椎葉は九州山地のほぼ中央に位置する秘境中の秘境である。東西南北、何れの方向からこの地に攻め入ろうとも容易に踏み込めぬ場所である。この山峡の僻地(へきち)では、とても源氏の討手も及ぶまいと思われた。
鶴にとってのこの夏は、椎葉で迎える初めての夏である。近頃、漸く(ようやく)この山里での平常の生活にも慣れてはきた。それでもやはり折に触れては、宮原での生活が胸を締め付けるほどに懐かしく思い出される。
「父様、母様は恙(つつが)なくおわそうか」
やはり思い出されるのは親重とトミが事である。特に親重については、鶴を此処まで送って来て椎葉家に一泊した後、再び宮原へと茂吉とともに戻って行った。その時の養父(ちち)の後姿が、今も思い出されてならない。
「達者でのう」
一言 言うなり二度と振り返ろうとせず駒の人となった養父の背中に、鶴は追い縋(すが)ってもう一度声の限り泣きたかった。
「今更、もう詮無き事。これからは、此処で力の限り生きて行かねばならぬ事じゃ」
十三歳の娘は、己の置かれた境遇を思い、そう観念するより為す術はなかったのである。優しかった養父にさえ、如何(いか)なる厄災が降り懸からぬとも分かたぬこの時期、如何(どう)して己の意の儘に生きる事など出来よう。否、時を経れば何れの日にか、二人の養親と再び相見える事もあらん、そう信じて生きて行こう、と思った。
宮原の養母トミの申し付けの通り、鶴は此処に来てより「鶴富(つるとみ)」と称した。今まで鶴、鶴と呼ばれていただけに、最初「鶴富」と呼ばれた時は己でない様な思いで少々面映(おもはゆ)い気分であったが、直(す)ぐに慣れた。
椎葉の各家は横長である。往還に沿ってその殆んどの家が横に長い。裏手はもう迫り来る山々である。宮原と違って、田畑と云う田畑が少ない
その僅かばかりの山家の中で、椎葉家の屋敷は比較的に大きく、椎葉一の分限者の家とも言えた。
当主は椎葉(しいば)為継(ためつぐ)、四十四歳。宮原親重と同い年である。為継が妻(さい)をスエといい、二人の間に鶴富より二歳下の嫡男小一郎(こいちろう)、その妹マツがいた。更に一人の下女と、もう一人の下男がそれぞれ住み込んでいる。
鶴富が椎葉家に身を寄せた頃、二人の子供達は突然の闖入者(ちんにゅうしゃ)に戸惑い、なかなか馴染もうとしなかったが、この夏の頃にはもうすっかり懐(なつ)いている。二人とも「鶴姉さん」、「鶴姉さん」と呼んで、今では彼女から手解(てほど)きを受ける程までになっていた。
貴種が貴種であるだけに、為継は当初から鶴富を特別なあしらいなどはせず、却って己の実子と同様の扱いをした。むしろ、それ以上に村人の目を逸(そ)らす為にも、水汲み、農事の手伝い等もさせていたのである。
ある日の事である。
鶴富は近くの水汲み場にマツを連れて来て、急いで戻ろうとした時、物陰に二・三人の男衆の気配を感じた。どうやら己ら二人の動静を窺(うかが)っている様子である。驚いて鶴富はマツの口を塞ぎ、二人してその場に身を屈(かが)めた。割れんばかりに胸の鼓動は高まっている。
何事ならん、とは思いつつも、とにかく屋敷の近くまでそ知らぬ顔で辿り着いて、急いで家に飛び込んだ。辿り着くと云うほどに、水汲み場と屋敷が遠く感ぜられたのである。しかしながら、連中はこの近くまで後を付けて来た様であった。
また、今日は今日で、何か山菜でも……と山深く探しに行って、何一つ探せぬ儘に沈んでいると、今度は鶴富の噂をしているらしい男達の言葉が聴くともなく聞こえてきた。
