朝早くから今年の稲の生育具合を見廻りに行っていた友親は、屋敷に戻るや、ある異変に気が付いた。何時もならば既に起きていて、己を待っている筈の鶴富がいない。
「母様は何処(いずこ)じゃ」
友親が夏に問い質(ただ)すと、鶴富は早めに出掛けたと言う。
「母様は隣村の岡本まで着物の仕立て直しに行くとか言うて、朝早うお出掛けでござりもした。何でも大きか包みば持っておらしたけん、早うお帰りちゅうて送り出したとでござりもす」
夏は特に気にも留めていない様子である。盲(めしい)の身であるのに、と友親は少々気にもなり、夏に対して腹立たしい思いがしない訳でもなかった。ただ、一本の杖に縋(すが)って、やや遠方までもしばしば出向く癖(へき)のある鶴富が事である。まあ大事はなかろうと考え、彼は「左様か」とだけ返事しておいて、次の仕事の為に納屋に向かった。
友親は、新しい筵(むしろ)も必要だと考え、己自身でその筵を打ち始めた。打ち始めて暫くすると、筵の骨ともなるべき縄が一本プツンと切れて仕舞った。これまでその様な事は一度たりともなかった事である。「はて、面妖(めんよう)な」と思いつつも、更に作業を続けていた。
鶴富は一度往還へ出て、それから別の山道に入り祠の前に向かわんとした。その途上、不意に後ろから声を掛けられた。茂助である。その声で判った。
「鶴様、どちらまで?」
「ああ、茂助さん。お早い事で。いや、山の神様にお詣(まい)りに参る途中じゃったが、何を思うたのか、うっかり往還に出て仕舞いましてのう。いやいや、歳は取りたくないものじゃ」
一言二言言葉を交わした後、「それじゃ気を付けて行きなされよ」と促した茂助であったが、胸に包みを抱えて杖を頼りに歩く鶴富に奇異な思いがした。
「奇妙な事をなさるお方じゃ。お詣りじゃちゅうに、何ば抱えていなさるとじゃろう。」
茂助は其処で鶴富を見送って、一人ぶつぶつ呟いていた。
鶴富は茂助に会えて良かったと思った。子供の頃から己を慕って呉れた彼だけには、密かに別れも告げておきたかったからである。
茂助と別れて、更に鶴富は吾が屋敷の裏山まで遠回りをした。わざわざ別の道を辿ったのは、誰か他の者に見咎(みとが)められて、邪魔される事を怖れたからに他ならぬ。ただ茂助だけは、己の所業を赦して呉れるであろう、とそんな気がした。
辿る道は、子供の頃茂助達とよく遊びなれた山道である。だが、今の盲目の身では光も僅かにしか感じられない。坂道で二・三度滑りそうになり、その都度吾が魂を永遠に生かす為の道具を落として仕舞いそうになった。一昨日(おとつい)の雨で、まだ日陰にあたる場所は滑(ぬめ)っているのである。
四半刻(30分)ばかりして、漸(ようや)く吾が家の裏山に辿り着いた。幸いにして彼女を永遠に生かす場所は乾いている。
鶴富は先ず祠の前に行き、杖を右脇に置いて跪(ひざまず)いた。周辺に人影のない事を耳と肌で確認の後、祠の山の神に向かって拝礼した。
そして声低く祈った。
「山の神様。そして遠くは厳島神社の神々様。先ずは私をお許しあれ。私は既に現世(うつしよ)に生ける気力を全て失うてござりまする。今、宮原、椎葉の両家の二親を亡くし、また吾が夫(つま)を失い、更には実父も今は亡き者にござりまする。故に、私のこの肉体を滅し、永遠の魂として皆と共に神仏の御許に生きてゆかまし、と望みおりまする。願わくは、一日も早う戦乱なき泰平の世の来たらん事を、またこの身の如き者が救われん事を、切にお願い申し上げ奉りまする。また、後に遺されし者達には、どうか一層のご加護を賜りまする様……。更には、今よりこの境内を汚しまする事、どうかこの盲の女子(おなご)を哀れと思し召して、どうか、どうかお許し下さりませ」
