さなぼり

「山の笹舟」 ―― 平氏一門に血を享(う)けしゆえに

   鶴富と宗久

    (一)

 屋敷の裏山を僅かばかり左に上った処に、泉があった。何処の山の地下に蓄えられていた水かは知らぬが、清水が此処で滾々(こんこん)と噴き出しているのである。
その噴き出す水をじっと見ていると、鶴富には不思議な力が己の体内からも湧き出す様な思いがして、このひと時が好きであった。また、水底で水に一切抗う事もせず、ただ水の意の儘にゆらゆらと揺らめき翻弄されるのみの水草。その姿は、己の今の境遇にも重なって見えた。
何時であったか、マツと共に此処に水を汲みに来て、己の様子を窺っている落人達に恐れ慄(おのの)いた事があった。その場所でもある。時は移りその落人達は今、彼女を半ば主(あるじ)として仰いでいる。
 この水を、鶴富は仮粧(けわい)用としても、また煮炊き用としても使った。侍女鞆の死以来、時折他の女達が面倒を見に来て呉れてはいた。が、可能な限り煮炊き等の身の回りの事は己自身で、女達に迷惑掛けずに済ます様に心掛けていたのである。
 ある日の事、何時もの通り畔(ほとり)に腰を屈(かが)めて身動(みじろ)ぎ一つせず、この清水を眺めていた。この清水の源は一体何処にあるのであろう、己の運命(さだめ)を左右する源泉は何処にあるのか、また何なのか、その様な事を漠然と考えていたのである。
 泉の左手には笹が植わっている。その笹の葉を鶴富は二葉ほど千切り取って笹舟を作った。何をしようという事はない。ただ、ちょっとした遊び心がそうさせただけの事である。
その笹舟を水面(みなも)に浮かべてみると、一艘は湧き出す清水の周辺をクルクル巡っていて、もう一艘は排水溝のほうに向かって流れて行き、そこで間延びした草に引っ掛かっている。何とか囚われの身から逃れんとしてもがいているが、笹舟の己の力量では如何にもならぬ事の様であった。
「この笹舟も私が身の上と同じ運命じゃ」
 腰が痛くなるほどまでに其処にしゃがみ込んだ儘の鶴富は、水に翻弄され、たゆたう笹舟の様を眺め、茫然(ぼうぜん)とその様な事もひとり呟いていた。
どれほどの時を経たであろう。鶴富は袂を押さえ右腕を伸ばして、引っ掛かった儘の笹舟を指先で流そうとした。伸びきった鶴富の白い腕に、笹舟はまるで礼でも云うかの様に二・三回回転して直ぐ下流に向かって流れて行った。
その直後である。ハッと後ろを振り向いた。己の背後に徒(ただ)ならぬ人の気配を感じたのである。
 若侍が立っていた。折烏帽子(おりえぼし)、直垂(ひたたれ)に袴姿で腰には小太刀を落としている。年の頃、二十四・五かと鶴富は見て取った。端正な顔立ちである。
「かくなる御大将は、噂の源氏が追討使 那須宗久殿じゃ」
そう直感的に感じた鶴富の頬は紅潮し、微かに身が震えた。恥ずかしや、斯様(かよう)な姿を人目に晒(さら)すとは、とも思うと今度は身が固くなった。
 鶴富がうろたえ愚図付(ぐずつ)いていると、この若き御大将は口を開いた。
「驚かせしものならば、相済まぬ。どうか気を楽に致されよ。身共は鎌倉殿が家人那須大八郎宗久と申す。村の民が暮らし向きを窺うて廻って居るだけじゃ。安堵あるべし。時に御身は、かの屋敷が主 鶴富殿におわさずや。聞けば相国(しょうこく)入道(にゅうどう)清盛(きよもり)殿がお血筋とも承りしが、如何(いか)ならん。いや、懸念は無用ぞ。身共は御身を捕えんが為、今 此処に参りし者にあらざれば、心安らかなるべし」