「うん。間違いはなさそうじゃ。おそらく景清様が忘れ形見であろう。江代(えしろ)の山中で御三人とは離れ離れになったれど、景清様は人吉の奥地大畑(おこば)へ落ち行かれしものとも聞く。確か今じゃと、あの年頃の姫御前(ひめごぜ)の筈じゃ。左様にあらば、早う為継殿へ確かめねばなるまいぞ」
「そうじゃ、そうじゃ。我らは既に武士(もののふ)を捨てたる身なれども、景清様がご遺児とあらば、うち捨て置かるるものにはあらじ」
男達の声が途切れると同時に、鶴富はこっそりとその場を逃れた。先日の事といい、今日の事といい、何か己の身の上に不吉な事が起こり来たる様な、何とも云えぬ不安で胸は一杯である。
「あれは源氏の討手の者じゃ。平家の者を装おうて、大方この私を捕えんが為参りし者共に相違なかるべし。されど、ああ、如何様(いかよう)にして此処を探し出だせしものならん……」
源平盛衰の意地を賭けた戦いも源氏の勝利で終わったこの時、何時まで女の私まで苦しめるのであろうか、そう考えると、源氏に対する憤りと共に己の先々が杳(よう)として知れぬ不安と恐怖で、全身の震えが暫く止まらなかった。
その鶴富の徒(ただ)ならぬ動きを見兼ねた小一郎が、
「姉様、如何なされしぞ。顔色が悪(あ)しゅうございまする」
と、心配して来たが、鶴富は「ちょっと」と答えたのみで それ以上の事を何も言わなかった。
その夜、鶴富は己の懐剣を抜いてみた。白い刃である。この一口(ひとふり)の白い刃が人の命さえ縮める事が出来るのかと思うと不思議でもあった。万が一の場合、この刃の切っ先が己の喉元を貫く事があるやも知れぬ。武人の娘として、その覚悟は備わっている心算(つもり)である。
宮原の養父親重に一度見せられた小太刀と平氏の赤旗は、椎葉の義父為継に預けている。為に、己は別の懐剣を常に肌身離さず身に着けていた。
椎葉家で鶴富の宛がわれている部屋は、十畳ほどの仏間に近い場所である。己の部屋だけでも戸締りをしっかりせねばならぬ、と鶴富は恐ろしさからそう思っていた。
その夜の事、義母スエが部屋を訪ねて来た。過日のマツの話と、小一郎からそれとなく聞いた今日の鶴富の様子から、その胸の内で何か思い余っている事などありはせぬかと、スエなりに慮(おもんばか)っての事である。
スエの問いに、鶴富は数人の男衆が己の様子をそれとなく窺っていた旨申し述べたが、それを受けてスエは、
「大方、村の若か衆がそなたの美貌を聞き付けて噂し合うていたものにあろうが、やはり身の周囲(まわり)にだけは気を配っておきなされよ。大事無き事とは思えど……」
と、その様な事であった。スエと為継に無用な心配を掛けてはならぬと、今日の武士らしき者共の話の内容については、やはり一切の口を噤(つぐ)んでいたのである。
スエが己の寝間に戻ってから、暫くの間鶴富も夜具の上で今日の出来事を再び想い起していた。外に出る仕事は今暫く控えていようと思いつつ、眠れない儘に目を瞑(つむ)った。
翌日の事、椎葉家へ年恰好四十前後の客人二人が為継を訪(とぶら)って来た。
身形(みなり)は決して華美とは云えぬが、こざっぱりとした服装である。しかも、百姓や杣人(そまびと)などではない、どこか武士の匂いを漂わせている威厳のある風采の者達である。
夏の盛りで、裏山ではクマゼミが喧(やかま)しく鳴きおらび、蒸し暑さを一層醸し出している。夕立も来るのであろうか、山の端からは黒雲も盛んに湧き上がって来た。
