さなぼり

多美子と僕               作 :小川 龍二


     (一)

 話の初めに断っておくが、僕は多美子の実像をよく知らない。

これから多美子のことについて話しをしようという者が、彼女の私生活に関してはほとんど何も知らないのである。しかもこの少女は、私の遠戚に連なる娘であった。ただ、少年の日の一時期に僕の前に現れて、今は、そのときの映像が頭の中のスクリーンにピントが合わないまま、ボンヤリと映し出されるばかりなのだ。
 写真とて一枚もない。今では、僕のおぼろげな記憶以外、多美子を偲ぶ縁(よすが)はどこにも見当たらない。少年期の淡い恋情。ひょっとしたら、あれから数十年を経た今、彼女の実体のない虚像のみが僕を支配しているのかも知れない。
本当に色の白い少女であった。それ以外よく思い出せない。誰かの写真を見るにつけ、多美子に似ているのかなと思う程度で、その実、彼女の声や容貌でさえ正確には思い出せないのである。
 これが四年ほどの間に僕の目の前にときどき現れて、やがて消えていった多美子の姿なのである。そのとき以外の彼女を、僕は何も知らない。
 多美子の母親はよく喋った。次から次へと、よく話題に事欠かないものだ、と僕は思っていた。しかし、一日中のべつまくなしに喋り続けても、大半は愚にもつかないことばかりなのである。
 小学校高学年の僕などうんざりして、すぐ話が途切れてしまう。適当に相槌を打ってはいるが、それに続く言葉が見当たらない。返す返事は、いつも生返事であった。
 その母親が、いま僕の横の畦道(あぜみち)に立っている。いつの間に来たのだろう。
秋の刈り入れどき、わが母の作業を手伝うべく僕も田圃の中で鎌を握っていた。中腰になって稲を刈る作業は結構きつい。滲み出る汗を拭きつつ、時折立ち上がっては痛む腰を伸ばす。刈り取る稲の尖った葉先が、チクチクと顔を刺した。
四列ほどの稲の束を、一列目、二列目、三列目というように次から次へと横に刈り取っていき、その刈り取った一握りの稲の束は己の脇に並べ置いていくのである。母はすでに僕のはるか前方に進んでいる。
「ああ」
「こんちは」
いまやっと気付いた振りをして、僕はこの母親にちょこんと頭を下げた。顔は面長で整った目鼻立ちをしている。ただ、頭の姉さん被りの下から覗く髪の毛は油っ気もなく、ここ数日は梳ってもいないようだ。モンペ姿の作業着である。
 僕の傍らの畦に立ったままで、この母親は愛想笑いを浮かべて言う。
「きょうは多美子を連れて手伝いにやって来たよ。隆ちゃんは、多美子と相思相愛らしかね。多美子は、いま家にいるよ」
僕は返す言葉に詰まってしまった。
――相思相愛? 相思相愛とはどういうことだ。大人向けの映画じゃあるまいし―― そう思ったが、驚きのあまり何も言えないのである。一瞬にして耳から頬の辺りまでカーッとなった。暑くてたまらない。
 家とは、僕の家のことである。そこに多美子が来ている。それはいい。だが、相思相愛とはどういうことだ。僕はそんなこと考えたこともない。
それよりも、母親のいまの話が僕の母の耳に届いていやしないか、そのほうが気掛かりだった。返事もできない。できないまま、上目遣いに僕は母の顔色を窺(うかが)った。前方の母は、相変わらず左から右へと稲穂を刈り取って進んでいく。
 多美子の母親は、「手伝いにやって来た」とは言う。だが、何も母がそれを頼んだわけではない。言わば、押しかけ手伝いだ。ましてや多美子を連れて来て、いまわが家に待機させていると言う。飯炊きくらいはさせるつもりだろう。
 母は向こうの田圃の端まで刈り取って行って、今度は向こうから逆に、僕の近くまで刈り取ってくる。多美子の母親が来ていることに気付いているはずだ。しかし、手拭いを姉さん被りにした顔を上げても
「あら、来たと?」と、この母親に向ってにべもない。
 僕は僕で、多美子の母親に言われたことを恥ずかしく思い、母に咎(とが)められるのではないかと内心ビクビクしていた。何度でも言うが、小学六年生の僕は、まだ多美子を好きだと特に意識していたことなどない。このとき初めて、――そういうものかな―― という思いがした。
深く考えようとはしなかった。だが、そのような少年少女期の微妙な感情を、多美子はこの母親と話したのであろうか。それとも僕らの何らかの行動や素振(そぶ)りを見て、この母親はそのように感じ取っていたのであろうか。僕には一切それらしい心当たりがない。
 二人の来訪を、僕の母は特に歓迎している風には見えなかった。ただし僕自身は、誰か人がやって来ることが何となく嬉しく思えた。ましてや、単純に多美子が来たことが。来たばかりの多美子が、いま我が家にいることが……。これが人を恋うる初めなのであろうか、とも自問する。
 やがて、多美子の母親は鎌を持って稲刈りの戦列に加わった。決して早いとはいえない。僕の速度とあまり差異はない。とはいえ、人が一人増えたことで作業の進行は倍加した。
この間も、母親の例の饒舌(じょうぜつ)は、噂話を中心に止(とど)まることを知らない。
右から左へと稲の束を刈りながら僕は考えていた。
――多美子は家で何をしているのだろう。僕の妹とでも遊んでいるのだろうか――
そんなことを漠然と考えていると、手に持った鎌で思わず指を切りそうになった。この鎌で指を切ったら大変だ。鋸の刃みたいにギザギザになっているから、結構痛いのである。
――もうしばらくすると昼飯だ。その時には家まで戻る。多美子にはそのときでも会えるはずだ――そう考えた。


     (二)