 宗久の穏やかに問い掛けと話しぶりに、鶴富も幾分安堵したのであろう。この御大将にさらさらと、まるで既知の者に接するかの如く応えた。
「いかにも、椎葉が屋敷の鶴富にござりまする。そなた様の御名の程は、周りの者より度々伺うておりまする。更にそなた様が、源氏の追討使におわすと云う事も……。さりながら、私は相国入道様が娘にはござりませぬ。私の父御(ててご)は、私ははきとは存じませねど、平景清じゃとの由。まだ乳飲み児なりし折、肥後国求麻郡(くまごおり)宮原の地侍の家に預けられ、十三の頃、故ありてこの椎葉に罷(まか)り越してござりまする。私も、またこの地に居を定めし元平家の落武者共も、今はもう一人として源氏の方々に弓引く者とて居りませぬ。されば、どうかもう私共の生業(なりわい)については、ご放念致されたく……」
「さても困(こう)じ果てたる姫君なるかな」
 宗久は今度は鶴富を姫君と称して、少々困惑の様子である。しかし、決して怒りの表情ではない。むしろ口許には微笑さえ浮かべている。
宗久は鶴富が傍の大石に腰を下ろした。
「先程来 身共の申すが如く、我らに敵意、これ候わず。既に兜を脱ぎし者が首を、如何なれば討たんか。然れども、我らに対し、いや鎌倉殿へ弓引かんとする者のあらば、我らは役目として そを討ち捨てて置く訳には参らぬ。御身も既に承知の如く、我らは本来追討使じゃ。なれど今は、此処椎葉で我らに敵対せんとする愚かな者は、一人としてあらざる如く思わるる。再び源平の戦など詮無き事じゃ。無益なる意地なぞ張らざる事ぞ。故に我ら、里人共とも一時(いっとき)も早う昵懇(じっこん)となり、互いに往来する仲になるべく望みおりしところ……。されば、無用なる詮索など致されな」
「……」
 鶴富は半ば叱られた様な思いがして黙っていた。続けて宗久は、
「時に姫御。暮らし向きの方は如何じゃ。困じし事はあらざるか。身共にさしたる用事もなき折には、姫御の屋敷を訪(おとな)い、物語りなぞ致さばよからんとも存ずる。僅かなるとも、姫御の慰めにも相成るべし。姫が父御なる景清殿が事も、幾度か耳に致せしぞ。身共も直(じか)に出遭うたるにあらざれば詳(つまび)らかにあらねど、なかなかの剛の者にありけりと聞き及ぶ。如何ならん。何れゆるりと話も致そうぞ」
 宗久の話し振りに、当初 鶴富は少々腹の立つ思いでもあったが、父の話題になるに及んで彼女の瞳は輝き、身を乗り出す様にした。宗久には、鶴富のやや切れ長の大きな目が、一層大きく開かれた様に感じられていた。
「さりながら、今日はもう長話は出来兼ねる。他にも経巡(へめぐ)らねばならざる処もあれば、景清殿が話は何れまた……」
 そう言うと、宗久は大石から腰を揚げた。
鶴富は不満である。折角(せっかく)父の事が知れると云う段になって、彼は何れまたと言う。腰を折られた話ほど聞きたいものはないのだが、宗久は涼しい顔である。凛々(りり)しい若武者と今暫く此処にいたい、鶴富に淡い恋慕の情が芽生えて、そう思わせたとしても不思議はなかった。
 しかしこの場は、何れまた参ると言う宗久の言に、ただ黙って応ずるより致し方のない立場でもあった。思えば、彼の人と形(なり)さえまだ詳らかでないのである。
宗久が去った後、鶴富は泉で汲んだ水桶を提(さ)げて、急いで屋敷へと戻った。