来客と聞いた当主為継は縁側の障子と云う障子を全て開け放ち、僅かでも涼風を取り込まんとしている。その上で二人を客間(でい)に通し、久闊(きゅうかつを叙(じょ)している様だ。全く知らない間柄ではないらしい。
暫くして、二人の内の年嵩(としかさ)らしき男が口上を切り出した。
「いやァ、暑うござるな。我らも今は蕎麦の播種(はしゅ)など忙しゅうて、椎葉殿には久しゅう面晤(めんご)できなんだが、御辺にはお変わりなき体(てい)にて何よりに存ずる」
と、まあ当たり障りのない普通の挨拶から話に入った。膝の前に出された湯茶を旨そうに服した年嵩の男は、続けて
「されば早速ながら、尊家には先頃、求麻より娘御を貰い受けられし由。才色を兼ね備えられたる娘御とて、なかなかの評判にござる」
ここまで話してこの客人は一息ついた。為継は黙って聞いている。
「さても、その娘御に係る件なれど、今は昔、我らが供を致したる悪七兵衛(あくしちびょうえ)景清(かげきよ)様が遺児『つる様』なる御方、我らの聞き及びたる風聞によれば、今も求麻辺りにて息災の事となんある。されば、為継殿。その鶴富様とか申さるる御辺の娘御とは、かの『つる姫』にあらずや。いやいや、他意はござらぬ。ご懸念は無用になされ。まこと姫君にあらば、我らもその姫君を護らせ賜わらんとこそ存ずれ。如何ならん、為継殿。我らも鶴富様にひと目お会いしとうござるが……」
更に一人の男がにじり寄って言う。
「我らは既に武士を忘じ果てし身。つる姫様を擁(よう)し奉り、今更、殊に源氏に抗(あらが)う心算なぞ毛頭ござらぬ。ただ、ただ、景清様が一子にあらばお懐かしゅうて、更には行く末をお見届け致し、自今姫様をお護り致したき一心にござりまする。異な料簡(りょうけん)なぞ、これ一切持ち合わせてござらぬぞ」
この男の話を享けてまた年嵩の男が、吹き出る汗を手の甲で拭いつつ、
「我らが此処に住を定めし時まで、それはそれは苦しき生業(なりわい)にござった。やっとの事で安住の地を得たりと思い、地を耕し、水を引けば、さあ討手の噂じゃ。されば別の山地を求めて、其処で新たなる生業ぞ。更に奥へ奥へと逃れ来たりて、終に探し出だせし処こそが此処椎葉にござる。此処を終(つい)の住処(すみか)と定めてより、今如何(どう)にか村の衆とも懇ろ(ねんごろ)になりしところ。いや、かく申すも偏に(ひとえに)椎葉殿のお力添えがあったればこその事。かかる折に聞こえ来たるが、真偽の程は確かならねど、つる姫様ご生存との嬉しき噂じゃ。されば、為継殿。是非もなく、かの鶴富様とやらにお引き合わせの儀、叶いまする様」
二人は交々(こもごも)に話をしている。その声が鶴富の処まで洩れ聞こえて来る。二人は源氏の手の者ではなかったのかと、今までの張り詰めた気持ちから解き放たれて、ホッと安堵の胸を撫で下ろした。同時に、またも己の身の上が如何ように推移して行くのか気懸かりであり、新たな不安も湧いて来るのであった。
「相判り申した。暫時お待ち下されたく……」
為継は、客人二人に湯茶を更に勧めるスエに命じて、例の品々と鶴富を此処に伴うて来(く)べく申し付けた。
十三歳の鶴富が客間(でい)に現れると、部屋中が急に明るさを増した如く華やいだものになった。やや切れ長だが潤み勝ちの双眸の涼しさ、明眸(めいぼう)世に比類なしとは正にこう云う事なのであろう。この付近では滅多に見かけぬ、初々しくも気品のある美しさであった。
「ようこそお越しになりました。鶴富にござりまする」
下座に手を揃えて、恭(うやうや)しくお辞儀をする鶴富に、
「おお」