 多美子は僕より一年上級である。
とはいえ、通う学校も違っていて、およそ四キロ離れた隣町の中学に今年入ったばかりだ。いつ頃から母親とともにわが家に来るようになったのか、よく覚えていない。気付いたときには、もう何回も来ていた。
聞くところによると、僕の父と多美子の母親は従兄妹同士であったらしい。母親の娘時代の住まいは長崎であったという。嫁いで熊本に来たのである。話す言葉は同じ九州とはいえ、熊本の南部弁とはわずかに異なっていた。僕にはそれが珍しく思われた。
 結婚後の現在の住居はわが家とは結構な距離にあるが、母親は一人ででも度々遊びに来ていた。いや、遊びというより、とっさに家出をしていたのかも知れなかった。片方の目の周囲や額に、ときには青いアザを作っていたからだ。
父親と多美子が一緒に来たこともある。田舎住まいの男にしては本当に色白で、外見はおとなしい人であった。多美子の色の白さも、この父親譲りであったのだろう。ただ、これらの来訪が、どのような用件であったのかは分らない。
 彼は自転車店を営んでいた。とは言え、特に流行(はや)る店でもないらしい。ただ、外見上の人の好さにもかかわらず、焼酎を煽(あお)ったら人が変わるという。その所為(せい)で夫婦の間の諍(いさか)いが絶えず、母親は夫に殴られプイと家を出て来てしまうようであった。そういう僕も、この父親が焼酎を煽った姿は見たことがない。
 僕の両親も、しばしば話を聞いては同情し泊めてやったりしていたが、度重なるようになると、しだいに辟易(へきえき)するようになっていたようだ。ひょっとすると多美子の父親の来訪は、我が家に外泊した母親を迎えに来ていたのかも知れない。彼なりに外聞を忍びつつやって来ていたのだろう、多分。
 その間、僕の小学五年時に父が病に倒れた。戦争中の思い出したくもない様々な殺し合いの体験の結果、終に心を病んでしまったのである。入院加療止むなしということになると、さらに頻繁に母娘が来るようになった。
多美子は四人兄弟の長女である。多美子以外の子供が付いて来ることはまったくない。来るのは決まって多美子であった。だから、多美子以外の兄弟に会ったことは、一度きりの、かつて父と一緒に家を訪ねたときだけである。
 母親が多美子を連れてやってくる目的がコメにあることは、しだいに分ってきた。名目は農作業の手伝いである。手伝って、二升ほどの白米や野菜などをもらって帰るのだ。コメはいつも米櫃から枡ですくって、僕の母がそれを渡していた。しかし、手伝いといっても農作業ではなく、時には本当に飯炊きのみで、あとはブラブラということもあった。
自発的に手伝いにやってきてくれることは、決して邪魔になる存在ではない。ただ、あらゆる面において押しかけに近いその行為が、子供の僕にとってさえも、やや不快に思われただけのことである。まだあどけなさの残る少女多美子。彼女には、そのような下卑(げび)た意識はなかっただろう、母親と連れ立って単に遊びの感覚で来ていただけのことだろう、と僕は思う。そう信じたい。
 とはいえ、やはり若干の疑念は残る。多美子がわが家に宿泊することは、彼女の家の食い扶持が一人減ることだ。体(てい)のよい、単なる口減らしじゃないか。多美子が泊まって家事を手伝う。その帰宅時には、わが母がまた何らかの農産物を土産に持たせるのが常である。こう考えると、決して損はない。そのような目論見があってのことだろうか。
 このようなことを考えた僕こそ十二歳の少年に似合わぬ、却って下卑た推測であったろうが、事実この頃の母娘の思いはどうであったのだろう。
 間もなく昼時になった。農作業を一時中断して家に戻った。距離的には、時間にしても五分程度のものなのである。普段は、場合によっては畦道に腰を下ろし、握り飯に漬物程度で済ますこともあるのだが、このときは家まで歩いて戻った。
 戻って井戸で顔や手を洗っていると、後ろから声がした。澄んだ声であった。
「リュウキチさん」呼びかけるその声の主は、白いタオルを差し出した。紛れもなく多美子であった。


     (三)

 僕の名は正確には「隆吉」である。だが、愛称としては「ジュウちゃん」と呼ばれていた。幼い頃から父が「ジュウ」と発音するので、しだいにそれが定着したのだ。級友たちも親戚の者も、ほとんどの者がそう呼び習わした。さすがに母だけはそう呼ぶことはなく、「リュウキチ」であった。ときには級友から「博士」の渾名(あだな)で呼ばれた。五年生のとき、メガネをかけたからである。
 僕の里は鹿児島県に近い山村部だ。それだけに、「ジュウ」という奇妙な発音がなされていたのだろう。もっとも、僕自身はその愛称があまり好きにはなれなかった。鹿児島では「リュウ」を「ジュウ」と発音することがあるという。
後日知ったことだが、「西郷従道」は、当初「西郷隆道」を名乗っていたらしい。ところが誰も「リュウドウ」と発音する者がなく、誰もが「ジュウドウ」と呼ぶ。そこで終には「従道」にしたということだ。
 とにかく、多美子は僕を「リュウキチさん」と呼んだ。この頃僕をまともに「リュウキチ」と呼んだのは、わが母以外多美子とその母親ぐらいのものであった。
父親譲りの色白で目はやや切れ長に感じたが、くっきりとした涼しいそれをしていた。性格は控えめで、あの母親の子にしては不思議な思いがした。さらに僕の目からすると、不幸にも酒癖の悪い男を父親に持った。しかし、多美子が父親に殴られたという話しはこれまで聞いたことがない。推測だが、多美子だけは特に可愛がっていたのかも知れない。
 長女の多美子は、まだ幼い弟妹の面倒もよく見たらしい。母親がプイと出て行った際には、母親代わりもしていたのであろう。僕も多美子の家には一度しか行ったことがないし、これも詳しくは知らない。我が父が自転車の修理を頼んで、多分僕もそれに付いて行ったのだろう。とにかくその一度きりなのだ。ただ、店の裏の居間の障子は破れ、三人の弟妹が寒そうにしていたことだけ覚えている。多美子はそのとき留守にしていた。
 さて、僕の家の井戸は手押し式ポンプのそれだ。地下から汲み上げたその水で、手足を洗い、顔を洗う。その一連の動作を後ろで待っていた多美子が、待ちかねたように言う。
「隆吉さん。わたし、今夜泊まる」
僕はもらったタオルで顔を拭いた。目は合わせられない。
「うん」手短(てみじか)にそう返事しただけで僕は土間に向かい、昼食の箸を取った。土間には元気な頃の父手作りのテーブルと長椅子が置いてある。そこがわが家の炊事場兼食堂であった。
おかっぱ頭の多美子も僕のあとを付いて来ていた。


