この物語の二つの地、宮崎県椎葉村と熊本県球磨地方とは、地図上の直線距離にして凡そ30キロの近きに位置する。ただし、実際に踏破すれば険阻な山々と難所に阻まれて、実測の二倍や三倍以上に感じられる距離であろう。
その昔、椎葉村は人吉・球磨地方の領主相良氏の支配下にあった。この二つの地に残る伝説を融合し、一つの話として創作したのがこの物語である。従って、それぞれの地にまつわる本来の話は独立した別個のものである。
椎葉村の鶴富姫伝説はつとに有名であるから何ら説明も要るまいが、一方の宮原村(現・熊本県あさぎり町岡原北切畑地区)の「景清の女」伝説は殆ど知られていないといってよい。この話をかいつまんで説明しておくと次の通りである。また、「景清」は今日、能、浄瑠璃、歌舞伎等の古典芸能としてつとに喧伝もされているので、実際に見分された方も多いであろう。ここに伝わる伝説とは、
――源平の戦で日向に敗走した平景清に一人の娘がいた。その娘ははるばる京の都から父を尋ねて九州まで下って来たが、この地まで至ったとき、ある黒い怪物が飛び掛ってきた。ビックリした娘は咄嗟に道端のゴマガラを拾い、それでもって怪物の目を突くと、その怪物の正体は一匹の黒猫であった。その夜、娘は付近の民家に宿を乞い泊したが、さても今度は己の目が痛む。それでは父を追っての旅立ちもできぬのでその民家に滞留中、ある歌唄いの声が聞こえてきた。その歌唄いは、「ああ景清は白波の、消えてあとなき海のかなたに……」と唄っている。愕然とした娘はもう生き甲斐を失くし、平家の赤旗を切り裂き、そこに自害し果てた――
というものである。「切旗」が転じて「切畑」になったものであろう。これがこの地区の地名の由来であるという。また、ここでは畑にゴマは植えてもゴマガラは持ち込まず、更に黒猫も飼わないという伝承も存在する。
一方の椎葉の鶴富にしても、厳しい隠れ里での生活は、いつまでもかつての貴族文化に思いを馳せ、執着しているわけにはいかなかったであろう。ましてや、源氏による平氏追討の最中である。身を潜めての慎ましい生業であったはずだ。
この二人の女性には、我々の計り知れぬ様々な葛藤があったであろうとことは想像に難くない。そういう発想のもとにこの物語を創作した。言うなれば薄幸の女性「鶴富」は、筆者の勝手きわまりない空想癖の申し子なのである。
しかし今でも尚、拙い筆の運びに業を煮やした鶴富が、盛んに私の胸を突いてくる。
これは何であろう。その面上には、不満げな表情をありありと浮かべて。
椎葉村の鶴富姫の墓(出典:日本伝承大鑑) |