さなぼり

「山の笹舟」 ―― 平氏一門に血を享(う)けしゆえに

   安心立命(あんじんりゅうめい)

    (一)

 忘れ掛けて久しく、また懐かしい宗久からの書状は、既に十日程前に小一郎が屋敷に届いていた物であった。それを智行が託されて、如何に鶴富が許に持参するか、その思案中に今回の親重の葬儀に相成ったと言うのである。
 書状の封は智行が開いた。
 智行はさっと一読した後、複雑な表情をした。その面上には、明らかな戸惑いの色が滲んでいる。長年待ちに待っていた書ではあったが、鶴富にとって決して喜ばしい物ではないらしい。
「何を致しておりまする。早う読んで下され」
 彼女の催促に、智行は意を決して読み始めた。
 長年の無沙汰を詫び、鶴富と久が安否を問うている。次に、宗久は下野国の領地へ戻り、今では男女二人の子を儲けて何れも成人している事、更に老齢なれば椎葉へ出向く事も叶わずと云う内容であった。続けて読み進めんとして智行はまた躊躇(ためら)ったが、一気に先に進めた。
――平景清殿が事、兼ねてより鎌倉へ訊(たず)ねありし処、過日返書此れあり候(そろ)。さても日向国鵜戸へと落ちける後、しばし彼の地に留まりたるとぞ。然れども源氏の探索 一向に緩まざる気色なれば、さる神前に於きて御身を縮められし由。 痛恨の極みなり。されば、伝え聞く景清殿が最期こそ無惨なれ――
 そして書は、景清は自害直前に肥後国求麻に残せし女児を気遣(きづか)って憐れんだが、「己に眼球の有ればこそ子にも会いとうもあらめ。源氏に弓も引きとうなるべし」と、終には吾が眼球を抉(えぐ)り出して神前に供え、首に刃を当てて掻き切ったと云う凄まじいものであった、と付け加えていた。
 壮絶な実父の最期に、もう言葉もなかった。しかも既に三十年以上も昔の出来事であったとは……。かつて養父親重より、詳(つまび)らかにはあらねど、と聞いた話はその事であったのかと改めて思い起こした。己は何処まで呪われて生を享(う)けているのであろう、と己の出生(しゅっしょう)が恨めしくまた悲しかった。
「もうよい。その書(ふみ)は焼いて下され」
 鶴富はそう言い捨てて立ち上がり、裏木戸へ出た。そして、菊花の香りを嗅ぐ事もなく暫く枝折戸(しおりど)の前に腰を屈(かが)め、両手で顔を覆い肩を小刻みに震わしていた。

     (二)

「死のう。今更、これ以上の生を貪っても何程の事があろう」
鶴富の中に漠然とした想いが生じて来たのは、この頃である。
平氏の流れを汲む女の一人として今日まで生きてもきたが、それが己の身に何を齎(もたら)して呉れたであろう。良い齎し物など何一つなく、却って邪魔になるだけであった。
平氏の景清が娘であればこそ、実父から捨てられた。その為に、別に養父・義父の二人と養母・義母の二人を持った。両父母とも実子以上に己には目を掛けて呉れた。ただ宮原の養父母が本当の己の親ではないと判った時から、はっきりと意識しないまでも、やはり幾分かの遠慮が生じて来ていたのも事実である。
唯ひとつ、宗久を屋敷にしばしば迎えて睦まじゅう暮らした椎葉での日々も、久が胎内に宿って臨月の頃には、その先に別離(わかれ)が待っていた。
そして今、久が成人して婿を取り、その子らの成長する姿を見る時、ふと己の実父と母とは如何なる人であったろうと頻りに思うのである。無性(むしょう)に逢ってみたく感じた事が幾度あった事であろう。しかしそれは、もう永遠に叶わぬ望みとなった。
過日の宗久からの書状で景清の死を知り得た時、景清の最期の地を訪ねてみたいとも思ったが、今はそれさえも叶わぬ望みであろう。老いの坂を下り始めた盲目の身で、鵜戸までの道程(みちのり)は厳しすぎる。否、何よりもまだ手の掛かるトミが居るではないか。そのトミを残して何処に行けよう。近年、下働きの女の来手(きて)さえないに等しいのだ。
 更には宮原の家も、親重が代で絶やしてはならぬ、先決すべきはその事であろうとも考えた。されば、己の体がまだ動ける内にと、早速養子縁組に奔走し始めたのである。
最初、鶴富は 智行と久が第二子を宮原家に迎えるべきかと考えた。が、その児ではまだ幼すぎる。そこで、宮原親重の実弟免田村の松岡家からその第三子 友親(ともちか)を、宮原家の嗣子(しし)として迎える事にした。更にその妻として、これもやはり遠縁の十六歳の娘 夏(なつ)を久米村から招じ入れた。友親は、元喜蔵(きぞう)と称していたところ宮原の家に入り、親重の一字を貰い受けて友親を名乗ったのである。
友親も夏も若さに似合わず気立てがよく、トミにも鶴富にも昼となく夜となく尽くして呉れる。「病の者揃いのこの家に、二人ともよくぞ来て呉れたものじゃ」と彼女は心から感謝していた。
鶴富の心も幾分晴れて体も楽になった。ただ、若い夏ではまだ分別がつかぬ事も少なくはない。やはりトミの介抱については夏に指示し、場合によっては、見えぬ目ながら自ら始末する事も多かった。