     (四)

 明日は日曜日だから学校は休みだ。
家を出立するときから、母親に言い含められて来たのだろうか。さらに、いつ多美子の母親は、僕の母にその話しをしたのだろう。とにかく、今夜一晩泊まるのだ。
 日暮れ前になって、母親は四キロほどの道を歩いて帰宅することになった。肩には風呂敷に包んだコメを担いでいる。自転車には乗れない。肩に担いだコメ、これが当分の家族の食糧になるのであろう。
 多美子は母の夕飯の準備を手伝っている。ちらちらと垣間見るその初々しさは、わが家では滅多に見られない光景であった。上はセーラー服だが、下はモンペであった。
やがて夕食の支度が終わると、みな食卓に並んだ。昼間の食卓風景からするとおかしいが、夕飯はいつもの土間のテーブルではなく、上の居間に上がって囲んだ。寒くなると、居間のコタツを囲みながらの朝食、夕食が常であったからである。
総勢五名だ。僕と母と弟妹の四人、それに多美子。いつもと雰囲気が違う。妹は多美子とあれこれを話しているが、僕は終始黙っていた。僕には、特に話すことなどない。
多美子が、ときおり僕の様子を窺うように目を向けている。そのことは分っていた。しかし、僕は多美子の左斜め前に座って、視線は別のところに向けていた。
 この頃、というより前年の五年生のときから、僕は新聞少年を始めていた。何も家計の手助けをという気持ちからではない。この頃から読み始めていた単行本を買いたい一心からである。百円を握っていつもワクワクしながら、町までの四キロの道のりを自転車で走った。この当時の僕の好きな単行本は百円であった。
新聞の配達先は三十数軒にすぎない。が、田舎のことだから配達先から次の配達先まで結構な距離だ。この配達に父の自転車を使う。かといって父の専用物というわけでもない。一家にこれ一台しかなかったから。時には入院前の父から不服らしい小言も言われた。新聞少年一ヶ月の給与が、自転車一台の修理費用にも及ばないこともあったからだ。
 多美子が一泊した翌朝のことである。
「わたしも付いて行きたい。隆吉さんの手伝いをする」と、新聞販売店に向かおうとする僕に、多美子が言う。突然のことで驚いた。
いやいや、連れて行くにしても自転車は一台しかないではないか。しかも、自転車屋の娘でありながら、多美子はまだ乗れないのである。無理だ、と言うと
「後ろに付いて、走って行ってもいい」と、あくまでも付いて行きたい素振りである。
「多美ちゃんは、朝ごはんの手伝いをしてね」
傍らで、僕らの問答を聞いていた母が釘をさすと、しぶしぶ多美子も承知した。
 早朝二時間ほどの時間をかけて配達を終え、帰宅した。みな僕の帰りを待っていた。それから、多美子を含めたコタツを囲んで、僕も朝食を済ました。
この時期の、この地方は朝霧がすごい。十メートル先がよく見えないほどの深さである。僕の坊主頭の短い髪も眉毛も白く染まっていたが、食卓を囲んだとたん全てが水滴になった。しかし、この朝霧の場合はまだ良いほうだ。畑に白く降りた霜の朝の冷たさ。ひと冬の間には、必ず耳や手が霜焼けとなって腫れあがった。冷え切った手足を火にかざすと、暫くはジンジン痛んだものだ。それを見て母は、毛糸の手袋を編み、毛皮の耳当を買ってきてくれた。自転車のハンドルの握りには、どこから買ってきたのかハンドルカバーをつけてくれた。多美子の家から買ってきてくれたものかどうかは知らない。
 因みに母は町部から田舎に嫁いできたころ、自転車には乗れなかった。ただ、僕が小学三年生のころの猛練習の結果、立派に乗れるようになっていた。母も自分で乗ってみて、手の冷たさに閉口していたのかもしれない。
この日の多美子は、夕方近くまで母の指示で何やかやと手伝いをしていた。


     (五)

