さなぼり

「山の笹舟」 ―― 平氏一門に血を享(う)けしゆえに

   来訪者

    (一)

 屋敷に突然の来訪者があった。宮原村の茂助である。
聞けば、相良家からの書状を親重が委託され、その書状を最近病勝ちの親重から更に託されて椎葉小一郎に届けたのだと言う。
茂助はもう見違える程に逞(たくま)しく精悍な顔付きになっていて、鼻の下と顎(あご)には不精(ぶしょう)(ひげ)も伸びている。ただ、以前より若干痩せた様に鶴富には思えた。
「おお、茂助さん。懐かしや、よう参られた。息災の様子で何よりじゃ。さ、さ、積もる話も山程あろう。疾(と)く聞かせて下され。茂吉殿はお達者か。私が父母は如何(いか)ならん」
 鶴富は久方ぶりの旧知に出会えた悦びを満面に湛(たた)えて、茂助に話の糸口を与えぬ程である。それに己自身気付いて苦笑し、やっと鶴富は茂助を中へと請(しょう)じ入れた。
「姫様にはお変わりものう……。随分と無沙汰を致してござりまする」
「何を今更、他人行儀な。昔の茂助さんと鶴ではございませぬか。何の遠慮が要りましょうぞ」
「いやいや、鶴様は高貴な姫君様じゃ。本来ならば、とてもおいどんが近づけるお方じゃござりまっせんけん」
 今では茂助も鶴富の氏素性を知っている。深々と頭を垂れて全て遠慮がちに物を言う茂助の挙措(きょそ)は、可哀想なまでに謙(へりくだ)った姿であった。
 鶴富には、今の茂助と己の間に立ち塞(ふさ)がる得体の知れぬ障碍(しょうがい)に、少々もどかしさを思った。また茂助の何処かしこに見える彼のやや卑屈な態度にも、遣り切れぬ苛立ちをさえ覚えていたのである。
 だが 思うてみれば、己も何時しか武家言葉で茂助に接しているではないか。ああ、あの何も知らぬ純真な子供の頃が懐かしい、時の流れとは人と人との心の触れ合いまで奪い去って仕舞うのであろうか、そう考えると、何か一度に全ての物が目の前で崩壊して行く様な、どこか寂しく、茂助に会えた嬉しさも悲しさの混在した複雑な気持ちに襲われていた。
 その様な鶴富の心持を知ってか知らずしてか、茂助は日焼けした顔で話を続けた。
「旦那様は少々病勝ちにございますれば、今回おどんが相良のお館様の書状ば預かって参りもしたと。なあに、たいしたご病気ではなかと思うとりますばってん、お年がお年だけにちょっと案じてはおります。それよりか、お袋様の方がご心労ばかりで気懸かりでござりもす」
 茂助の話によると、最近のトミは農地の切り盛り、小作人間の争い事の仲裁、親重の心の臓の病等々で一時も心の安まる時もない状態だと言う。二人に鶴富の他に別の子供でもあれば状況は異なっていたのであろうが、養父母の思いは、いつの日か鶴富が宮原の家に戻る事もあらん、さればその時に婿を迎えて、と考えているらしいとの事であった。
「ああ、母様……」
 トミの老いた姿で奔走する姿を思うと、思わず鶴富の目には涙が溢れて来た。椎葉に向かって発つまで、孝養せねばと思いつつも何も出来なかった己を顧みる時、申し訳なさと懐かしさの念がどっと一度に彼女を襲って来たのである。
おいが親父も、もう惚(ぼ)けが来ておりますけん、如何(どう)にもなりまっせんと。皆(み)いんな歳ば取れば、仕方ありまっせんたい」
 茂助も、だいぶ打ち解けてきた様子であった。「時に……」と、茂助は言葉を継いで、
「先程、こん庭に這入(はい)らして貰いました時に気が付きましたとばってん、山椒の木に鈴がぶら下げてありましたと。あん鈴はあん時の……、また何で山椒の木に?」
 茂助はさも懐かしげに、また測り兼ねると云う表情で、鶴富に尋ねた。
一瞬鶴富は戸惑ったが、言葉が直ぐ口を突いて出た。咄嗟(とっさ)の嘘であった。咄嗟の嘘は彼女をして武家言葉になさしめた。
「おお、そうじゃ。あの鈴は出立の折に茂助さんから貰いし物。大事にして、いつもは私が袂に入れておける物ながら、今朝ほど水に落として仕舞うたのじゃ。洗い物をせし折、うっかりとのう。じゃによって、早う乾ける様、あの木に掛け置きたる次第……」
「左様でござりましたか。おどんな、まだ姫様がお持ち下されておったと聞いて、こぎゃん嬉しか事(こつ)はござりまっせん」
茂助は感激の面持ちであったが、鶴富は己の咄嗟の嘘に何か後ろめたい物を感じていた。
その時、表に声がして小一郎が尋ねて来た。小一郎も今では椎葉家の若い当主である。

