さなぼり

廃  墟                作 :小川 龍二

 そう、あれは昭和24、5年頃から私の小学校入学の年あたりにかけてのことであった。この頃の遊び仲間Tと連れ立って、Tの近所の別の家まで遊びに行った。Y子とU子の女児二人のところである。うちU子はのちに引っ越したので、今は正確なセカンドネームまでは思い出せない。かわいらしい女の子であったが、住まいがどこであったのか知らない。Y子の家のすぐ近くであることは間違いなかった。
 その女の子たちの家のすぐ近くに廃墟があった。廃屋というには大き過ぎる建物だし、一般の農家とは異なっていたから、やはり廃墟と呼ぶほうが相応しいものだ。特に人目に付きにくい奥まった場所に存在するわけでもなく、昔で言う往還(おうかん)からわずかばかり小道を左手に入ったところにあった。
 その廃墟は伸び切った草ぼうぼうの敷地の中に、半ば埋もれたように屹立していた。ガラスも数枚割れている。自然発生的に割れたのか、だれかが人為的に割ったものなのか、それは知らない。ただ、人が住まってはいないというものの、この付近の田舎では珍しい3階建ての洋館である。いや、正確に表現すると擬洋風建築物と呼ばれるもので、2階建てであったかも知れない。カラスが群れていたような気もする。いわば、横溝正史のミステリーの世界が現実味を帯びたようなもので、子供心に薄気味悪く思って眺めていた。私なども終ぞ、敷地内に入ってみる勇気なども持ち合わせていなかったし、あくまでも往還から、半ば恐いもの見たさに遠巻きに眺めるだけであった。
 しかし、どうしても気に掛かる。母親にこのことを訊ねると、以前は立派な病院であったらしい、と言う。この地に嫁いできて10年ほどしか経っていない頃の母親であったろうから、それ以上に詳しいことは知らないような口ぶりであった。どうして廃業したのであろう。いったい何が起きて廃業に至ったのか。どこか親戚でもないのであろうか。私は子供心にこの廃墟の存在と行末が気になって仕方がない。そのことについては両親のいずれかが、近くに親戚があるようだ、と言っていたように思う。
 昭和27年、私は小学校に入学した。私たちは終戦の年の20年から21年にかけての誕生であるから、最も生徒数の少ない学年だ。それでも2クラスあった。さらに私を含めたこの4人は同一クラスになった。ここに今、1枚のセピア色の集合写真がある。入学直後のわがクラスのものだ。その中には、Tも、またY子もU子も写っている。U子は優しい顔をしているが、私などは撮影の日は眩しかったものであろうか、しかめっ面のままだ。4人一緒の写真など、もちろんこの1枚きりである。
 学校生活にも慣れて悪ガキの私が暴れ回っていた頃、U子がどこかへ転校した。2年生に進級する前のことと思う。学校で女の子たちと話すことはあまりなかったので、どこに転居するのかも聞いた記憶がない。私が気付いた時には、U子はすでにどこかに転校したあとであった。どこに転居したのか、終ぞTにもY子にも訊ねることもなかった。だから今日に至るまでそれを知らない。
 U子が目の前からいなくなってからどれほどの月日が経ったころであったろう。いや、間もなくのことであったかもしれない。私が恐れ戦いていた廃墟は、いつの間にか跡形もなく忽然と消えてしまっていたのだ。私はあちらこちらで遊び惚けてばかりいたから、取り壊しの作業にも気付かないままであったのであろう。取り壊したのちに聞いた噂話によると、結構に趣向を凝らしたものであっただけに柱や梁等も太く頑丈で、解体は骨の折れる作業であった、ともいう。
 しかし一方の、不意に私の目の前から消えてしまったあのU子のおとなしくて優しい顔付き、立ち居振る舞いや物の言い様を、私は今のこの時もはっきりと思い出すことができる。さらにはあの不気味な廃墟も……。
 いま、思う。忽然と消えたU子と廃墟。これはU子が、自分の姿ともどもどこかに隠し去ってしまったのかも知れない、と。ありえないであろう私の妄想は、いまだに胸の中で燻ぶり続ける。70年ほどの時空を超えて今もなお。
                                    (了)