化粧の水
鶴富姫化粧の水(出典:njnja-web.net)  

     (二)

 心待ちとはこの事であろう。宗久との再会を待ちながら、十八歳の娘は頻りにあれこれと想像を巡らしてみる。
 胸は高鳴り、顔に血は張り詰めた。化粧も以前に比べて少々濃くなった思いがする。
 屋敷の庭の辺りに足音がする毎に、几帳(きちょう)に手を掛けて覗いてみた。宗久ではない。台所に立つと、深い溜息が衝(つ)いて出た。宗久殿は私を軽侮(けいぶ)し遣(や)ったのかと、少々腹立たしくさえ思った。
 四日目の朝であった。宗久が屋敷を訪ねて来た。
 屋敷の周りには、柿、栗など秋の味覚の最大なる物が植わっている。桃の木もあるがもう当然時季遅れである。
 様々な木立に混じって、山椒(さんしょう)の木もあった。高さも六尺(1.8メートル)ほどはあろう。屋敷を此処に設けた折、もともと自生していたこの山椒の木を庭木の中に取り入れた物で、わざわざ移植した物ではなかった。
 その山椒も今では赤い実を孕(はら)み、もう直(じき)弾けそうである。鶴富はその実を煮しめたり、香辛料として用いたりするのが好きであった。別(わ)けても、若葉を摘みこれに醤油等を混ぜて煮沸した物を、主食にまぶして食する方法を 殊更好んだ。目ぼしい料理もないとき、この山椒を飯の上にまぶすだけでも、その芳(かんば)しい風味に食欲は十分進んだのである。
 この山椒の木は屋敷の通路の直ぐ傍にある。為に、宗久は山椒の枝の棘(とげ)を気にしつつ訪って来た様子であった。出迎える鶴富を前に、
「姫御、罷(まか)り越してござる」
と、屈託のない笑みを満面に浮かべて挨拶した。
「待ち兼ねてござりまする。さ、さあ、どうぞ客間(でい)の方へ。今に湯茶なども進ぜますれば」
 鶴富はそそくさと土間(とじ)に向かって踵(きびす)を返した。
 宗久は首座に向って進み、ややあって胡座(こざ)した。十二畳ほどの部屋である。左からは初秋の日差しを柔らかく障子が受けて、淡い光が部屋の隅々まで満ちている。上等の香を炷(た)いたのであろう、程よい香りに包まれている。その香りを、宗久は思わず二度ほど鼻を鳴らす様にして吸い込んだ。否、その匂いは女の脂粉(しふん)の所為(せい)かも知れぬ、などと考えたりもしたが、何れにしてもその芳香の佇(たたず)まいの中に暫く目を瞑(つむ)った。
 調度品も決して高価な物ではなかった。が、室内は品よく整然としており、所どころに季節の花々も添えられてある。鶴富の人柄と育ちの良さが、そこかしこに窺い知れる様であった。
 鶴富が着座するや彼は膝を改め、待ち兼ねた様に問わず語りに口を開いた。
「姫御は、いや鶴富殿はご承知であろうか。過ぐる日に、身共は下野が住人と申せし事あれど、吾が兄者は通称与一(よいち)、名乗りを宗高(むねたか)と称す。身共と同じゅう鎌倉殿が家人じゃ。その兄者が屋島の合戦に出でし折……」
と、こう宗久が語り継ごうとした時、鶴富は思わず声を上げた。
「与一様?あの扇の的の与一宗高様?」
鶴富は我を忘れて叫び声に近い声を発した。
如何に椎葉や求麻が山里とは云え、京の出来事も、合戦の様相も三年も経てば聞こえてくる。しかし意外であった。彼女の眼前のこの若武者が、かの名だたる与一宗高の舎弟であろうとは。
