さなぼり

小川 龍二様短編集・Ⅲ

    * 地 図

 ベランダから町並みを眺めている。その家並みの上に、日本列島と等身大の地図を重ね合わせてみる。もちろんそんな大きな物はないから、あくまでも空想上のことである。すると、今まで見えなかったものが大きく見えてくるように思われる。現風景に地図を重ね合わせることで、空間は大きな拡がりを見せるのだ。
 わが住まいは、完全に南向きであるかのような錯覚に陥っていたが、どうやら東南向きであるらしい。私は今東南向きに立っている。であれば、東は左手斜め前の方向で、西はその逆だ。なるほど、東京は左斜めの方向か。東京に住む弟や、岡山にいる長男はこちらの方角だ。その後達者でいるであろうか。北海道は私の左斜め後ろになるだろう。
 真南を想像してみる。鹿児島方面は、やや右斜め前方か。私の故郷熊本もこちらの方角だ。ああ、少年の頃の懐かしい日々。友人たちはみな元気であろうか。地図から飛躍して、昔のことまで思い出させる。
 地図は寸分の狂いもなく日本列島に覆い被さる。その上に、私も家族も友人たちも、そして私に連なる多くの人々も紛れもなく生きている。全ての人間が幸せであるならば、この上ない。この大地図は、すべての日本人の故郷だ。
 頭の中の、とてつもなく大きな日本全土図。どこまでも繋がっている。

(平成25年1月)  

 

    * 孫のネックレース

 1歳半のわが孫娘。ひいき目に見るのかもしれないが、やはりこの上なく可愛い。ただ正直なところ、ちょっと見の外見はまだ性別不詳である。
 この孫が、先日遊びに来た。見ると、首から何か掛けている。数珠のようでもあるが、青い色であるところから多分ネックレースだろう。母親に聞くと、孫の大変なお気に入りで、いつも掛けているらしい。外せば、いつの間にかまた元のように自分で上手に掛けている、と言う。
 言葉はまだだ。最近やっと歩けるようになった。歩けたら、次はおシャレか。幼児ながらも、心はすでに女の子の気分であるらしい。

(平成25年1月)  

 

    天体ショー

 先夜、月食の天体ショーが見られた。3歳の孫にも見せたらと、次男の嫁にメールをした。こちらでは山陰に隠れてまだ見えない。嫁のところでは見えるという。その写真も送信されてきた。
 暫くすると、またメールが送られてきた。孫が帰りたいというため帰宅したとのこと。普段と違う月の色に恐れをなして帰ったのだろうと、私はそう解釈した。怖がる孫を想い、おかしさが込み上げてくる。その旨、嫁にメールを流した。追って返信。なんと、孫はジュースが飲みたいと言うので帰宅したという。私は思わず失笑。

(平成26年10月)  

 

    破顔一笑、転じて…

 このときばかりは破顔一笑。普段の渋面も、またと見られぬ笑顔になる。なにを為してもうまくいきそう。私ばかりではあるまい。ファンは、誰でも同じはずだ。
 今の時点では勝ちゲーム。この野球、最後まで予断は許さないが、まあ大丈夫だろう。大事な試合だ。負けてはならぬ。テレビ桟敷の私でもこうだから、さぞや選手は、と思う。
 ゲームは進んで終盤になった。だが、ちょっとしたミスがもとでまさかの大量失点。再逆転の思いを託すも結果は負け。破顔一笑、転じて……。あとは、推して知るべし。

(平成26年10月)  

 

    百人のドロボー

 「汚くて手の施しようがない」と、妹が言っていた。姪のことである。妹も自分の娘のことを言うのだから間違いないだろう。姪は3人の子を持つ看護師。時々家に来てもらって、掃除を手伝って欲しいということらしい。「百人のドロボーが一挙に侵入したぐらいに散らかっているから」と、姪本人も自慢?しているとのこと。その名言に思わず失笑。
 私の長男も遠方の住まいで独身。たまに行けばゴミと埃で足の踏み場もない。その時には、先ず整理と掃除から始めなければならない。終わるのはたいてい夕方だ。
 とすれば長男宅に侵入したドロボー、これはいったいどれほどの数になるのだろう。

(平成26年10月)  

 