 多美子が実家に帰ってから二週間ほど経ったころの週末である。また、その母親に連れられてやって来た。
僕の母はよその農事の手伝いに行っていて留守だ。このころの農家は、人手が足りなくなるとお互いに加勢に行き、助け合って生きていた。母の留守をいいことに、僕は弟や近所の子供たち二、三人と、勇ましく覆面をしてチャンバラごっこに興じていたのである。
来たばかりの多美子の母親が言う。
「うん、隆ちゃんは外で遊んできていいよ。私が留守番をしているから。多美子はまた今夜泊まらせる。明日は、飯炊きでも他の作業でも何でも手伝わせていいとよ」
そう言う母親の目の周囲には、青黒い隈取(くまどり)ができている。また夫婦ゲンカでもしてきたのだろう。
 多美子の姿は見えない。恐らく部屋の中で、妹の相手でもしているのだろう。悪童連中と遊んでいた僕は、その間のことが分からない。ただ、多美子の母親は、誰もいないわが家の田圃に出て、落穂拾いに精を出していたと思う。拾った落穂をどうするつもりなのか、僕には見当もつかなかった。拾う落穂が、さほど多いとも思えなかったからだ。
 日暮れ時になって、母と入れ替わるように多美子の母親は自宅へと戻って行った。帰ってきた母は、また多美子が泊まると聞いて複雑な表情をしている。
――泊まると言うのだから、もう少し優しく接してやればいいのに―― 僕は幾分腹立たしい思いでそれを見ていた。この頃から、今思うと多美子を意識し始めていたのだろう。
――よその家に一人でいる多美子が可愛そうだ―― とも生意気に考えていた。
 やがて風呂を沸かすことにした。五右衛門風呂である。釜の周囲はセメントで父が固めていたが、水道から注水するわけではない。全て人力である。井戸の手押しポンプでバケツに水を汲み、それを風呂釜に入れるのだ。二十回ほどは汲んで運ぶだろう。幸いにして井戸と風呂の距離が近くて助かっていた。
釜にくべる薪は、毎年山から父母が伐り出してきた物である。のちに父の入院に伴って、母一人の仕事にもなった。この山から伐り出してきた薪だけではもったいない。だから、ときには麦藁(わら)や豆ガラも燃やした。風雨の強い日など、ときには煙突から煙や煤(すす)が逆流してくる。火吹き竹でフーッフーッと何度も息を吹き込みながら、一方ではいつも咽(むせ)た。
僕や弟妹が風呂に先に入って、五人で夕食を済ました。次に母が多美子に入浴を促すと、「入る」と言う。
いつのことであったか、多美子の母親が
「多美子も最近乳房が膨らんできて、風呂を恥ずかしがってねぇ」 と、僕の母に話すのを耳にしたことがある。だから、予期せぬ展開であった。
 多美子は風呂に入った。この居間まで、湯を浴びる音が聞こえる。
このとき、僕は無性に咽喉(のど)の渇きを覚えた。確かに塩の利いた鯨肉を食べた。あとは漬物と味噌汁。土間に降り立って、井戸で水を飲もうと思った。しかし、戸のない風呂場に多美子がいる、それを思うとドギマギした。わが家の風呂場と井戸は母屋に接していて全体を囲ってはいるが、風呂場のみの戸はなかった。そこに行こうというのである。多少なりとも、少年の思春期特有の好奇心もあった。
「ああ、咽喉が乾く。水が飲みたい」 僕は大きな声を出しながら井戸の前まで行き、手押しポンプを押して柄杓(ひしゃく)に水を汲んだ。
井戸の向こうの湯気の中に、人影が見える。多美子だ。ここから三メートルも離れていない。頭をのけ反る(ぞる)ようにして、僕は柄杓の水を一気に煽(あお)った。ただ、目だけは前方を向いている。
一瞬であった。風呂場で立ち上がった裸身が見えた。いや、見てしまった。
 ほの暗い白熱電燈の下でも、後ろ向きの白い体は臀部(でんぶ)まで見えた。官能小説であれば、丸みを帯びた豊かな臀部とでも表現するところであろう。だが、現実は違った。多美子は湯浴みを終えて、風呂を上がる直前であっただろう。大人になりかけたような背中に続いて、その下方にやや小太りの尻があるにすぎない。しかも、母親の言う「豊かな胸」までは窺い(うかがい)知れなかった。
 ――半ば計画的に、多美子の裸を盗み見した僕――
部屋に戻って机に座ってみると、胸はまだ早鐘を打っている。ない交ぜ(まぜ)になった罪悪感と己に対する嫌悪感。僕はもうこの事実を、一生拭い去ることはできないだろう。先ほどのあるまじき行為が、いまの僕の全人格を否定した。
――こんなに下品で卑劣な奴は、もう生きていく資格さえないのだ――
その夜、僕は激しく己を憎悪し、そして卑下した。いつまで経っても咽喉だけが渇いてなかなか眠れなかった。

 

     (六)

 多美子が一晩泊まって帰った日のことである。母が、 「やはりおかしい。コメが減っている」と言う。昨晩から気付いていたらしいが、多美子もいることだし黙っていたのだ。
米櫃(こめびつ)を開けると、ほぼ平面にしていたコメの上面が枡で掬(すく)ったように凹んでおり、量も減っていたと言う。どうやら盗まれたらしい。過去にも似たことが数回あった。
かといって、きょう帰って行った多美子ではないだろう。彼女が帰る際、母は土産物として芋や胡瓜(きゅうり)等の野菜を持たせはしたが、それ以外に何も持ってはいなかった。
――多美子がそんなことするはずがない―― そう否定しつつも、一瞬とはいえ多美子に疑惑の眼差しを向けた僕。昨晩の風呂場の出来事に引き続いて、そのような自分自身の卑しい根性が悲しく、また恨めしく思われた。
 戦後の混乱期から、まだ十二年少々しか経っていない時期である。国民の全てが苦しい生活を強いられていた。  ――多美子でないとすれば……、そうだ、この二日間に来た者となると母親でしかない。この女は過去に何度も手伝いと称してやって来て、わが家の飯も炊いたし、米櫃の在り処(ありか)も知っている――  と、僕も若干の疑念を抱く。
 僕があれやこれやと考えるほど、母の疑いも同じようにますます深くなったようであった。その腹いせも手伝ったのであろうか、とんでもない話も聞かされた。
 父の若い頃の話である。「あの女が……」と母が言う。父も、多美子の母親を従兄弟とはいいながらも、あまり好きではなかったらしい。ところが、この女は違った。どのような経緯と事情であったか知る由もないが、独身時代の父の寝所にこっそり忍び込んで来たことがあったという。
その結果がどうなったのか、僕自身は知ろうとも思わないし、知りたくもなかった。ただ、美男子で通っていたという父からすると、ありうる話だろうと僕には思えた。母はその話を、直接父から聞いたと言う。
 僕の家の裏手には茶の木を植えていた。わが家で消費する程度のものであるが、これも父が植えていたものである。この事件のさらに翌日くらいであった。近所の小母さんが、
「これは、あんたの着物じゃなかと?」と言って、母に二、三枚の着物を持って来た。聞けば、茶畑に妙な物が置いてあるので覗いてみたら、風呂敷に包んだ着物であったと言う。母としては覚えのある物ばかりだ。この村に比べればまだはるかに町方の出自の母である。この地の父の元に嫁ぐとき、嫁入りの着物として持ってきたものばかりなのである。忘れるはずがないだろう。
念のため箪笥を開けてみると、確かに入っていたはずのものがなくなっている。一昨日あたりから置いてあったらしい。証拠はない。しかし、母親に対する疑いは濃厚になった。食料ではないものだ。どうするつもりだったのだろう。どこか町の質屋でも持って行くつもりであったのであろうか。
 一方の多美子が、仮に貧しい家庭の生まれであったとしても、人の物に手をつける性癖(せいへき)があろうとは思えない。やはり、あの女が帰り際に持ち帰る予定であったものを、うっかり着物だけ忘れ残していったのであろうか。
ただ、このような事件があったことを、可憐な多美子は知らないだろう。僕らが、多美子に知らしめない限り……。仮に、もしもだ。もしも何らかの形で多美子が気付いたら、と僕は多美子の今にも泣き出しそうな悲しい顔をイメージしてみた。しかし、どうしても頭の中にその像を結ばない。
――多美子はいったいどうするだろう。多美子は心根の優しい娘だ。悲嘆のあまり、死にたい、と言うかも知れない――
 「七度(ななたび)尋ねて人を疑え」ともいう。軽々しくこの母子を疑うのも穏当とは思われない。ましてや、あの多美子を……。
全ては貧困が悪い。貧困は敵だ。全ては貧困の元凶を作った戦争が憎い。多美子は何も悪い事などしていない。僕は多美子を信じようと思った。

