてのう。出立の時の遅うなれば、それだけ別れは辛うなるだけじゃ。御身、厭いたもうべし。さらば、参る」
 これが彼の最後の言葉であった。宗久と従者二人は見送りの皆々に深々と頭を下げ、鎌倉へと足を向けた。
四・五歩進んだ宗久は山椒の木の下でチラリと鈴に目を移すと、指先でその鈴を弾(はじ)いた。だが、まだ幾らかの雨水を含んでいたのか、今までと違ってやや鈍い音であった。
程なく、宗久を乗せた駒とその供侍の姿が、山陰に隠れて見えなくなった。
鶴富はその場に泣き崩れた。

焼き畑農法 焼き畑農法(出典:世界農業遺産)

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