鶴富はつい先程まで、己の知らぬ父の話を聞きたい一心であったが、扇の的の与一と聞いて、一時関心はそちらに移った様であった。だが、宗久はあまりその話を好まぬ様に見える。「兄者は兄者なれど」と断った上で、話を転じて更に続けた。
「兄者が扇の的を射落とせる後(のち)の事なれど、やはり屋島での合戦の折の話じゃ。さて、平家の陣中に一際(ひときわ)豪勇勝れたる士の一人(いちにん)ありと云う。既に平氏は敗れ、今に海へ海へと退かんとする中にありて、かの武士一人のみ未だに残り、源氏の者共が首を打ち、錣(しころ)を断ち切りて奮戦してありしそうな。されば源氏が兵(つわもの)共は、只の一人として近付く者とてなく、ただ逃げ惑うばかりなりけん。されど終には平氏の負け戦。かの武士も舟に乗り西国へと落ちにけりとぞ。後に、かの者の名を問わば、悪七兵衛 平景清(あくしちびょうえ たいらかげきよ)殿との事。かの戦上手の義経殿も、『能登守(のとのかみ)教経(のりつね)殿と景清殿との手合わせこそ避くべけれ』と宣(のたま)いし由……。遠目ながらも、兄者は源氏の陣営より、景清殿が奮戦を見てありき、とか云う事じゃ」
 宗久の話に、鶴富は思わず目を瞠(みは)った。与一とまだ見ぬ父の接点が生じ、如何なる因果か此処椎葉の地で、与一の舎弟宗久と己とが引き合わされる事になろうとは……。思えば不思議な運命とも云えた。
 悪七兵衛景清は元来伊勢藤原氏の流れ、伊藤景清と称したが、勇猛果敢な侍大将で平氏に与(くみ)し、その功により、後(のち)に「平」姓を名乗った。一の谷から壇ノ浦まで平家の戦陣の、常に先頭に立った武者であった。ただ平氏滅亡の頃、ちょっとした諍(いさか)いのため叔父を殺害して、九州へ落ちて行った。景清は通称上総(かずさ)七郎、官位兵衛尉(ひょうえのじょう)であったので、後日巷では彼が事を悪七兵衛と呼び、かつ畏れていたのである。ただし、悪七兵衛の「悪」とは「悪人」の意味ではなく、「剛の者」を指してそのように呼ばわった。
 景清が事蹟について、後に頼朝よりその豪勇振りを賞賛され罪を赦(ゆる)されたとも云うが、定かな事は解らない。
 そのような景清にも六波羅(ろくはら)に馴染(なじ)みの女がいた。源義経が愛妾(あいしょう)静と並び称される程の白拍子(しらびょうし)で、名を遠山と云った。
 平家の都落ちと同時に、景清はその白拍子を伴い、数々の合戦で勇猛を謳われつつ九州まで落ち延びて来たのであった。屋島当時は既に女は身重であったと云う。その景清こそ吾が父であり白拍子が母であったとすれば、九州の山中から山中を辿る道程(みちのり)を母に抱かれ、また時には父に抱かれつつ己も逃れて来たのであろうか、そう想う時、鶴富はいたたまれない気持ちで一杯になった。
女の身での山中の逃避行は、如何にきつく辛いものであったであろう。そして母は途上で二度と帰らぬ人となり、父は己を宮原が屋敷に預けて更に日向まで落ちて行ったと云う。父の消息は、それからプッツリ途切れた儘なのである。
 これまで鶴富は二人の父を持って生きてきた。宮原の父親重と椎葉の父為継であるが、その何れもが義父である。しかし、その何れの義父も彼女にとっては優しく慈愛深い父である。
 一方で、真(まこと)の父御にひと目なりとも逢うてみたい、日向の何処(いずこ)かの地に、父御は今も達者におわすのか、そう思うと何時まで経っても迎えを寄越さぬ真の父が 恨めしくさえも思えるのであった。