 

     (七)

 このような様々な出来事があって、すでに半年ほど経っていた。このときの僕は、近所の悪友と漫画雑誌を読んだのち、外に出て遊んでいた。彼は僕より二年上級である。
暴れ回っている田圃の中から家を見ると、入り口付近に女が一人立っている。多美子の母親であることはすぐに分った。僕は家に戻ったが、母親は何食わぬ顔である。悪びれる様子など一切ない。過日のわが家の事件のことなどどこ吹く風、わたしゃ一切与り知らぬ、そのような態度と身振りであった。
このときも母はやや遠くの畑に出かけて、留守をしていた。僕が家に戻ったのを見届けると、母親はいそいそと僕より先にわが家に入って行って、「隆ちゃんは外で遊んできてもいいとよ」と、外出を促す。
 悪友と僕は示し合わせて、にわか私立探偵になることにした。外に遊びに行くフリをして、この母親の行動の一部始終を監視することにしたのである。
「おおい、いまからSんとこまで遊びに行くぞ」
「じゃッどん、ジュウちゃん。あそこは遠かけんTのとこにしとこか」
僕と悪友はわざと大きな声を張り上げ、その実、多美子の母親の目を盗んで二人とも屋根裏に攀じ(よじ)登ることにしたのだ。
僕などまだ低学年の頃からしょっちゅう登っていて、父からしばしば怒られていたのである。慣れたもので何の造作もない。ただ、屋根裏はやや暗い。ときにはネズミも青大将もいるかもしれない。それでも板戸の横木を掴んでスルスルと登った。  特に悪友は、屋根裏の梁(はり)の上から身を乗り出すように下を窺っている。危なっかしいことこの上ない。あとで聞いたところでは、鼻水が流れてきてすすり上げるわけにもいかず、結局流れるに任せたままだったと言う。ただ僕は、人の行動を密かに観察する後ろめたさで、やや後悔に似たものがあった。しかし、これは僕が言い出したことだ。
攀じ登ってから十分ほどすると、下でカタカタと音がする。米櫃のある場所は若干暗くて、よく見えない。それよりも、僕は摑まっている梁から滑り落ちそうで恐怖さえ感じた。悪友は梁の上に腹ばいになって、シッカリと一連の行動を見張っていた。
 この音だ。母が毎日米櫃からコメをすくい出すときの聞きなれたそれだ。間違いない、と思った。しばらくしてその音が止み、母親は土間から出て行った。恐らく、どこか隠し場所へと持って行ったのであろう。
その間、僕らは急いで天井から降りた。悪友の衣服は蜘蛛の巣とホコリで真っ黒に汚れていて、彼は両手でその汚れをはたいている。
「見た。確かに見た」 そう僕に言う悪友は、まるで少年雑誌の探偵気取りである。
 やがて、多美子の母親が鼻歌交じりに戻って来た。本人は僕らがそこにいることなど、全く予想外であるらしい。僕らを見て目を丸くした。
 正義の味方のその少年探偵は、戻ってきた多美子の母親に会うなり物怖じ(ものおじ)もせず言い放ったのだ。それも直接的な表現で。
「見たとォ。いま、米バ盗ったじゃろう。オイはみんな見とったとバイ」
 母親は、相手が子供だと思っていたのだろう。強い口調で、半ば威嚇するかのように僕らを睨みつけた。不意を突かれた母親の口からは、一言の声も出ない。思わぬ展開であった。心なしか、僕の身は震えている。やっとのことで母親は、
「何バ言うとか。子供ンくせして。そぎゃんもん知らん。盗りゃせん。コメなんか知らん、知らんバイ、知らんクサ」 そう、この母親にしては珍しく長崎弁の混じったような方言を吐きながら、プイと外に出て行って、そのまま家路についてしまったようであった。
 悪友が多美子の母親を詰(なじ)っているとき、僕は何一つ物が言えなかった。こんなに怖い顔をした母親の姿を見たのも初めてであった。これが多美子の母親だ、とは考えたくもなかった。
 また、この事実を僕の母に話して聞かせたかどうか、よく覚えていない。この屋根裏まで登るという探偵気取りが何だかこそこそと悪いことをしているみたいに思えて、恐らく何も言わなかったのだろう。ただ、米櫃の中からコメを掬い取る音がした、ということだけは伝えたように思う。