       (三)

 友親と夏は、二人して農作業に出向く事も多い。トミの襁(むつき)の洗い物などは、大抵夏が早朝から済まして呉れている。が、時折困惑するのは夏が出かけた後に限って、トミが一ト騒動も二タ騒動も起こして呉れる事である。
時には、己も目が見えぬのに、とトミの存在が苛立たしく、疎ましくさえ思えた。更には腹立ち紛れの一時的なものかも知れぬが、心奥の何処かにトミの終極をさえ待望する別の己が紛れもなく潜んでいる様にも思えるのである。その想いに気付き、鶴富自身思わず慄然(りつぜん)とした。まるで瘧(おこり)でも起きたかの様に軽く打ち震えた。
「ああ、何と浅ましき事じゃ。私は何時の間に夜叉(やしゃ)になり遣ったのか」
と、その都度自身の卑しい心を責め苛んだ。且(か)つ一方では、己は二人の養親の面倒を見るべく此処に立ち戻ったのではなかったか、と再び己を叱咤するのである。更には、大人しく床に臥すトミを見ていて哀れにさえ思えたが、その一方で
「物事も判じ難きほどまでに生を貪ろうなどと、私は露ほども思わぬ。されば……」
何れは己も遅きに失せぬ内にと考え込むのであった。
こうして一年程過ぎた頃、トミの容態が急変した。一切の食を受け付けなくなり、ただ眠っているだけである。
それから二・三日も過ぎた頃、トミは薄く目を開け「何か食いたか」と言う。そこで軟らかい物を少々食させた。すると、これまで鶴富を嘆かせていたトミの言動の一切が、不思議と正常に近くなった。このまま回復するのではと思ったが、その喜びも束の間で他界したのである。
枕頭の鶴富に、トミは一筋の涙を流して、
「相済まぬことであったのう、鶴。迷惑じゃったじゃろう」
 そう言ったきり再び目を閉じて昏睡状態に入り、二日目に二度と帰らぬ人となった。それまでの寝息のような呼吸から一呼吸目より二呼吸目、二呼吸目より三呼吸目と徐々にゆっくりと長くなり、最期には長い長い溜息の様な息をし終えて、永遠に途絶えた。
親重が迎えに来ていたのであろうか、面上には笑みさえ浮かべている。全ての束縛から解放されて安堵し切った様な、穏やかな養母トミの死の床であった。
 心の病とは云え、トミに泣かされた日々にしても、今ではもっと尽くしておけば良かったと、改めて悔やまれる思いである。その一方で、鶴富の養母に対する労苦を見兼ねた親重が、早めに己の老妻を迎えに来て呉れたのであろう、とも思われた。
ただ、トミの死の寂しさは、不思議と親重のそれに増しての寂しさであった。トミの言動には、打ち震うばかりの怒りを思う事もしばしばであったが、鶴富にとってのトミの介抱は、それも何時しか彼女の生きる糧ともなっていたのであろう。何れにせよ、己に出来た最後の孝養でもあった。
トミが鶴富の手から永遠に離れた今、トミが住まっていた部屋を覗いてみる必要もない事である。しかし何時とはなく、つい鶴富の手は遣戸を押し開いて中の様子を窺い、うっかりと、「おばば様」と呼び掛けそうであった。時には、トミの夜具があった処に座ってみる。涙ながら半時も座っていると、今度は夏が心配して、「母様?」と暗い部屋に連れ戻しに遣って来た。
 葬儀も漸(ようや)く一段落して疲れが昂じたのであろう、鶴富は床に臥した。
 幸いにして二日ほどで起き上がれたが、その心にまたあの想いが頭を擡(もた)げて来た。
「この肉体を滅ぼして、神仏の御許に安らかに永遠の命を存(ながら)うべし。御仏のお教えに違(たご)うておるやも知れぬが、これぞ己にとりての安心立命(あんじんりゅうめい)
と改めてそう思い直した。
「その時は父の残せし彼(か)の小太刀で……」と、最後の決意をしたのであった。

     (四)