     (三)

「身共の知り得たるは、今はそれのみじゃ。鎌倉へも、景清殿が消息を知る者のあらばとて使いを差し遣わせし事なれば、暫くご猶予あれかし。いずれ嬉しき書(ふみ)もあるべし。されば……、戦の話はもう終(しま)いに致さん。攻伐(こうばつ)殺生(せっしょう)の話なぞ面白うもあらず。世の栄枯盛衰は時の流れに因(よ)るものじゃ。源氏の世も、永劫(えいごう)と決まり申せしものにはあらじ。時に鶴殿、うん鶴殿じゃ。鶴富殿では呼ばわるに長きに過ぎて面倒じゃ。姫君では少々面映(おもはゆ)ければ、以後 鶴殿と称せん。鶴殿は笛など好まざるか。身共にも少々の嗜(たしな)みもござる。障(さわ)りなくば、一曲披露に及ばん」
 宗久は腰に差した笛を取り出し、口に当てた。
 鶴富は久しぶりに「鶴」と呼ばれた声に、ふともう随分遠い日々に思えていた宮原家での少女時代を懐かしく思っていた。
客間(でい)から縁側の外に目を逸(そ)らすと、遠目ではあるが、畑の畦(あぜ)と云う畦には彼岸花が真っ赤に咲き誇っている。気味が悪いほどの赤さであったが、それは求麻の宮原家の屋敷からかつて見た景色と、殆んど一緒と云えた。やや違うのは、此処椎葉では前からも後ろからも直ぐ山が迫って来ていて、その山峡(やまかい)の中央に大きな河、耳川が流れている事であった。
その彼岸花から連想したものであろう。一瞬ではあったが、宮原の養父母を思い、茂吉や茂助が事も思い浮かべた。僅かに五年程前の事である。しかし今思えば、随分昔の事であった様な気もする。養父母からも特段の便りもなき事なれば、達者なのであろう。茂助はもう立派な大人になっている事であろうか。思い出した様に鶴富は宗久の言葉にコクッと首を縦にして頷(うなず)きながら、一方で漠然とその様な事も考えていた。
 宗久の口に当てられた笛は、もう彼の口を離れ恰(あたか)もひとりでに音色を奏でているかの様である。その音は低く高く、時には哀調を帯びて、山々に木霊(こだま)し、山懐(やまふところ)の隅々にまで鳴り響いている。秋晴の澄明な空気の中で、何ら抵抗する物もなく大自然と融和して、もし山里が心を持つとすれば、その心の奥深くまで滲透している様な音色であった。
 この様な心地よい音色と気分に浸っていられるのは、本当に鶴富にとって初めての事であったであろう。殆んど何ひとつ不自由ない暮らし向きの中にあって、不満らしい不満もない日々であったが、何処か心に沁(し)み入るひと時を持てぬ思いが常に己を支配していた。
宮原の養親は然(しか)り、椎葉の養親も己を大切に考えて呉れてはいるが、やはり実父ではないと云う彼女の思いは、全てに於いて何処かで己を遠慮勝ちにさせていたのであろう。
宗久の蕭蕭(しょうしょう)たる笛の音は、山の中腹の焼畑の手入れに余念のない村人達、彼らの直ぐ近くまで届いていた。今はもう、平氏も源氏も村人もない。仕事に精を出す善き老若男女の姿ばかりである。
「あの笛の音は何処から届いて来るとじゃろう」
「うん、確か此処に来る途中にも聞えたのじゃけんど、鶴富様の屋敷から聞こえた様子じゃった。大八郎様の笛じゃなかか。お二人は、いよいよ仲良うならした如(ごと)ある」
 村人らは勝手気儘に噂し合いながらも、「似合いじゃ」と言うて、次第に二人の行末を祝福する気持ちになっていた。

     (四)