     (八)
 
それからしばらくの間、多美子もその母親も家に来なかった。僕も中学に入り一年生になった。多美子は二年生に進級したはずだ。
  さすがに外での悪さも少なくなった。いや、悪さというより、僕にとっては単なる遊びでしかなかった。しかし、最近では本ばかり読んでいる。小さい頃から本は好きで、小学校の四、五年生の頃には既に単行本も結構読んでいた。多いのは剣豪小説、また偉人伝等である。
  中学に入学ののち、新しい科目が加わった。英語である。これが面白かった。教科書も丸暗記するほど好きになった。たまに絵葉書などに英文表記がしてある。すると、すぐさま辞書を引っ張り出してきて調べたくなった。他の科目にも力を入れるようになると、成績もぐんぐん上がっていった。口幅ったいが常に、学年でもトップクラスにランクされていた。新しい知識が次の疑問を呼び、それがさらにその先に進ませようとするのだ。
  担任の教師も、各科目の教師たちも、ずいぶん僕を可愛がってくれた。療養中の父を抱え、時に母の農事を手伝いながら新聞を配達し、性格的には真面目で温厚な生徒。そして、勉学に勤しむという僕の優等生的なイメージが、教師達の共感をも得たのであろう。ある教師などは、時折家までノートや鉛筆を持ってきてくれた。そのような事実を見知ってか、時には心ない級友から「贔屓(ひいき)だ」と陰口をたたかれたこともある。しかし自分で言うのも憚(はばか)られるが、他の級友たちからや上級生たちからも、さらには地域周辺からも優等生だと思われていて、それなりに人気もあったようだ。
  ところがその反面、優等生という「融通の利かない真面目だけが取りえの、捉えどころなく面白みのない人間」としての嫌なイメージ、それが僕の上に常に覆い被さっている。だから、僕に対して囁かれているらしいこの評判を、当時の僕は極端に、身震いするほど嫌っていた。
  一方で、このイメージとは対照的な事実がある。小学校低学年一、二年次の通知表がいまここにあるが、そのいずれにも「弱い者を苛める傾向がある」と記されているのだ。やはりよほどの悪ガキでもあったのだろう。もっとも、いまの僕にそのような記憶は全くない。が、四月生まれの僕は、低学年でも大きい体格に属していたためでもあろうか。
  そういえば確かに、僕には一年上級の家来もいたはずだ。ただ、わが名誉のために言っておくが、それほどの悪ガキであっても三学期くらいになると、「落ち着いていて模範的です」だの、「時々何か考え込んでいるような時があります」だの、いくぶん好意的な評価がなされていた。
  また、中学に入学して間もないこの頃であった。比較的苦手であった音楽の勉強のためにと、母に無理を言い、ハーモニカを一本買ってもらったのだ。勉学の合間の夜など、田圃に出てよく吹いた。昼間の放課後など、級友二、三人が集まって学校の近くの土手で、やはり同じように吹き鳴らした。
  一方で父が入院中の寡婦的家族となると、夜間など密かに忍んで来る大人もいた。それは、誰かが家の中を窺っている、という僕の感である。そのたびに僕は飛び出して行き、
「コラッ」と暗闇に向かって大声を上げた。怖いとも思わなかった。母を護らねばならぬ、そういう使命感らしきものさえ生じてきていたのだろう。
  当時、母も三十歳前後であった。今でこそ農家の一主婦であるが、ここに比べれば都市部の、しかも士族の出自である。それだけに田舎では、凛としたシッカリ者にも見えていたらしい。男にとって、「またとない好餌だ」と思えていたのかも知れぬ。そう考えると、腹立たしくて、殴りつけてやりたいほどであった。ときには、僕が戸外で大音量のハーモニカを吹き、卑しい奴らを撃退する素振りも見せた。母を護る気概溢れた孝行息子が、近くにいるのである。
  多美子のその後の消息はほとんど分らない。この時期、僕には好きな同級生ができていた。M子だ。M子は背丈が小さく愛くるしい少女であった。小学校高学年時に転校してきたのだが、よく気が合った。また、不思議と僕とは席替えのたびに前・後や右・左というように近いままの位置で、遠くに離れたことがない。席替えのその度に、お互い顔を見合わせて笑い合ったものだ。中学に進級して一層強くなった「好き」という感情。もちろん一方的なものではあったろうが、そのことで多美子のことを気にするゆとりもなかったのかもしれない。
  あるときのことだ。多美子と同じ町に住む伯母が話してくれた。
  「尾崎の秀才さんと、ウチの多美子とはお互いに好き合っているらしか。良か仲のごたる」そのように多美子の母親が吹聴していると言う。
  「秀才さん」とは、僕のことを指している。多美子の母親がいつの間にか言い出したことであった。この言葉も僕は大嫌いであった。僕に対してどこか媚(こび)を売っている、そんな態度が大っ嫌いであった。
  ――何が秀才だ。秀才も天才もあるものか。十で神童、十五で才子、二十過ぎれば並みの人、ともいうではないか――  本当に苦々しい思いであった。この母親に対して、子供の僕でさえあまりにも冷淡なので、わざと皮肉っぽく言うのだろう。そう考えていた。あるいは、かつての僕と悪友の探偵ごっこの被害者が、何だか僕に対して「腹いせ」しているつもりなのかも知れなかった。
  これまで多美子を特別な好悪の感情で見ていたことはあまりない。少年として、何となく気になる存在ではあったかも知れない。ただ、これほど何回も同じ話を聞かされては、嫌でも多美子の存在が、僕の心のうちでクローズアップされるのである。そのときの伯母の話しにも、僕は返答に窮したまま薄笑いを浮かべたのみであった。それだけで精一杯であった。何度も言うように、僕はまだ少年なのである。