二人の客人から感嘆の声が上がったのは殆んど同時であった。求麻の宮原親重の薫陶(くんとう)の賜物(たまもの)とでも云えよう。この若い女性(にょしょう)の入室から挨拶までの一連の淀みない所作は、全て諸式に適っていて、見事と云うより他はなかった。瞬時に二人は膝を揃えて威儀を正し、改めてこの貴人に対座し直した。
「真に景清様が室 遠山様に生き写しじゃ。それにきりりと結べる口許は、景清様にもよう似ておわす。また、広き額の辺りは遠山様の如くに、姫の聡明なるお人柄をそのまま現しておる」
と、二人の深く刻み込まれた皺(しわ)の顔の眼(まなこ)は、もう湧き出た涙が溢れんばかりである。鶴富は少々戸惑った。
「よくぞ生きておわせしものかな。よくぞ……。ああ、我らはもう いつ何時死すとも悔いには思わざる。図らずも現世(うつしよ)にて、景清様が忘れ形見に相見(まみ)えようとは……。これぞ、厳島(いつくしま)の神々のご加護のあればこその事」
「何をか申すべき、高橋殿。いや藤兵衛殿。我らはこれより姫をお護り申さねばならぬのじゃ。左様に、いとも簡単に死出の旅に旅立ってもろうては困ると思うが如何(いかん)?」
高橋藤兵衛と呼ばれた男は思わず白髪交じりの頭に手を遣ったが、連れのもう一人の男の言に一同は笑いこけた。クスリと鶴富の口許からも笑みが零(こぼ)れ、先刻来の懸念も一瞬にして吹き飛んだ。
「申し遅れし条、重々お詫び申さん。我ら二人、身共は中瀬(なかぜ)重政(しげまさ)、此方(こなた)を高橋(たかはし)藤兵衛(とうべえ)と申しまする。何れもかつて平氏の家人にありしが、壇ノ浦以来源氏の追討の手を逃れて、今では此処を安住の地と心得ておりますのじゃ。他にもまだ落ち武者が十名程はおりまするぞ。他には、かつての女官も同道致しておりまする」
中瀬の話はまだ続きそうであったが、為継はスエが持ってきた小太刀と赤い布切れを包みから取り出して、二人に披露した。それを目の当りにして、二人の眼はいよいよ輝いた。
「おお、これは紛(まぎ)れものう景清様が差料(さしりょう)じゃ。ようく覚えてござる。景清様の京(みやこ)を落つる時も、屋島、壇ノ浦の合戦の折も、肌身離さず腰にせし物じゃ。また、この赤き旗幟(きし)を、我等いかなれば忘るべき。紛う事なき平家の物ぞ」
中瀬と高橋は、交互に小太刀と赤旗に眺め入り、「ウンウン」とでも言う様に首を縦に振りつつ各様に頷いている。心ならずも二人は噎(むせ)び泣いている様である。
「して、鶴富様。いや姫御前(ひめごぜ)は肥後国求麻に在りし時、宮原殿より如何なる話を伺うておわそうか」
中瀬の少々涙に濡れた顔は、急に鶴富に向けられた。
鶴富は、親重から申し聞かされた条々の逐一を、一人の乞食僧より己を託されし事、更にその僧は鵜戸に旅立ちての後、今はその生死の程さえ知れぬ事、等々 知り得る限りの事を話した。
その話を何一つ聞き漏らすまいと耳を傾けている元平家の武士中瀬と高橋の二人は、その話が進むにつれ、はらはらと涙した。
「やんぬるかな。お労(いたわ)しや。我らも景清様は大畑(おこば)なり鵜戸へなりと、落ちにけるやに聞き及びたる事もあれど、未だに はきとは分かたぬ。壇ノ浦より田の浦、豊後に入りて祖母(そぼ)の山々を越え、更に諸塚(もろつか)から江代(えしろ)に至りしまでは、共に過ごせしものを。飢えと寒さの中で姫様の母乳に困(こう)じて、何ぞ糧(かて)になる物をと探す内に、山中では方角も分かたず、多分に東と西に、景清様と遠山様とは 我らも離れ離れに相成り果てて仕舞うたのじゃ。我ら、十四・五人程の武者共はこの椎葉まで辿り着きたるが、景清様、供も二人程あったやに存じ候えども、左様か、求麻に落ちておわしてか。ただ 景清様はやはりの事、更に鵜戸へ、とはのう……」
