スエの一周忌も過ぎた秋の頃の事である。
山の樹木の伐採に行っていた杣人(そまびと)が、急ぎ山を下りて来た。聞けば、山中で不審な動きをする一団を見掛けた、と言う。
またそれから二日ほど経った頃、椎茸(なば)栽培の為に山に登った落人の一人が、翌日になって惨殺されている姿が発見された。大方、猪にでも襲われたのでもあろう、との話でもあったが、傷口から見て猪の仕業とも思われぬ。
杣人の話といい、猪による被害とも思われぬ落人の死に様といい、椎葉は普段と違う異様な空気に包まれた。
黒木と云うまだ三十前の落武者の一人がいた。例の祝宴の席で物騒な発言をして、物議を醸(かも)した男である。落人の集落では、この黒木を中心とする三人一団となり、不審者の存在の有無を偵察する事にした。およそ、人間の潜みそうな場所は隈なく探す心算(つもり)と言う。
黒木ら三人は、壇ノ浦以来の武装である。武装とは云え、腰に太刀を佩(は)き弓を携えただけであったが、三人は久方振りの武者姿に、自身 文字通りの武者震いさえ覚えていた。
山に分け入り、偵察すれどもそれらしい姿も見受けられぬ。諦(あきら)め掛けて三人が村に戻ろうとした時、ふと目にしたものは沢の畔(ほとり)に休息している一団であった。総勢三十名程はあろうか、各々 身には甲冑(かっちゅう)を着け、弓を手挟(たばさ)み、或いは大長刀(おおなぎなた)を持ち、夫々(それぞれ)に具足櫃(ぐそくびつ)を背負っている。その中にただ一人だけ、兜は脱しているが大鎧(おおよろい)を纏(まと)った若武者がある。これが総大将であろう。
「討手じゃ。あの者共の旗差物(はたさしもの)は源氏の討手に相違なし」
他の二人に素早く合図を送った黒木は、急ぎ山を下った。
村に戻って事の次第を中瀬に報告した黒木は、
「合戦じゃ。合戦の支度じゃ」
と、大いに奮い立っている。中瀬はそれを制して
「待ちなされ。事を急(せ)いてはならぬ。待ちなされ。暫時待たれよ。まだその者共が戦いを仕掛けて来たる訳にはあらず。如何じゃ。誰ぞに、まだこの話はせなんだであろうな。屹度(きっと)、他言は無用ぞ。折角(せっかく)我らも村人も、今のところ穏やかに暮らし居るに、無闇に皆の心を攪乱(こうらん)しては相成らぬ。待つのじゃ。暫く待て。その侍共が討手にあらば、今に何ぞ仕掛けなりともあらんか。軽挙、厳に慎むべし。妄動、慎むべし」
中瀬の制止に、黒木は不満げな面構えで口籠っていたが、その場は彼に従った。
その後の二日ほどは何事もなかった。
三日目の朝の事である。何時もならば、もう野良仕事の出ている筈の黒木の姿が何処にも見えぬ。過日、彼と共に不穏な動きをすると云う一団の偵察に行った二人も同じである。
その日は夜明け前からの霧が深かった。求麻の深さと同様だ。
「仕舞った。さては……」
と、沈着にして思慮深い中瀬は、臍(ほぞ)を噛む思いであった。あってはならぬ事ではあるが、取り返しがつかぬ事になりはせぬかと、心中とある疑念が生じた。急ぎ黒木が家に走りその妻女に行方を問えば、何でも朝早く出掛けたきりで行く先は知らぬ、と言う。高橋にも事情を尋ねたが、ただ驚くばかりであった。
落人四・五人を集めて思案しあぐねている昼頃、村里に見慣れぬ甲冑姿の武者共が山を下りて来た。総勢七人、一見して、何れも源氏の兵である。ただ、内四人は前後して、戸板を片手に提(さ)げている。気色(けしき)ばんだ落人らは一斉にその甲冑武者の周りに集まった。
見れば何と、戸板に乗せられ筵(むしろ)を被せられてありし者は、変わり果てた黒木の姿ではないか。刀傷を数箇所に受けており、もう息はない。他の二人には捕縄が掛けられ、顔色は青ざめている。中瀬の姿を認めて二人は目を逸(そ)らした。