     (九)
 
わが家の生活も困窮を極めていた。農業による年収の大半が、生前の父の入院費に宛てがわれていたからである。何よりも母一人で切り盛りする農作業も、結構な重労働であったはずだ。僕や弟妹の、多忙の時だけの申し訳程度の手助けなんか高が知れている。父方の伯父や伯母の加勢も時にあったが、これらの親戚にばかり頼っていてはいけない。先方にも様々な農作業があるはずだ。しかし、頼らなければ「頼らない」といって陰口を叩かれる。このようなことでどこか難しい関係にもなっていった。
  僕が中学に進学すると、やがてやってくる上級学校への入試や修学旅行への問題も抱えねばならない。修学旅行にはやはり行きたいと思った。大阪の近代都市そして京都、奈良の古都めぐりが中心である。ただ、僕が家の経済状況を考えると、母に行きたいとは言えなかった。父の入院費が嵩む(かさむ)いま、なおさらのことである。
 ちょうど僕の年から、修学旅行は二年次に変更された。三年生になると、受験や就職などのように何かと気忙(きぜわ)しいからである。だからこの年に限って、三年生と二年生が合同で、しかも近辺の中学数校が一斉に臨時の同一列車で旅立つのだ。時期は初夏。多美子の中学校も一緒であった。行けるか行けないか、密かに僕も気を揉んでいたが、幸いなことに母が金銭の工面をしてくれた。ありがたいことであった。
  この頃である。いつぞやの事件を忘れたかのように、何食わぬ顔で、多美子とその母親がやって来た。一年以上経っていたが、僕らの気持ちは複雑だった。しかし、僕も母も、多美子の手前知らぬ振りして黙っていた。
母親は農作業を手伝い、また多美子を置いて帰って行った。
  三年生になった多美子はすっかり大人びていた。何だか近寄りがたいような雰囲気だ。おかっぱ頭だと思っていた黒髪は長く伸びて、後ろで一本に括っている。やや色が浅黒くなったようだ。部活でも何かやっているのだろうか。
今回は白いエプロンも持ってきていた。学校の家庭科の時間でも使用する、同一のものかも知れない。母を手伝う多美子のエプロン姿に、これまでと違う新鮮な眩しさを覚えた。
  夜になって、「隆吉さん」と言う声とともに、多美子が僕の部屋に入ってきた。立ったままである。
「修学旅行、行く? わたしは行くことにした」
「うん、行く」
多美子の問いに、僕は手短にそれだけ返事をした。ただ、どうもここは居心地が悪い。息がつまりそうだ。
「外に出る?」
多美子に促すと、軽く頭を縦に振っている。机から、僕はハーモニカを取り出す。ポケットにねじ込んで多美子と外に出ようとすると、妹が好奇の目で見ていた。
二人で外に行って、何をするつもりなの、そんな眼差しなのである。恥ずかしい思いもしたが、それを振り切るように無視して外に出た。
  ――春宵(しゅんしょう) 一刻(いっこく) 値千金(あたいせんきん)――
風流に気取ってみたいところであったが、あいにく晩春の夜空はやや曇っていた。


     (十)

麦の刈り取りも終わって、田圃には一面の蓮華の花が咲き乱れている。これから田植えまでの期間、蜜を求めて蜂がブンブン飛び回るのである。昼間の草いきれの熱気と匂いが、まだそこいら中に漂っているような気がした。当初の思いに反して、やや蒸し暑すぎるようだ。多美子と二人で外に出たから余計に暑く感じたのかも知れない。
近くに刈り取って間もない束ねられた麦藁(むぎわら)がある。僕らはその二つの束に座ることにした。冷たくて心地よい感触だ。多美子と並んで座った。特に話すこともない。
 ハーモニカを、ポケットから取り出した。口に当てる。音程の確認のため、最初ドレミの音階をさっと吹く。
 季節は違っているが、先ず「旅愁」を吹き鳴らした。僕の好きな歌のひとつだ。作詞者が、この地方出身の音楽家ということも手伝って好きな曲のひとつなのだ。次に「荒城の月」を奏でた。これも大好きな曲であった。次々と吹き鳴らす曲は、この頃中学で履修した唱歌や童謡が多い。実をいうと、最新の流行歌はあまり知らなかったし、知ってはいても好きとはいえなかったからだ。
 傍らでは、僕のハーモニカの演奏に合わせて、多美子も鼻歌を歌っている。ときには小さな声を出し、気分を変えたらハミングで。星の少ない夜空を眺めながら、立ったり座ったりしている。どこか落ち着かない様子だ。そのたびに、かすかに成熟した女の匂いと息遣いが、風に乗って僕のところまで運ばれてきた。必ずしも嫌な匂いともいえない。
 演奏する場所は、家から百メートルも離れていない。二人が何をしているか、闇を透かせば分からないこともなかっただろう。とにかく次々と続けて、僕は知っている限りの歌を演奏した。家族に、無用な詮索などさせたくなかった。
 三十分ほども吹き鳴らしていたであろうか。僕がホッと一息入れたとき、多美子が言う。
「帰ろう。おばちゃんが心配する」
どうやら、多美子も僕と同じようなことを考えているらしい。
 僕は、もう少しここにいてもいいと思っていた。ただし、今ここに一緒に座っている娘が、僕の好きな、同じクラスのM子であったらどんなに良かっただろうと、多美子には悪いが密かにそうも思っていた。
 感傷に浸ってばかりいられない。やがてその座を立つと、明るい障子の見える家へと向かった。今夜も、多美子はわが家に泊まるのだ。帰りしな、僕は多美子と歩きながら少年らしい感情で考えていた。
――たぶん、いやきっと、今では多美子が好きになったのだろう―― そう思った。何事もなく、その日は終わった。
 翌日、例のように多美子は僕らに「さよなら」を言い、自宅へと戻っていった。
僕が部屋に引き籠もっていると、まだどこかに多美子の匂いが残っているような気がする。しかし、どこかいつもと異なる違和感がある。おかしい、と思っていると、何かがなくなっているようだ。
写真だ。写真がない。机に飾っておいたお気に入りのたった一枚のもの。
すぐに察しは付いた。多美子が持って帰ったに違いない。そうだ、あいつだろう。そういえば、自宅に戻る直前の多美子が 「隆吉さんの部屋に入ってもいい?」
と聞いてきた。断る特別な理由などもないので、僕は忘れ物でもしたのかなと簡単に考えていたのだ。
軽い怒りが一瞬のうちにこみ上げてきた。
なにも黙って持ち帰らなくても、一言断ってくれたらよかったではないか、なんだ、やはりあの母親の子供か、という思いであった。考えると、過去の母親の行為は許せない行為だった。では、多美子のそれは?
  ――いや、これは可愛いくて、まだ許せる行為だ。許そう―― そう一旦考えると僕の気分は一新して、ニンマリと笑みさえこぼれた。
 ――多美子は僕の写真を机にでも置いているのであろうか、それともどこかに仕舞い込んで持ち歩いてでもいるのだろうか―― 薄暗いスタンドの下で、僕は明日の予習のテキストを広げながら、そんな取りとめもないことばかり考えていた。
 その夜、なかなか夢路には就けなかった。