向かったとは思わなんだとでも云うよう、中瀬はある種の感慨に耽(ふけ)っている様子であったが、今度は為継に向かって襟(えり)を正した。
「さて、そこでじゃ、為継殿。如何じゃ、鶴富様に、いや姫様に、如何じゃろう、小さき庵(いおり)でも結んでは呉れまいか。いやいや、その庵とて、身共らのほうで用意致そうとも構わぬ。鶴富様は御辺が娘御に違いはないが、ただ、我らも日頃の姫の世話を承りたいだけじゃ。仲間には、と申しても此処にはあらず他の隠れ里の話しなれど、まだまだ猛(たけ)き者も数多(あまた)ある事ゆえ、いつ何時姫を担ぎ出さんとする輩が出来(しゅったい)せぬとも限らぬ。更には風聞じゃと、人吉辺りには源氏の討手共も潜みおる由。されば、我ら屈強の者が一人二人警護も致さん。また、かつての女官共も侍る主(あるじ)のあらば、さぞや嬉しからんと承知致す」
此処まで中瀬に談じ込まれては、為継とて無碍(むげ)に断る訳にもいかなくなってきた。
ただ、平家の残党に囲い込まれた鶴富の身の上に、これから先 如何なる出来事が待ち受けているのか、また求麻の宮原家にどの様に申し開きをするのか、心中穏やかならざる物もあったのである。
為継と平家の落ち武者二人の間の話を、鶴富は傍で耳にしていて、女とは何故に己の意の儘(まま)に動く事が叶わぬのであろう、己はもう普通の村娘で構わぬのじゃ、静かな時をこそ下され、と心の内に叫んでいた。
「鶴富の意も必要にあらざるか。左様に性急に事を運ばれてものう……。 鶴富、そなたの意の内は如何なものであろう」
為継は難しい顔で、彼女に話を向けてきた。
「出来得る事にあらば、私はこの屋敷にて、義父上様、義母上様、小一郎殿、マツ殿と共に暮らしとうござりまする」
鶴富の返事を受けて、すかさず為継は
「中瀬殿、娘は斯様(かよう)に申し居るが……」
と、鶴富を敢えて娘と呼んで、二人の申し出を拒もうとした。中瀬と高橋の両人は、その程度の婉曲な断りに屈する男ではない。数々の修羅場を掻い潜(かいくぐ)ってきた猛々しい武人である。
中瀬は為継の話しを遮(さえぎ)りながら、今度は直(じか)に鶴富に話し掛けてきた。
「いや、姫のお苦しき胸の内、我らもよう解っておりまする。なれど姫は、我ら落人の今の暮らしをご承知か。我らはもう武士は捨てておりますのじゃ。日毎夜毎に畑を耕し、山菜を採り、山の鳥や猪を猟して生計を立てておるのが、今の我らの暮らし向きにござるよ。今再び平家の旗を押し立てんなど、左様な気持ちはさらさらござらなんだ。今はただ、静かなる暮らしをなん望んでござる。左様思し召せ。ただ落人と雖(いえど)も、元を糺(ただ)さば皆 猛(たけ)き者。狩猟の量の多寡(たか)、配分の方法等によりては、争い事の出来(しゅったい)もしばしばにござる。幾十年の月日を経ぬる後、仲良うもなるべしとは思えど、今はまだ皆々の毎日(まいひ)の暮らしと心にゆとりがござらぬ。されば、姫のお力が必要なのじゃ。我らが主として侍るべき御方鶴富姫こそ、心の拠り所として必要なのでござりまする。さすれば我らが力も一つとなり、諍い(いさかい)も何れ霧消(むしょう)致そうぞ。平氏の流れなる姫なればこそ、そも可能ならめ。我らが畑仕事にも、より一段と精が出る事にもならん。篤(とく)とお考えあるべし」