山を下りてきた一行の内ただ一人だけは、侍烏帽子(えぼし)に直垂(ひたたれ)姿で小太刀を腰に落としてはいるが、太刀は佩いていない。年の頃まだ二十歳を少々過ぎた辺りであろうか。しかしながら、堂々たる武士(もののふ)の立ち居振る舞いである。
中瀬を見定めて、この若い武者は口を開いた。
「中瀬殿にて候や。身共は下野(しもつけ)が住人 那須(なすの)大八郎宗久(だいはちろうむねひさ)と申す。隠さず申せば源氏が手の者にござる」
「如何にも手前は中瀬重政にござる。して、この仕儀は何の謂(いい)ぞ」
中瀬は、事の経緯(いきさつ)は概(おおむ)ねその見当を付けているが、憤りを露わにした顔でこの若武者に問い質(ただ)した。那須と呼ばわった武者はそれに答えず、
「吾が源氏の陣営にも中瀬重忠殿と申す豪の者のあれど、御辺はその縁(えにし)の者ならんや」
「かの御仁とは何の縁(ゆかり)もなけれど、那須殿、かくなる仕儀は如何なる事ぞ。疾(と)く、疾く承らん」
そう言いながら中瀬は、何時の間にか怒気を含んだ表情で立ち集まってきた村人のざわめきを制しながら、再び問い直した。
「されば……」
若武者那須宗久の語り始めた様子はこうである。
今朝ほどの深い霧の中、陣所に突如三人の地侍が現れて、源氏の討手の者共を襲って来た。討手の者は防戦に努め可能な限り捕縛(ほばく)せんとしたが、どうしても一人だけは抵抗甚(はなは)だしくて致し方なく討ち果たした、と言うのである。
その討ち取られた者こそが黒木であったが、残り二人はこの様に捕えたと言う。捕えた者を問い質すと、地侍ではなく平家の落武者だと暴露した。二人とも首を打てと言い張ったが、此処までこの様にして連れて来た、という申し条である。
中瀬は、かなり以前にも椎茸取りに行きたる者の殺害されてありしは、その事も貴殿らの仕業かと問うた。するとこの若武者は、その当時我らはこの山中に具足の儘(まま)入山致したるばかり、それを見咎(みとが)められて騒がれし故に已(や)む無く斬殺したる旨陳述した。
「ああ、やんぬるかな。殺害するまでもあるまじきものを。我らにはもう源氏の人々に仇(あだ)なす意図など露ほどもありはせぬ。これら血気の一部の者を除いてはのう。大方この三人も、日々の暮らしが害されるものと思い違いの上、早過ぎたる挙に及びしものならん。我ら落人は皆もう子々孫々、この場所に畠を耕し猟をして暮らしてゆく覚悟なれば、戦はもう二度と致しとうはござらぬ。今は、既に源氏も平氏もあらざるのじゃ」
中瀬も高橋も必死に若武者に訴えた。その間、宗久は捕縛したる二人の縄を解(ほど)かせ、村人達に引き渡した。
「中瀬殿、我らもこの山中に入り申して、早や十日程じゃ。実は十根川の社(やしろ)辺りに陣を構えし後のこの間(かん)、しばしば此方(こなた)に出向き御辺らの日々の暮らし振りを密かに観てありしぞ。もし、源氏に歯向かう意志ありと見らば、身共は此処へ討手を指し向くべく下知せん心積りであった。なれど、その間左様なる動き、露ほども見えはせなんだ。さりながら、中にはかかる黒木殿が如き猛(たけ)き者もまだあり得べしと知れば、今直ぐ此処を立ち退(の)く次第にも相成らず。今暫く御辺らの生業(なりわい)を見ていたく存ずる。ご猶予あれ。場合によりては、よしなに取り計らわん。更に、黒木殿と先に亡じし武人に縁(ゆかり)の者あらば、それは相応に償いも致さん。されば憚(はばか)りのう申し出あれかし。さて、そこでじゃ。我らの在処(ありか)については、既にもう知れし事。どうかこれを機に、御辺らの側(そば)近くに居を移し定めん事、ご承知あらざるか。疑(うたご)うべくもなく、源氏も平氏も同じ人間じゃ。元を糺(ただ)せば、御二家ともそれ やんごとなきお血筋ぞ。我らとて、何時までも憎み合うておるばかりが、人の道とも思うて居り申さぬ」
