さなぼり

小川 龍二様短編集・Ⅱ

    軍隊手牒

 ひょんなことから、亡き父の「軍隊手牒」を入手した。「手帳」や「手帖」でなく「手牒」である。多分私と同じ67年の年輪を重ねていよう。
 元々わが家にも相当数の軍隊に関する物品があったが、父の死後私が書類を中心に焼却してしまった。よくこれだけが、どういうわけか本家に残されていたのである。
 表紙は布張りのカーキ色で、裏表紙には墨で黒々と父の姓名が記されている。表紙を開くと「扉」には、大きな朱印が捺してある。「近衛歩兵第二聯隊之印」と読める。
 ページをめくれば、まず朱色で変体仮名の「勅諭」と「勅語」。それから黒色で、「軍隊手牒ニ係ル心得」、「応召及出征時ノ心得」と続く。この手牒の約3分の2を占める分量だ。私がまだ小学低学年の頃、「夜中の便所の電燈の下で暗記した」と時折父が話していたのは、多分これらの勅諭や勅語のことであったのであろう。
 その手牒後半の約3分の1に、やっと父の事暦が読みづらい文字でびっしりと記されている。転属・転戦のたびに提出し、記録されていったものだと推測される。
 今、私はこの読みづらい手牒の父の事蹟をノートに書き写し、在りし日の父の姿を追う。子供の頃断片的に聞いた事であったが、これで少なくとも順を追って足跡が辿れそうな、と考えるからである。勿論20歳の頃から、終戦時の30歳に掛けてのたったの10年間の軍隊時代のみに過ぎない。しかし、ここには父の生きた歴史が間違いなく存在する。
軍隊手牒

 残されたたった1冊の軍隊手牒。これを前にして、その10年間でも真の父の姿を追い求めてみたいと私は思っている。

(平成24年10月)  

 

    金子みすゞ

 金子みすゞに出会ってから、もうかれこれ20年ほどにはなるだろう。当時、今ほど世間に知られた存在ではなかった。
 私とて、何をきっかけに彼女を知ったのか、今となっては分らない。気付いたら、もう結構な彼女の信奉者になっていた。仙崎の記念館にも、すでに3度ほど行った。
 秋の日の午後5時。西の空を茜色に染め、陽もそろそろ沈もうとする頃のわが家。東の山の端の上には、白く月が浮かんでいる。旧暦9月11日である。西の空を除いた天空は、まだまだ青い。明るい空に月を仰ぐのは、なんとも勿体ない話しではないか。
 こんな時、みすゞの優しい眼差しの一篇を想う。「昼の月」だ。

   しゃぼん玉みたいな/お月さま、/風吹きゃ、消えそな/お月さま。

   いまごろ/どっかのお国では、/砂漠をわたる/旅びとが、/暗い、暗いと/いってましょ。
   
   白いおひるの/お月さま、/なぜなぜ/行ってあげないの。

昼の月
 なんとほのぼのした詩なのであろう。この「昼の月」のみに限らないが、彼女の心には自然に対する畏敬の念と、全ての生命に注がれる暖かい眼差しが満ち溢れている。
 いま、己の心を見失っているときの私。ああ、そろそろまた、仙崎のみすゞに会いに行ってみよう。
                       

(平成24年10月)  

 

    叛 乱

 小学校4年生くらいのこと、私は校庭で大ゲンカをやらかした。相手は私より1年上級の「家来」である。家が近所であったわけでもないし、なぜそのような関係ができていたのかよく分らない。しかし、当時の私が悪ガキであったという記憶もあまりない。遡って2年生の折の通知表を見ると、「弱い者を苛める傾向がある」と何とも不名誉なことが書かれている。とすれば、やはりそれなりに悪かったのだろう。田舎の、しかも小学校のことだからあまり当てにはならぬが、それでも学業成績は決して悪くはなかったようだ。
 この生徒とのケンカの原因も、今は思い出せない。ただ、昼休み時間で、土埃にまみれてのことであったから、周りに人垣ができた。私の応援団はいない。と言うより、1年上級の殆んどの者が相手を応援するので、私の同級生は一様に口をつぐんでいるのである。
 結果は惨めなものであった。これまでの「わが家来」から、突然反旗を翻されるとは思ってもみなかった。彼は上級生であるだけに既に自我も芽生えていて、この頃にはもう体力的にも私より勝っていたのであろう。屈辱的な敗北であった。孤立無援のバトルの最中に、僅かに悔し涙が滲んできた。
 そのうち、誰かが一人の教師を連れてやって来た。私の担任ではなかったが、僅かに救われた思いがした。だが、やって来たその教師が言う。「死ぬまでやらしておきなさい」と。そしてスタスタ職員室に引き返してしまったのである。二重に惨めであった。
 やがて、周囲の説得でそのケンカは終わった。放課後、特に学校で叱られた記憶もない。ただ、その日以来、相手は私の「家来」であることを止めた。私も、もう彼の「殿様」でなくなったことを知らされた。
 いま往時を追想するとき、学校時代の恩師達の誰かを特定して嫌いだったと思うことは私にはまずない。しかし、この教師だけにはいまだに良い感情を持てないでいる。彼は、どのような教育理念を持って生徒に接していたのであろう。なぜ校庭での大ゲンカを止めさせようともしなかったのであろうか。いまだに判らないままである。
 近くの小学校から聞こえてくる泣き声を聞いて、55年ほどの昔を懐かしんでいる。