    野生の動物

 私も山間部の生れ育ちである。が、すぐ裏が山ということもなかったので、それまで野生の猪や鹿など見たこともなかった。猿などもいたのか、いなかったのかよく分からない。
 成人前に我が故里を離れた。その後に、半ば飼育されたこれらの動物は、もちろん何回も見たことがある。今、かつての故里のブログなどを見ているとシシ鍋等を食わせる店もあるというから、やはり猪や鹿は間違いなくいたのであろう。
 10年ほど前のこと、そのときは菊池まで行った帰路であった。日田を抜け、中津まで残り10キロ程度の山道で秋の日も暮れかけていた。薄暗くなった道路脇に、目の光る動物らしいものがいる。右側は滔々と流れる山国川である。ハッとしてクルマを停めた。鹿である。よくよく見てみると、子牛ほどもあろうかという1頭の大きな鹿で、ジッとこちらの様子を窺っている。立派な角を持っていた。すぐ近くに人里はなかったが、何か得物を捜して道路まで下りてきたものでもあったろうか。私はゆっくりと徐行し、鹿の横を通り抜けた。鹿が突っ込んでくるのでは、と冷や冷やした。我が愛車と衝突しなくて良かったと思ったものだ。それにしても本当に大きい鹿であった。
 2回目の鹿との出会いは、それから5、6年経ったころで、これはやはり人里離れた昼間の山道でのことである。英彦山方面の道の駅に行って農産物を買おうと、紅葉を愛でながらの遠回りのドライブをしたのであった。ふと、道路脇の山中に目をやると、5、6メートル離れた傾斜地に4、5頭の小鹿たちがいる。可愛らしい目をしてやはりこちらを見ている。私は脇にクルマを停め、車道に降り立った。前回同様に彼らはこちらを凝視していたが、私が「おいで、おいで」というように手を前に差し出すと、すぐ山中に飛んで逃げ帰った。山国川沿いで見た鹿は恐ろしいほどの大きさであったが、こちらは本当に可愛い小鹿たちであった。
 野生の鹿にはこうして出会った。しかし、いまだに私は野生の猿には出会ったことがない。山道を通過するごとに「猿はいないか」と気をつけて見るのだが、これまで出合ったことはない。ましてや猪など。山中に這入って、もしこの猪にでも出くわしたら、そのとき私はどういう行動をとるだろう。ただ逃げ回るだけ逃げ回り、突き飛ばされて負傷するのが落ちであろうか。ただ、現在私が住まう近くの足立山、ここにも猪がいると聞く。この山は和気清麻呂との由緒ある山である。

(平成26年11月)  

 

    グミの木

 たまたま書棚にあった唐詩選を開いていた。特に漢詩や唐詩に素養が深いわけでもない。
 ページを捲っていると、「茱萸」という文字に目が留まった。いにしえの唐の詩人、王維の作である。題は「九月九日憶山東兄弟」。「茱萸」は「しゅゆ」と読むらしい。では、「しゅゆ」とは何だ。辞書を引いても出てこない。よくよく調べてみると、果実の「グミ」のことであった。「なんだ、グミのことか」と、やや拍子抜けする。
 グミの木といえば、60年ほど昔の我が家の片隅にもあった。菓子類も満足になかった時代、父が柿や桃とともに植えていたものだ。初夏の頃であったか、小指の先ほどの小さな、しかし真っ赤な実を結んだ。その実を、一粒、二粒と口に入れる。子供のことだから、それで収まるわけがなく、終には「腹を壊す」と親に叱られていた。
 例の王維の詩、九月九日とある。この日に小高い丘などに登り、頭に茱萸を差して遠くの縁者の厄払いをするという。新暦に直せばすでに10月のことだろう。私の記憶の底のある初夏のグミは、単なる思い違いなのか。よく分からない。それとも、中国とは気候風土の違いからこのように差異が出てくるのであろうか。
 いま、数年に一度の割合で、我が故郷を訪れることにしている。かつて住まっていた家も、グミの木も柿の木もすでにない。その草地になった跡地に立ち、私は思い出の中のみで、いつもグミや柿を頬張っている。

(平成26年12月)  

 