那須宗久の言には熱が籠っていた。中瀬も高橋もそしてその他の者も、一応了とした。ただ黒木が妻女は、
「わが夫(つま)を殺害してありながら、何たる言い種(ぐさ)ぞ。夫をこそ還しやれ。我ら母子、これより如何様に生きて行くべき……」
と宗久を詰(なじ)り、かつ泣き喚いていたが、やがて落ち着き引き下がった。
黒木が遺骸(なきがら)は引き取られた。そして椎葉に入りて後に滅した他の落人の墓石の傍に、手厚く葬られたのである。また黒木が妻女と遺児二人には、多量の砂金が宛がわれた。更に先に斬殺された落人の男は独り者であった為、黒木と同時に法要が行われたのみであった。
それからやがて、時を経ずして三々五々と源氏の兵が山を下りてきた。もう具足は着けていない。村人や落人に比べると幾分風采(ふうさい)も勝って見えたが、遠望する限り、源氏の人間も平氏の人間も、また従前からの村人の姿も何ら変わるところがない。
かつて驕(おご)る平氏と称された強者(つわもの)共も、今は落武者の身となって源氏の侍を見る時、若干の妬み心も彼らに生じたのであろう。暫くの間小競(こぜ)り合いもないではなかった。
だが、大勢は順調に推移していると云って良い。中瀬や高橋にも、また椎葉家の為継にもありがたい事であった
先の事件から数ヶ月の月日を経ていて、もうこの里では源平の侍共が取り立てて争う事もなかった。
太古の昔、かつての共同生活を営む原始社会に於いては、今日の様な争い事は殆んどなかった。が、時代は下り 各人の土地所有の願望が増大すると、その所領を保持せんが為に、或いは更に一層拡大すべく武力を必要として、やがて武士の勃興やがて武士の勃興(ぼっこう)となった。その人間の物心両面における我欲から、各地で小競(こぜ)り合いや戦争が頻発し始めたのである。文字通りの「一所懸命」であった。
その我欲で以って、人間が人間の尊厳を踏みにじり、延(ひ)いてはその生存をさえ脅かす如き状況下では、必然的に争いも生じよう。小は個々の人間同士から、大は国と国の争い事まで全て同様であろう。
「過ぎ去りし日々は、過ぎ去りし日々じゃ。今更憎み合うて何とするぞ。古来、人は皆、人間(じんかん)に生を享(う)け、人間(じんかん)に生き、人間(じんかん)に滅すべきもの。お互い人間(にんげん)同士。争うて、如何なる益やある。仲良うもせねばならぬ。猛き者の世が永劫に続くものにもあらず。月満つれば則(すなわ)ち虧(か)く、とも申す。盛者必衰の理(ことわり)ぞ」
と、言う宗久を先頭に、源氏の兵士は皆 太刀を鋤、鍬、鎌に握り替えている。もともと皆何処ぞの百姓衆であろうから、手付きは良い。たちまち源氏も平家もなく百姓同士、それに村人を交えて笑い合う親しい仲となった。まるで宗久は、鎌倉の下知を忘れ去っているかの様でさえあった。近頃では、己の栄達の為だけに、彼らのささやかで静かな生活を乱し、更に討伐しては人としてあるまじき体(てい)、とさえ思っている。
「熊谷(くまがや)次郎直実殿(じろうなおざね)も仏門に帰依(きえ)したる由…」
宗久は低く呟(つぶや)いた。
熊谷次郎直実は武蔵国の出自、頼朝の御家人であったが、寿永三年(1184)、一の谷の合戦において平氏の公達敦盛(あつもり)を討った。敦盛は直実が一子小次郎と同年輩であった為、直実は一瞬 敦盛が首を討つ事に躊躇した。しかし、迫り来る味方軍勢の手前、泣く泣く敦盛が首を掻き切ったと云う。その後、さすがの荒武者直実も無常を思い、現世を儚(はかな)んで仏門に帰依(きえ)した。
「じゃが、今の世に武士(もののふ)が合戦に命を懸くるは常の事。されば、鎌倉殿による所領の安堵も得べし、と云うべきにや。滅多なる事、思量せざる事じゃ」
宗久が自問自答している間にも、時は刻々と過ぎていった。
大八郎宗久像(出典:withnews.jp) |