 それからと云うもの、宗久は足繁(あししげ)く鶴富が屋敷を訪ねて来る様になった。
 四方を山に囲まれている所為もあろう。里の冬の訪れは早い。
山々が美しく紅葉したかと思うと、その紅葉を楽しむゆとりさえない儘、里にも雪が舞い始めた。秋には庭から芳香を放ち、あれ程赤や黄の色とりどりに咲き誇っていた菊も、今ではもうすっかり変色して茎と枯葉だけになっている。
 近頃では鶴富も、宗久を「大八郎様」と呼んでいる。だが逢瀬を重ねれば重ねる程に、宗久を慕わしく思う心と、本来の彼の使命とが、鶴富の小さな胸を痛めつけて来るのである。
(いず)れの時にか大八郎様は鎌倉に、そう考えるだけで鶴富は気も狂わんばかりであった。それだけに二人だけのひと時こそ大切にせねばと思うが、宗久のいない時間を一人で過ごす寂しさ苦しさは、何にも例え様がない。
 村人の彼女に接する態度も気になった。大方は二人を祝福するものであったが、中には「敵味方であるのに結構なご身分じゃ」と、どこかに羨望と非難の錯綜(さくそう)する思いを囁き合う者もないではなかった。そう云う村人の己に対するよそよそしさが、何処かに看取できるのである。
 元落人達も時折鶴富を訪ねて来るが、最近殊にその数が減じた様である。中には近頃の二人の仲を考慮して、自ら遠慮した者もあるであろう。
勿論(もちろん)、落武者の中には長年の労苦が元で鬼籍(きせき)に入り、その跡を子が継いでいる家もある。子や孫の世代になれば、やはり漸次(ぜんじ)疎遠になって行くものであろうか、いや、そうであろう、それはそれで致し方のない事じゃ、と鶴富は考えていた。
或いはまた、己が宗久と逢瀬を重ねる事について、追討使として宗久と共に下向した侍共は、いま鶴富を如何様(いかよう)に考えているのであろう。思案すればする程、彼女には度重なる密会が不安に思えて来るのである。 暮夜の寒さは一層募った。水は水で、まるで錐でもって刺すかの如き冷たさ。寒さは床下から突き上げて来て、あたかも床下を魔界の者でも這い蹲(つくば)っているかの様な、百鬼夜行の恐ろしいほどの心地がした。芯から冷え切った体は容易には温まらない。
その様な中を、宗久は押して遣って来た。
一通りの話を終えて二人は褥(しとね)に這入った。互いに体を温め合って、その後の全身の気だるさも幾分落ち着いてきた頃、厠(かわや)に立つ宗久の後姿を見遣ってから鶴富はひとり呆然としていた。
すると、突然思い当たった事がある。
「そうじゃ。鈴が良い。あの鈴を何処かに掛けて置き、大八郎様への目印、今宵の逢瀬の合図にするのじゃ」
 本当に突然の思い付きであった。何故なのかは判らない。宮原からこの椎葉に出立する際に、従僕の茂助が呉れたあの鈴である。その鈴を、ふと思い出したのである。ひょっとすると、冷え冷えとした中で冴え切った頭の閃き、とでも云うべき物であったかも知れぬ。
 鶴富は急いで襦袢(じゅばん)の上に半纏(はんてん)を掛けて手文庫の前に行き、抽斗(ひきだし)を引いた。数年振りに目の当たりにした鈴であった。手に持った時、昔に変わらず軽い涼やかな音がした。
この二個の鈴を屋敷の何処か適当な処に吊(つ)るしておいて、宗久への合図にせんと云うのである。茂助が嘆こうかとも思ったが、今はその事意外に良い思い付きもなかった。
 ややあって、厠から宗久が戻った。早速その旨を告げると、彼はしばし鶴富を訝(いぶか)しげに見ていたが、やがてその意を汲んで承知した。一方的な鶴富の都合かと、宗久は少々腹立たしい思いもしたが、源平の者共を含めた村人の手前、当分は已むを得ざる措置ならんか、とも考えたのでる。
 鈴は庭の山椒の木に掛ける事にした。其処(そこ)であれば、わざわざ庭まで踏み入らずとも往還からも見えるのである。鈴は朝からでも掛けておく。宗久はそれを見て今宵の鶴富の都合を知るのだ。
それから程なく、鶴富によって鈴は殆んど日毎に掛けられ始めた。
更に日は巡り、この山里の冬もそろそろ遠退(とおの)く季節になろうとしていた。

山椒 鈴
山椒の葉  


那須大八郎宗久に戻る | 来訪者へ