 

愛のゴツン               作 :小川 龍二

 先生、覚えていらっしゃいましょうか、70数年ほど昔のこと。当時の私は小学校入学したばかりの腕白盛りのころ。
 その日、何を考えていたのか私はドアから廊下に出ないで、窓を飛び越えて出ようとしていたのです。当時の先生は上級生担任の恐い存在。その先生が「運悪く」私の前にいきなり現れた。窓に足をかけて、正に今から飛び降りようかという瞬間の私を見とがめて、先生は何も言わずに頭を拳でゴツン。ただただ頭の芯まで響きました。いずれ私が進級しても先生の担任だけは嫌だ、と思ったものです。
 にも拘らず、だ。なんと数年後に進級してみると先生がクラスの担任に。この時もう一度、先生のゴツンで目玉から火が出ることになったのです。思えば掃除の時間に男子全員がサボって室内で遊びに熱中。これが先生の逆鱗に触れて、一列に並べられて鉄拳の制裁。もちろん私もその内の一人でした。痛かったなァ。
 この頃、私の父が罹患して入院生活に入りました。そしてたまたま私は新聞少年に。このような姿を見た先生は、同情してくれたのでしょうか。ときおり我が家までノートや鉛筆など持ってきてくれるようになりました。学業成績も、それなりに悪くはなかったようですね。ただ、それを見聞きした一部の父兄や級友らは、「贔屓だ」と非難や陰口を。一時期、子供心に辛い思いをしたこともありました。
 先生、私の学校時代のどの先生も、みな敬服に値する立派な方ばかりでした。しかしながらS先生、私に2度もゴツンを見舞ってくれたのは、後にも先にもあなたのみでした。
                                    (了)

 

フクちゃん               作 :小川 龍二

 その「フクちゃん」に出会って、かれこれ50年ほどになる。ただ、彼との出会いは遠方のせいもあって、年に数回の数えるほどだ。「フクちゃん」はどうやら戦前から子供のまま生き続けているみたいで、大学帽に下駄を履き、肩には銃剣を担いでいる。銃剣の先にはこれまた戦前宜しく日の丸だ。
 真筆に違いない。戦中戦後を中心に人気を博した漫画である。墨一色で描かれている。隅には確か横山隆一画伯の署名と昭和18年の日付があった、と記憶する。飾られた場所は街のてんぷら屋さんの一隅。大きさはA4程度のもので、和紙に描かれたもののようだ。ただし、ガラス付きの額縁に収められたような立派ものではない。本当に店内に無造作に懸けられもの、というより置かれたものだと言った方が適当では、とさえ思う。画のところどころには、長年壁に懸けられていたせいであろうか茶色に変色している。
 「欲しい」正直私はそのように思った。とは言え私が店主を知るわけもないし、その店主の存否さえ分からない。過去に一・二度店員に「フクちゃん」の画と店主について訊ねたことがあったと思うが、詳しいことは判らなかった。いま、流行りのテレビ番組「お宝鑑定」に出品してみたらどういうことになるだろう、とふと思った。俄か鑑定士であるが、贋作ではないはず、結構な値が付くはずだ、と。そんなことより、私はこの「フクちゃん」を手許に置いておきたい、と思った。ただし、その目途がつくような話は一切ない。
 「フクちゃん」、もし健在であれば疾うに90歳くらいを超えているだろう。膝を突き合わせて、戦中戦後のよもやま話をあれこれと聞きたいものだ、とも思う。取り留めのないことを考えていると、久し振りにまた「フクちゃん」に会いに行きたくなった。
                                    (了)

 

フクちゃん  

 「廃墟」、「愛のゴツン」は小学生時代の思い出、「フクちゃん」は成人後の北九州での現在に至るまでの体験とのことです。
 高知市に横山隆一記念まんが館が有ります。クリックしてご確認ください。
 写真は、小川様が北九州市のとあるお店の店頭にて撮影(2022/4/29)されたものです。


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