熱情の籠(こも)った中瀬の言に為継は、遠くない先に己の隠居所とする事もあらんか、その時までは鶴富専用の屋敷としても良いと考え、中瀬の申し出を承諾した。その普請に関しての差配は全て高橋に委ねる事にした。鶴富も小さく頭(かぶり)を縦に振らざるを得なかった。
時を経ずして、椎葉家よりさほど遠くない場所に、本家の椎葉家には比ぶべくもないが鶴富の住まう新しい屋敷が出来上がった。年若の鶴富がそこの主(あるじ)となった訳である。
農作業の合間を見ては、かつての猛き者共も加勢に来た。その数、延べ三十人もあろうか。男共は柱を立て、土壁を塗り、屋根を萱で葺いた。女は煮炊きをして、かつ男供の手助けをした。元締めは中瀬である。
十畳ほどの居間(うちね)と寝所(つぼね)を兼ねた部屋と十二畳ほどの客間(でい)、それに台所と土間(とじ)を持つその家が竣工した日、為継と中瀬は平家の落ち武者共と村人らを招いて、ささやかに祝宴を催した。
宴(うたげ)が進むに連れ、嗚咽に咽(むせ)ぶ者も居る。呵呵大笑する者もある。大方蕎麦で作った焼酎の勢いであろう。どの顔も等しく、新しい主の出現が嬉しくて堪(たま)らない様子である。宴も最高潮に達した時分、ある男が勢いに任せて、
「我らは如何(いか)にこの日の来たらん事を待ち望んでおりし事か。我ら再度力を合わせ、源家に矛先を向けてみらば如何(いかん)。不土野(ふどの)、大河内(おおかわうち)また五木や久連子(くれこ)、樅木(もみき)、椎原(しいばる)、仁田尾(にたお)の者共と共に合従連衡(がっしょうれんこう)いたすのじゃ。総勢百名ほどにはなろうぞ。更には西国の族長どもにも諮り、かつての平家の寄騎共を結集せん。頼朝が伊豆に挙兵せし時、僅かばかりの手勢であったという話じゃぞ。その手始めとして先ずは人吉・相良を討つのじゃ」
と、物騒な事を言い出した。すると直ぐ様、この血気盛んな男の言を中瀬が制した。
「お控えなされ。今更言うても詮無き事ぞ。我らは武士を捨てたる身にあらざるか。鎌倉の幕府が、今更討てるものにもあらじ。追討の手もいまだに各地に潜みたる程に、黒木殿、滅多なる事は口に致さぬ事じゃ」
「何を、この腰抜け奴(め)。何時までも手を緩めざる幕府の仕打ちに、腹は立たなんだか」
「腰抜けじゃと?」
二人の間に一瞬にして険悪な空気が流れた。中瀬の顔も青く震えている。
二人の徒(ただ)ならぬ言動を見兼ねて鶴富は
「お二方ともお止めくだされ。私は悲しゅうござりまする」
と、二人の間に割って入った。目には涙さえ浮かべている。
鶴富の必死に哀願する様に、中瀬も黒木と呼ばれた若者もそれで矛を収めた。
鶴富屋敷(出典:Wikipedia) | 長い縁(出典:菓te-riのNo+e) |
椎葉は村落のあらかた九割以上が山林である。
上椎葉と呼ばれる里を中心に幾つかの部落があり、その部落全体で村を成している。主なものは、鹿野遊(かなすび)・松尾(まつお)・大河内(おおかわうち)・尾八重(おはえ)・福良(ふくら)・不土野(ふどの)・尾向(おむかい)などである
里の僅かばかりの田畑に米や野菜を作り、他の食物は山々に頼らねばならぬ。春になれば筍を掘り、蕨、土筆などの山菜を採る生活である。時には近くの耳川で、鮎や山女(やまめ)更には鰻も獲れた。
米・麦の他の穀物の多くは山々の中腹の畑で採った。採ったと云うより、この様な場所にしか耕作出来なかったからである。稗、粟、蕎麦、大豆、小豆、延(ひ)いてはサトイモ、大根などもこの不安定な山の斜面に作付するのである。