     (二)

 「姉様はおわそうか。小一郎にござる。茂助殿に託す書状のあれば、お頼み申すべく罷り越してござりまする」 当然相良家に対する返書であろう。
茂助は弾ける様に飛び下がって、小一郎に席を譲ろうとした。席とは云え、土間の上がり框(かまち)の席である。小一郎はそれを制し、書状を茂助に託した。「親重殿によしなに」と言い残して、小一郎はすぐ椎葉の屋敷へと戻って行った。
「そうじゃ、茂助さん。勝手じゃが、今暫くお待ち下され。私も頼みたき物がある。宮原の父様と母様に便りを届けては呉れまいか。今すぐ認(したた)める程に、湯茶など召して暫時お待ち下され」 そう言いつつ鶴富は立ち上がろうとしたが、その彼女の姿に、茂助にはどこか不自然に、また窮屈そうに感じられて見えた。
鶴富が書を認めるその間、彼は屋敷から庭に出て待つ事にした。やや大きくなり過ぎた様な嫌いのある山椒の木には、例の鈴が掛けられていて、何とも不釣合(ふつりあ)いの気がしないでもない。その鈴を茂助が弾(はじ)いた。チリンと一声、鈴は昔の儘の涼やかな音色をひっそりと響かせた。
 鶴富は文机(ふづくえ)に向かい墨を磨(す)っている。筆を下ろしつつ暫く文を練っていたが、やがて一気に筆を進めた。ひと筆、ふた筆と進める程に、彼女の瞼(まぶた)からはいつしか雫(しずく)が流れ始めた。落ちた涙に文字が滲んだ箇所もあった。が、それはそれで父母が斟酌(しんしゃく)して呉れるであろうと、その儘にしておいたのである。
四半刻(30分)ばかり経ったであろうか。茂助は小一郎と鶴富の書状を預かり、暇乞いもそこそこに宮原への家路に就いた。深い山峡(やまかい)の中尾谷川沿いの山道を下るとき、もう再び鶴様に会う事なども適わぬ事やも知れぬ、などと考えつつ、茂助は昔と何処かが異なる今日の鶴富の様子に思いを巡らせていた。
「はて、そう云えば昔に比べて鶴様はちょっとばっかし太られた様な。あの頃はまだ子供ゆえに細かりしが……。今は娘盛りなれば、少々肉付きが良うなってもおかしゅうはなかばってん。いやいや、ひょっとすれば、そうじゃ。あん腹の付近の肉付きは、単に太らしただけじゃなかとやも知れぬ。うん、そうたい。あいは、腹にやや子を孕んでおわすとじゃ。うん、間違いはなか……」
そう思い当たった瞬間、恰(あたか)も百雷が天地を揺るがす雷鳴とともに、一瞬にして、茂助の頭上に堕ちて来たかの様であった。中尾谷川沿いを宮原へと歩む彼の足取りは、その岨道(そばみち)から一気に川の谷底へと落ちて行きそうな、そんな足取りにも思わせた。上空を浮遊する雲にも似て、何ら当て所(あてど)もなく、ただ徒(いたずら)に茫然として前に進むのみの、覚束(おぼつか)ないそれである。事実、何処をどの様に辿って宮原まで戻ったのか、茂助は今何一つ思い出せない復路であった。
 そして、もう鶴富は己の手の全く届かない遥かに遠い存在である事を、端(はし)なくも知らされていた。

耳川 清流・耳川水系(出典:FC2 Home)

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