    朝 霧

 今朝、たまたま5時半に起床した。ベランダに出てみると外はまだ暗い。ただ、いつもと様子が違う。街の灯という灯がすべて煙っているのだ。
 霧だ。この付近では珍しい霧が発生している。結構多くて、遠くの灯など見えない。
 しばらく眺めていると、55年ほど昔のことを思い出していた。私の故郷は、50メートル先も見えないほどの大量の霧が発生する。それに因んでのことであろう。今日では町名も「あさぎり」が冠されたものになっている。
 中学2年生のときであった。授業中に、父の死の報がもたらされた。授業を中断して、私は家路を急いだ。秋のことであったが、半ばしゃくりあげながらの道はやはり深い霧の中であった。この里の霧は、少なくとも午前中いっぱいくらい万物の目隠しをしてしまうのである。その目隠しが取れたのちは、さわやかな秋晴れとなるのが普通であった。
 そのようなことを思い出しながらベランダからの霧を眺めていると、ますます深くなっている。寒いので部屋に戻って、1時間ほどを経て再びベランダに出た。どうやら夜も明けた。すると、なぁんだ、先ほどの朝霧は山やビルの上方から薄れて始めている。
 しばらくぶりの懐かしい霧の風景。やがて跡形もなく消え去った。そしてほどなく雨になった。

(平成27年1月)  

 

    お国ことば

 数年前、わが懐かしい故郷を訪ねた時のことであった。かつての旧友がある人をさして、「ぬすけとんしゃる」と言う。一瞬私は何のことか分からなかったが、やがて「ああ」と思い当たった。その意味は、「知らない振りをしていらっしゃる」とか「お高く留まっていらっしゃる」とかいう複合的な意味合いのものであったろう。完全に忘れていた言葉であった。仮に今、これに漢字を当てるとすればどのような字になるのだろう。想像もつかない。
 私も故郷を離れて50年になる。数年に一度程度の訪問であるので、そのお国ことばに苦笑したり、懐かしさを覚えたりすることが多い。公職に就く人は大方標準語を話しているのであるが、やはりどこかに訛りは残っている。熊本県南部のお国ことばが聞けるのは、どうしても土着の人々や旧友からだけだ。
 このようなこともあった。「うっちんやった」と言う。これも同様わが耳を疑った。標準語で言えば、「お亡くなりになった」ということである。強意の「死ぬ」が「うっちん」になり、「やった」にやや尊敬の意を込めている。これも、私が少年時代をこの土地で過ごしたからおよそ理解できることである。
 薩摩の西郷さんといえば「おいどんは……でごわす」の代表的人物であるが、今どきこのような言葉遣いをする人は希であろう。その西郷さんでも、公の席上での発言はその当時の標準語に近いものであったという。当然そうであろうし、お国ことばは勢い仲間内だけのものであったろうと思う。
 年月とともに廃れゆくお国ことば。私は方言とは言わない。その微妙なニュアンスとともに大切にしていきたいものだと思う。書き物にも私は多用している。

(平成27年1月)  

 

    着たきり雀

 身に着けるものを毎日考えるのは面倒だ。もちろん下着は取り替えるが、上着については3日間ほどそのままといってよい。カミさんには「どうにかしたら」と言われるが、「うん、うん」と返事してそれで終わり。取っ替え引っ替えするのがとかく面倒なのである。
 少々旧いが、「武士は食わねど高楊枝」ともいう。これは、貧しくとも気位は高く持ち卑しいことはしない、という心構えであるらしい。要は心の在り方であろう。
 また、私の崇敬する人物の一人として宮本武蔵がある。剣人としての彼ではなく、哲人に近い存在としての彼である。彼が言ったとされる金言。「身の垢は手桶の水にても雪ぐを得べし。心の垢は雪ぐによしなし」と。これこそ私の心に訴えるものなのだ。
 身をきらびやかに着飾る必要もないだろう。心をこそ錦で飾ればよい。これが私の心を支配しているらしいのである。
 人が素晴らしい服装をしていると「いいな」と思うこともある。だが、それを真似てすぐ店に走るということもない。かくて私は着たきり雀となる。
 そういえば、きょうは旧暦の元日らしい。心の内だけは改めておこう。旧暦を持ち出すところなど、私も旧い人間なのであろう。

(平成27年2月)  


コラム目次に戻る | 次へ