(平成24年12月  後日 九州文学夏号掲載分)  

 

    バイバイに負けるな

 「バイバイに負けるな」、ジィジは最近そう思っている。2歳になったばかりの孫娘。何かにつけ盛んに「バイバイ、バイバイ」を連発している。
 きのうはわが家に遊びに来た。お腹パンパンなのにまだお菓子を要求。ママにやんわり叱られていた。するとすかさず、やや引きつった顔で「バイバイ」と手を振っていた。きょうはバァバがこの決別の一言に負けて、ついお菓子を奮発した。
 ジィジには分った。孫の「バイバイ」は、「いやだ。嫌いよ」の裏返しであることが。今度はジィジに擦り寄ってきた。どうやら「抱っこ」の催促であるらしい。抱っこを拒否したら、多分また「バイバイ」だろう。う~ん、甘やかしちゃいかんのだが。ここは思案のしどころだ。

(平成25年8月  後日 毎日新聞掲載分)  

 

    ハーモニカ

 秋から初冬にかけて、しょっちゅうハーモニカ吹いてたなァ。
 中学も1年生の秋からだ。再来年の受験に備えてそろそろ音楽の勉強も、というのがその動機。当時、音楽も受験科目に含まれていた。歌を唄うのは苦手だし、せめて音階や音符の勉強と理論だけでも、と考えていた。
 田舎の澄み切った青空の下だ。級友2、3人とハーモニカを持ち寄って、学校の近くの土手まで吹きに行った。ときには刈り入れの済んだ、だだっ広い田圃の中で……。思いっきり吹き鳴らしても、文句を言う大人など一人もいない。
 宵の口になれば我が家の田圃に出た。満天に瞬く星座を眺めながら悦に入り、力のかぎり一人で吹く。刈り取ったばかりの稲穂の匂いが、まだそこいら中に漂っていた。
 あの頃から…、すでに50数年の年月を重ねた。いま、ふたたび遠慮がちに吹いてみる。かつてのように、息が続かない。肺活量も減退したのだ。
 得意げにハーモニカを吹きつつも、級友の誰もが己の将来を見据えきれずに、誰もが漠とした不安におののいていた。それでも、おずおずと夢列車に乗り込もうとしていた多感な少年たち。ああ、今は昔……。あの連中、飽きもせずいつもよく吹いていたなァ。
 もう、孫の童謡程度しか吹けなくなった。

(平成25年9月)  

 

    天を遊泳してきた鯉のぼり

 端午の節句が近づいて、カミさんが小さな鯉のぼりを買ってきていた。遠くにいる次男の第2子が男の児で、ちょっとした飾りにと考えて買ったものである。ただし、人様にお見せできるような立派な物ではない。この児の2つ上のお姉ちゃんが、手に持って走り回るのにちょうど良いくらいの玩具のような代物だ。 せっかく買ってきたからと、私は適当な太さの鉄パイプを捜し出し、その中に突っ込んでベランダに立て掛けてみた。もちろん鉄パイプは括り付けている。
 すると、泳ぐ、泳ぐ。初夏の薫風に乗って、力いっぱい泳いでいる。背景の澄み切った青空は、まさに流れ落ちる滝だ。過日、この孫の成長を祈って、息子夫婦とお宮参りも済ましてきた。今ここでも、滝上り宜しく健やかな成長をと心から願う。
 さて、飾り付けてからというもの、毎日元気に泳いでいた鯉のぼり。ある日気付いてみたら、この鯉がいない。確かに昨夜は風が強かった。さては、風に乗って天に泳ぎに行ったのかと、階下の周辺を捜してみた。やはり見つけられない。
 その日の夕刻であった。拾った友人が、親切にわが家に届けてくれた。彼も、わが家のこの鯉のぼりを何度か目にしていたという。
 龍ならぬこの鯉、人知れず天を遊泳してきたのだろう。天に上って、また帰ってきた。

(平成26年5月)  

 

    地 図

 この日本国土の上に大きな地図を広げてみよう。
 マンションの3階のベランダから、何とか俯瞰できる程度の屋根屋根が並んでいる。こちらが東側で、あちらが西だ。正面に望める方角が南。
 この上に、心に描く大きな日本地図を被せてみる。なるほど、このまま南へと真っ直ぐに進めば熊本や鹿児島だろう。東へと行けば東京方面だ。
 空想は世界地図へと拡大する。長崎方面を抜けてさらに進むと、やがて中国大陸のはず。その昔、西へ西へと最高の文明を求めて旅立った先人達も多かった。現代では太平洋を越えて東に向かう人々のほうが、はるかに多いだろう。
 日本国土から世界の上に、想像上のとてつもなく大きな地図を広げてみる。なかなか行けない地域や世界がよく分る。この地図上で、数十億の人類と動植物が生息している。全てが共生する地球だ。
 ベランダから俯瞰する地域は、日本全土へ、さらにやがて世界へと、私の空想の地図は果てしなく大きく拡大する。 たまにはこのような空想もいい。