鶴富は短く祠に向こうて祈った後、やおら 此処まで携えてきた包みを解(ほど)いた。包みの中から取り出したものは、例の赤旗と小太刀、それに白い打ち掛けであった。
それから、ゆっくりと小太刀の鞘を払った。
その刃で、折り畳まれた赤旗をその折り目に沿って一気に割(さ)いた。割いた布切れに、更に三度四度と刃を当てて細かくした。一部に錆のある小太刀ではあったが、小気味良い位に良く切れた。切り裂かれた赤い布切れは、幾枚かに重ねられて彼女の左脇に置かれた。
それが済むと、座した儘で打ち掛けを両肩に羽織った。大八郎宗久との思い出深いそれである。
次に、今断ち切ったばかりの赤い布切れを手に取って、長い髪を根元から一本に括(くく)った。万一の場合には、刃を己の後ろ頚筋に当てねばならぬ。その用意であった。
更に同様に布切れの幾枚かで以って両足を固く縛った。縛った儘に端座せんとすると横に転びそうになって難しかったが、どうにか祠の正面を向いて座る事が出来た。
小太刀は座った膝の前に置いてある。鞘を払い、柄(つか)を両手に持って刃先を咽喉許に向けてみた。やや長過ぎる様である。失敗せぬかと思いながらも、その儘 突いてみる事にした。
「さらば。お暇乞(いとまご)いにござりまする」
目を瞑(つむ)って低く呟くと同時に、女はその刃先を己の咽喉許に突き立てた。
その瞬間チクッとした様な気もしたが、もう半ば気も失い掛けている。ただ、狙いの咽喉許からやや逸(そ)れた様だ。無我夢中で、今度は刃を咽喉許から引き抜いた。すると、朦朧とした意識の中でも、咽喉許からヒュウヒュウと呼吸(いき)の洩れる音がする。既に、咽喉から胸元に掛けては血に濡れている。打ち掛けも朱に染まった。
最後の力を振り絞って、今度は右手の小太刀を己の後ろ頚筋(くびすじ)に当てて、左手で圧さえながら力の限り右に引いた。引き終わった瞬間、女の白い項(うなじ)からは夥(おびただ)しい鮮血が迸(ほとばし)って、辺り一面に飛び散った。そしてその儘 前に突っ伏した。
頚から流れ出た血は、それまで黒ずんだ儘に断ち切られていた平家の旗を、再び昔の色に戻さんとするかの如く、みるみる真っ赤に染め上げて行く。暫くの間、女は全身を痙攣させていたが、それも力は失せて徐々に落ち着き、程なく収まった。
壮烈な、そして従容(しょうよう)とした死であった。悪七兵衛景清が娘に恥じぬ死であった。
数奇な運命の道を辿った女人は、此処にその生の幕を自ら引いた。
女の遺骸(なきがら)を最初に発見したのは、やはり茂助である。
今朝、茂助が出会った折の鶴富の不思議とも思える行動には、彼自身測り兼ねる思いを抱いていた。何処かしら、ここ二・三日の鶴富に纏わる陰鬱な影に、茂助は茂助なりに不穏な思いを抱いていたのである。鶴富と別れて一旦我が家に戻って来て、気にはなりながらも農作業に就いていた。
そこに、友親からの知らせである。
「一里もない隣村への用向きであると云うのに、母者が夕刻になってもまだ戻らぬ。何か心当たりはないか」
と言う。それを請けて、茂助を初め宮原の小作人と下働きの者十人ほどが、周辺と岡本村に続く道を中心に探し始めた。