山の急斜面を焼き、そのあとに蕎麦の種を蒔き、二年目には同じ畑に稗・粟を、三年目には小豆、四年目には大豆と云う様に輪作していく。
そして五年目には、また元の森林に戻していくのである。これを焼畑農法と呼んだ。
自然から受ける恩恵に遍(あまね)く感謝して収穫し、また元の自然に戻してゆく。同じ場所は更に二十年乃至(ないし)三十年の時を経て、再び同じ運命を辿る。
山懐の奥深く抱かれる此処の人々は、悉(ことごと)く人間の驕(おご)りと云うものを知らぬ。全ては自然の恩恵である事を思い、自然に感謝し、敬虔(けいけん)な祈りを決して怠らないのだ。
焼畑の火入れの前には供物を供え酒で清めた。清めた後、蛇や蛙に至る小動物にさえ、早くこの場を立ち去るべく祈りを捧げる。
「このヤボに火を入れ申す。ヘビ・ワクドウ(蛙)・虫けらどもも、早々に立ち退(の)きたまえ。山の神様・火の神様・お地蔵様、どうぞ火の余らぬ様、また焼け残りのなき様御守りやってたもうれ」
更に鎮火した頃、正確にはまだ燻っている処に種を蒔く。この時、再びまた祈りを捧げる。
「これより恵方(あきほう)に向って蒔く種は、根太く、葉太く、虫けらも食わんように、一粒万倍、千俵万俵、おおせつけやってたもうれ」
鶴富は思う。山深いこの里で、彼らが今日まで生命を繋いできた物は、やはり先人達の弛(たゆ)まざる努力であり、かつ自然への畏敬であったと。人は自然に生かされている。人もまた自然に対し、僅かなりとも己らの手を加える事によって、その自然をより豊かに生かしている。この焼畑農法がそうであった。あまたの植物は、焼き尽くされた大地から新しい生命を育む。小さな昆虫や名も知れぬ虫けらと雖(いえど)も、新鮮で豊饒(ほうじょう)な大地の創造に一役買っている。その大地の恵みを、自然の恩恵を、更に人が享受するのである。自然と人間の共生そのものであった。
その村人達の平和な日々の暮らしの中に、突如として平家の落武者共が侵入して来た。鎧・兜こそもう脱していたが、刀、弓の類はまだ手挟(たばさ)んだ儘であった。あれからまだ十二・三年しか経っていない。
暫くの間と云うもの、村人達は恐れ慄(おのの)いていたが、やがて落武者共は武具を何処かへと仕舞い込み、山に畑を起こし始めた。時を経て、何時しか村人達もこの哀れなる落武者共に馴染み、話し、笑い合う様になっていった。そして、村人達はこの山里に相応わしい農法を教えてゆき、落人らも謙虚に耳を貸す様になったのである。また、逆の場合もあった。武士と雖も元来は何処ぞの百姓衆である。お互い同士長所を取り込みながら、椎葉特有の農法を編み出していったのであった。
さて、新しい屋敷での鶴富の生活には、一人の元女官が付く事になった。名を「鞆(とも)」と云う。普段、鶴富は「鞆殿」と呼んでいたが、この鞆は二位の尼が壇ノ浦に安徳帝を擁し奉っての入水(じゅすい)の時、己も一度はその供をした。ただ、幸いにも平家の小船に拾われて、他の落人と共に此処まで連れ立って来ていたのである。
毎日の生活の手助けは、殆んどこの鞆が済まして呉れる。それのみか、「今日はいい山芋が取れた」の、「アケビが良い具合に熟れていた」だの、男女を問わず他の者も鶴富の許を訪(と)うて来る。
為継もスエも鶴富を案じては、「農作業の合間じゃ」とて立ち寄り、弟小一郎も妹マツも「姉様」と言っては遊びに来た。