(平成26年6月)  

 

    OB会

 OB会が開催されることになっていた。昔の仕事仲間の「元気比べ」の会だ。
 あいにく今年は他の用件と重なった。台風も近づいている。決して遠い地での開催ではないが、泊り込みでは費用もバカにはならない。結局欠席した。
 現在のこの時刻、「台風など何するものぞ」と開催されていれば、もうお開きに近い頃か。会員の皆さんは、みな達者であったろうか。私の事も話題に乗せてくれたであろうか。
 来年はどこで開催されるだろう。それぞれが70歳前後の者ばかり。ある会員が言っていた。「みな、来年の安否が分らない者ばかりだ」と。
 出席できず、悔いが残った。

(平成26年7月)  

 

    夢の中でも?

 尿意を催した。目覚めるまで花の夢を見ていた。
熟睡できていないのか、最近頻繁に夢を見る。冬の真夜中に、夏を彩る赤や黄色の鮮やかな花の夢だ。私の好きな花のひとつ。思えばまだ詩心盛んな若いころ、その花に想い人をなぞらえていた。
その花の名を、誰かが頻りに私に訊ねている。思い出せない。かつてわが家の隅にも咲いていた花なのに……。もがいていると目が覚めてトイレに立った。暫くして、やっと思い出した。カンナの花だ。
 人や物の固有名詞をなかなか思い出せない。10年ほど前からのことだろう。だが、夢の中でも同じとは! これまで想像すらしなかった。

(平成26年10月  後日 毎日新聞掲載分)  

 

    お姫サマ

 3歳の孫娘はお冠のようだ。まだ生後8ヶ月の弟ばかり抱っこされ、ちやほやされるので気に入らない。自分も抱っこをせがむ一方、弟がお気に入りのおもちゃを舐めまわすと言っては怒っている。
 「お姫さま」になりたいのである。きょうわが家にきたときには、フリフリの付いたスカートを穿いてきた。突然バアバを呼んだ。このお姫サマいわく。「バアバ、シッコ出た。ドレスが汚れるから替えて」と言う。まだ外れないオムツを取り替えて、と言っているのだ。
 言葉数も増えて意思の疎通は楽になった。だが、まだ幼児のままのお姫サマなのである。

(平成26年10月  後日 毎日新聞掲載分)  

 

    地球と月

 新聞に小さく細長く載った地球と月の写真を見ている。小惑星探査機が地球から300万キロの距離から写したものである。2日ほど前の地球と月の姿だ。
 暗黒の大宇宙に、ぽっかりと2つの天体が浮かぶ。豆つぶほどの地球と、ビーズ玉ほどの大きさの月である。それでも両者の間の写真上の距離は20センチ近くあるだろう。意外だ。もっと近いかと思っていた。ふたたび飽きもせずジーッと見つめる。
 探査機が地球を撮影した瞬間のこの日、私は地球上で何をしていただろう。つまらぬことに塞ぎ込んでいなかったか。大宇宙の片隅の地球上の、私を含めた小さな人間たちの様々な営み。ただただ怖れ、驚嘆しつつ、改めてわが身辺を振り返ってみる。

月と地球

(平成27年11月)   

 

    時空を超えて

 不思議な、予期しなかったことが本当に起こるものだ。ある過去の事象から派生した偶然とも言うべきものである。そのようなことが我が身に起きた。
 70年ほど以前、小学校就学の頃のことである。当時、程なく同学年となる女児が二人いて、幼馴染の男児と一緒に時々遊びに行った。また、この二人の女児の近所に不気味な廃墟があったので、これらの関係を一篇の短編として創作したのは5年ほど前のことだ。ただ、その女児の一人Kが私の関知しないところで、いずこかへと転居した。そしてほとんど同時にその廃墟も姿を消してしまったのである。そのKが廃墟とともに未知の国へと我が身を隠したのでは、というのが私のその短編のあらましだ。
 こちらも時空を超えた70数年後の今日、同郷のS氏と思わぬ知友となった。彼は私よりも年長の金属工学の徒であり、文学その他のあらゆる方面にも造詣の深い人だ。その彼の骨折りによってネット上にその短編を掲載することになった。その後なんと、彼はその女児の姉に心当たりがある、と言う。さらに彼はその女児の姉に連絡を取ってくれて、ほぼわが記憶と一致するを見たのである。
 長い年月だ。あの当時の女児たちは今どうしているのだろう、と思い起こすことがしばしばあった。ただ現在、偶然にも当時の女児の身内の健在を知り得た。
さらに後日、あの時の女児Kから連絡があった。70年の時空を超えて……。
 

(令和6年5月)   


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