友親は我が家の鶴富の座敷に入って、手懸りを探ろうとした。文机の上に置かれた四通の遺書。盲目の人間が認めた物だけに、文字の乱れはあるが、文意は全く乱れのないものである。
「仕舞(しも)うた」
遺書の存在を友親から知らされた茂助は、思わずそう叫ぶや家を飛び出して行った。急いで今朝 鶴富に出会った付近から山道に入り、山の神の祠に向かって足を進めた。歩を早める毎に、胸の鼓動は高まってくる。
祠の入り口に立った。
「やはり……」
そう思いながら見ると、祠の前に女人が突っ伏している。鶴富であった。
抱きかかえて見ると、血まみれになって既に事切れている。しかし、特に苦悶の表情も見せてはいない。女のその魂は懐かしい者達との再会を果たし、いま互いに喜び合っているのであろうか。却って、晴れやかな表情とさえ云えた。
黄泉に旅立った青白い貌(かお)は、疾うに四十を越した女には見えぬ。傍には、赤く染め上がって数刻を経た旗の切れ端がまだ幾らか血潮に濡れていて、まるで糊をもってでも貼り合わせたかの様にぴったりと重なり合っている。内 乾いた幾枚かは荒(すさ)ぶ風に散乱していた。
その女の遺骸を抱いて、暫くの間茂助はその死に顔を眺めていた。すると、すっかり色を失った女の唇(くち)が、僅かにピクと動いたかの様に思えた。
その冷たい唇に、茂助は己の唇を重ねた。それから人を呼びに走った。
遺骸は宮原家の墓地に葬られた。物も言わぬまま幼くして亡くなった芳の直ぐ近くであった。親重とトミの墓石も一緒に並んでいる。
後年の事であるが、村人はこの薄幸の女を偲び別に碑を建てた。しかし、まだ色々と難が及び兼ねないと考えたのか、碑銘は『平氏将女之碑』のみとした。そして人々は何時の頃からか、この地区を「切旗(きりはた)」と呼ぶ様になっていった。転じて「切畑」と呼称され、今日に至っている。
また椎葉にも分骨されて、墓石が建てられた。その碑は、この頃盛んに造営されるようになっていた宝篋印塔(ほうきょういんとう)であった。
更に時代は降った約五百年後の宮原村での事、人々の記憶も、鶴富とその碑の存在を完全に忘れ掛けた頃の享保七年(1722)壬寅(みずのえとら)の年、村の庄屋 那須甚七(なすじんしち)はこの切畑の地に新たに石碑を建立した。彼は一族の祖とも云うべき鶴富の事蹟を調べ、判読出来ないほど薄れた女の碑と魂とを憐れんで此処に祠を営んだのである。
しかし、この碑も多くを語らない。ただ簡潔に、この地にひと時でも「景清の女(むすめ)」と云う女人が生き、かつ死に、かつて此処に墓碑が存在した事を示唆するばかりである。
その碑に謂う。『傳聞 上古 景清將(つたえきく じょうこの かげきよのしょうが)息女之廟(そくじょのびょうは)此処也(ここなり)』と。
一方、椎葉に残された那須大八郎宗久と鶴富が裔(すえ)は、完全に人吉相良家の被官となった。その一族は、椎葉の地を中心とする一帯に、更には国境を超えて末孫まで代々栄えた。椎葉家についても同様である。
またこの頃、誰が唄い始めたのか、鶴富と宗久の悲恋を唄う俗謡が流行(はや)り始めた。その旋律は言い知れぬ哀調を帯び、恰(あたか)も椎葉の里に残された山椒の古木の精霊が、多くの民衆に憑依(ひょうい)して唄わせている様な物悲しい響であった。
更には、風の強い夜など他の樹木と相俟(あいま)って、古木は殊更ざわめいた。聞き様によっては、鶴富と宗久が木の下に集うて二人に纏わる昔語りをし、囁き合い、時には忍び泣いている様にも思われたのである。