 宮原家の裏山は、椎葉に居た時の鶴富が屋敷の裏山とよく似ている。ただ、宮原の山の方がこの屋敷から少しばかり離れていて、椎葉の様に急斜面ではなく若干なだらかなだけである。
その山の一部に台地状の処があり、中央に山の神を祭る祠があった。樹木も程よく折り重なるように繁っており、一種の洞窟にでも誘い込まれた様な雰囲気である。子供の頃、茂助らと共によく遊んだ場所でもあった。
「此処こそ好からめ」
 鶴富は納得して低く呟(つぶや)き、その後、杖を頼りに山を降った。目立たぬ様、他人(ひと)に邪魔されぬ様にと、一度己の死に場所を瀬踏みしておきたかったのである。一旦 その決行の地を決めて仕舞うと、気がまた少し楽になった。
そこで身の回りの整理をする事にした。
整理と云っても既にあらかたの物は済んでいる事でもあるし、今日の整理が一通り済むと、彼女は文机に向って墨を擦り始めた。近頃では、僅かな光を頼りに墨も適度の濃さに擦り、文字を書くにもスラスラと書ける様になっている。念の為、永訣(えいけつ)の書を認(したた)めておく心算であった。
墨を擦る程に、その匂いが居間中に立ち籠めてきた。鶴富はその何とも云えぬ香りが好きであった。ひょっとするとその香りは、己の幼少の時分、養父親重に書の手解(てほど)きを乞うた時の、その匂いであったかも知れぬ。彼女は大きく息をして、その匂いを思いっきり吸い込んだ。そうする事によって、昂揚する気分が幾分和らぐ気がしたのである。
 遺書は三通認める事にした。一通は那須智行と久宛、二通目は宮原友親と夏宛、三通目は椎葉小一郎と加代宛であった。しかし書き進める内に、もう一通認めておきたくなった。宛名は『大八郎殿まいる』とのみ記した。何時の日か下野国・那須荘の宗久が許に届く事もあらぬか、と思案した結果である。
 遺書の内容は殆んど皆同じ物であった。
――戦乱の世に武人の、しかも平氏の血を享けて、女としては世の流れの中で水草や笹舟の如くただ翻弄されるばかりであった事、椎葉と宮原の両親にも先立たれて何一つ孝養も出来ぬ儘であった事、幸せを掴んだと思った矢先に宗久との離別が待ち受けていた事、分けても、一度も見(まみ)えぬ儘の実父景清の死が確かめられて酷(ひど)く落胆したる事、更には椎葉、那須、宮原の三家にも立派な嗣子が出来て、何ら後顧(こうこ)の憂いなき事、それ故にここらで己の身を絶って、西方浄土の御仏の許にこの身を委ねたき事――
等々を連綿(れんめん)と綴ったものであった。
 幸い、友親と夏は宮原家の土地の見回りに出向いた儘、まだ戻って来ていない。鶴富は急ぎ書を認め終えて、手文庫に仕舞い込んだ。
終わった頃にはもう夕暮れも近くなっていた。しかし、大八郎宛の書の内容が少々気になってならぬ。再び手文庫から取り出して、もう一度認め直す事にした。
 ――私はもう直 死の床に就きまするが、椎葉の地にも那須の家が子々孫々続く事でありましょう。願わくは源氏も平氏もなく、更には武門同士の権勢争いなど一切なき泰平の世の現出せん事を。大八郎殿にも伏して尽力を請い願い上げまする――
更に、この様なものに書き改めて、再び手文庫に収めた。
 夜になって、ひとり部屋に籠った。暫くの間端座して瞑想に耽(ふけ)っていたが、やおら部屋の隅の長持に手を掛けた。灯火はあってもなくても同じ様なものだが、やはり幽(かす)かな灯りではあっても、あれば何故か落ち着いた。
 長持の底から引っ張り出したのは、折り畳まれた例の赤旗と小太刀である。
赤旗を広げると、一部の折り目はもう破けている様だ。その裂け目に誤って指を突っ込み、赤旗の傷口を余計に拡げて仕舞った。この襤褸(ぼろ)に近い赤旗が己の実父の誇りであって、また己がこの布切れに包まれてあったのかと思うと、鶴富は思わずその赤旗に頬擦りをした。焼けた様な、汗の臭いの染み付いた様な不思議な臭いであった。
 次に、小太刀を鞘から抜いてみた。所々に錆が浮いているらしい。小太刀の背と腹に触れてみると、ザラッとした感触である。その刃の切っ先にも手の腹をそうっと当ててみた。と、チクリと針を刺した様な軽い痛みがあった。やはり鋭い切っ先であるらしい。
「この刃先が、明日 私の喉許(のどもと)を刺し貫く。それで全てが終わりになるのじゃ。この刃先が……」
 そう考えてみても、何か不思議と怖さがなかった。こんな物が私の息の根を止められるのかと、恰(あたか)も己の眼前に薄手の幕を二・三枚重ねて引いた程度にしか見えぬ目で見れば、一層納得出来兼ねる思いである。
「明日になれば……、否、明日からは、終に見(まみ)える事もなかりし実父・実母、それに私が養親二人、更には椎葉に眠る義父・義母ともども、仏陀の御許に皆で仲よう永遠に暮らして行けようと云うもの。じゃが……」
明日の朝になれば恐ろしくなって仕舞うのかも知れぬ、そうも考えながら、再び長持の、今度は一番上に赤旗と共に仕舞い込んだ。

神社 椎葉厳島神社(出典:宮崎観光ナビ)

帰郷に戻る | 永遠の魂へ