何の不服があろう、不服どころか他の落人の生活に比ぶれば格段の幸せである筈なのに、心は何処か満たされる処がない。その鬱積した気持ちを払拭する為にも、鞆による詩文の教授の合間には、髪を束ねてちょっとした被(かぶ)り物を巻き外に出た。畑仕事の手伝いを買って出て、一汗掻(か)くと気分もすっかり落ち着くのである。
しかし大方は、「姫様に左様な事を……」と拒まれる事が多かったので、されば吾が屋敷の内なら好かろうと、大根なども植えてみた。水を遣り、時には下肥さえ施して、己が慈しみ育ててみると、その収穫の時の喜びはまた格別であった。
「鞆殿、見て。これを見やれ」
と、鶴富の顔は明るく生き生きした表情である。鞆としても、今更ながらの無理強いに近い漢詩の素養の教授など、無意味にさえ思われた。
その様に、鶴富が気分は詩文の上になどあらずと感じた時、鞆も一緒に畑に出て鍬を振るい、共に喜び、共に笑い、彼女の気分が一新するまで待つのであった。
或る時など、やはり山に入り蕨を採っていたが、突然目の前にとぐろを巻く大蛇を発見した。その蛇が己の方に鎌首を擡(もた)げて来た。大声を上げた鶴富は、「もう行かぬ」と一時虞(おそれ)を為していたが、それも長くは続かなかった。
これから花盛りを迎えようと云う娘は、まだまだ好奇心も旺盛であった。
とこうする内に鶴富は十七歳になった。
今ではもうすっかり山里の生活にも慣れて、落人を含めた村人達の顔も一人残らず覚えている。とかく都や他の地区の民人から見れば不自由であろう筈の日々の暮らしも、何の不自由も感ぜられなくなっていた。
ちょうどこの頃である。スエが、
「そなたも、もうそろそろ鉄漿(かね)付けをせねばのう」
と言う。鶴富も頭にないではなかった。
ただ、これまで黒い歯が何となく嫌で、頑強に拒んでいただけである。しかし、既婚の者は云うに及ばず、初潮を迎えた娘のその殆んどの者が鉄漿黒にしている。成人男子でさえこれを施した。が、平氏はともかく源氏の武将には少なかった。
鉄漿親(かねおや)にはスエがなった。鞆も勿論黒く染めていたが、「平氏の者にあれば……」と、殊の外悦びを露わにしている。
鉄漿付けを終えてみると、その特異な臭いにやや顔をしかめたが、どうにか慣れた。鏡に写った己の貌(かお)は、今までの白い歯の時と違って一種の不気味な異様さである。これで少女の己とも永遠に別れを告げねばならぬと思った。
その後暫くの月日を経て、鶴富の手とも足ともなった鞆が死んだ。次いで、椎葉の義母スエが些細な病が元で呆気(あっけ)なく亡くなった。共に四年ほどの短い交わりであった。
二人の死はやはり寂しいものであったが、特に鞆の死の遠因については、大方壇ノ浦での入水とそれに打ち続く逃避行、更に山中での心労が、彼女の肉体を人知れず蝕んでいた為のものであろう。その労苦が、鶴富にも推し量られた。まだ若く、惜しみて余りある三十三年の生涯であった。
その鞆の死後の鶴富の立ち居振る舞いは、まるで鞆の呪縛から解き放たれたかの様でもあった。否、鞆のいない今、その存在の大きさを日毎に知らされ、何一つ意の儘にならぬ己に気付いて、ただ夢中で動き回っただけの事とも云えた。
椎葉家には下女もいるし、マツも既に十三歳になっていて、家政の大半は取り仕切っている。また、小一郎も既に元服し、名も小一郎経頼(こいちろうつねより)と称している。
椎葉の地は、一応人吉相良家の支配下にあって、小一郎も時折 村から山を下り、相良に伺候する習わしである。
一方の人吉や求麻は、今や完全に相良家の所領となった。此処の盆地にも平和な時が永久に流れているが如く見えていた。