     (十一)

 修学旅行出発の朝は、所定の場所に六時集合であった。初夏とはいえ、家を出るときはまだ薄暗い季節だ。所定の場所まで徒歩で四十分ほどかかるが、そこまで母が送ってきてくれた。この頃には僕も新聞少年を辞めていて、あとは僕と五歳違いの弟に引き継いでくれている。
 その決められた集合場所から駅まで、さらに徒歩で二キロほどの道程である。そこから一昼夜かけて大阪まで行くのだ。今では考えられない時間だろう。
 駅に着いた。普段乗り手の少ない田舎の駅も、今朝はごった返している。
 ――多美子も来ている―― そう考えて周囲をそれとなく見渡してみるが、いっこうにそれらしい人影は見当たらない。各校それぞれに整列しているので、その隊列を乱すわけにもいかない。仕方がないな、と思っていると、不意にうしろから僕を呼ぶ女の声がした。
 後ろを振り返った。多美子ではない。
声の主は、母が懇意にしている近所の家の娘であった。彼女も僕より上級の三年生である。やや大柄ではあった。もちろん彼女の小さい時分から知っている。
「向こうに着いて、汚れ物があったら出してね。洗うから」と、のっけから言う。
僕は慌てた。級友の手前、頬がカーッと熱くなるのを覚えた。悪友どもはニキビ面してニヤニヤ笑っている。いやいや、洗濯物など出ないはずだ。
「パンツでも構わないよ」このお姉さんは続けて追い討ちをかけてきた。全く形無しだ。そんな物、あっても出せるわけがないじゃないか。
 フッと、多美子のことが思い出された。
――洗い物があったら多美子かM子に頼みたい―― そんな思いがサッと頭をよぎった。列車の中でほとんど一昼夜を過ごす。走る列車は蒸気機関車である。各自、パジャマ代わりのトレパンを用意していく決まりだった。
――うん、石炭の煤で、白のトレパンなど結構黒ずむかもしれない。一本しかないトレパンだ。どうしよう―― 一瞬迷った。
それにしても、このお姉さんも多美子も、二人とも上級生だ。列車の中では、
――なぜ上級生ばかりが―― とくだらないことばかり考えていた。
 列車は九州路から山陽路へと走り、翌朝大阪に着いた。すぐさま大阪城その他を見学して、京都の旅館に入った。まだ、列車やバスに乗っている気分でふらついてさえいる。
部屋に入って足を伸ばし、取り敢えずホッとしていると、例のお姉さんがやってきて洗濯物はないかと言う。予期しないではなかったが突然のことで、「いや、ない」と僕は答えた。が、恥ずかしさのあまり「ありがとう」とも言えなかった。
 三日間の旅行日程も終わりに近づき、この期間中、終ぞ多美子を見かけることはなかった。学校が違うだけに、行程も宿泊施設もわずかに違っていたのだろう。


     (十二)

 楽しいばかりの旅行ではなく、級友の一人の様子がおかしくなり僕のみに頼ってくるハプニングもあった。その級友は何か「臭い、臭い」と言いつつ帽子で口を塞いだままだ。さらに、この京都から田舎に「帰る」という。旅館の二階は川に面しており、本人はいつ川に向かって身を投げるかもわからない。その監視役を、引率の教師から任されたのである。こちらとて、寝ないわけにはいかない。心の内では、一人で監視などできるものか、と反発していた。それでも時間は刻々と過ぎていった。当初の予定通り各地を回り、何とか無事に我が家に帰り着いた。その級友は我が家に帰り着いたのち、しばらく休学の手続きが取られた。さらに数カ月の月日をおいて、然るべき病院に入院することになったと記憶する。
 このように様々な思い出深い修学旅行も済んで半年ほど経ったころの十一月、かねてから療養中であった父が卒した。
午前中の理科の授業中であった。教師からの連絡で、僕はすぐ家路に就いた。外は早朝からの濃い霧で、ようやく晴れようとする時間である。道すがら、小走りするほどに涙が溢れてくる。ただ、帰りついた頃にはもう乾いていた。
 家には、親戚の者達や近所の人々が手伝いに来てくれている。布団の上に横たわったまま、もう物も言わない父に僕は対面した。口を、ややだらしなく開いている。その口から、黒ずんだ前歯が覗いていた。かつてタバコを吸っていた頃のヤニのあとだろう。
 二週間ほど前、母とともに父を見舞ったばかりであった。久し振りの対面でもあったので僕もなぜか気恥ずかしさを覚え、ほとんど何も喋らなかった。もっとも、父が僕を認識していたのかさえも分らない。
 父は一時、療養所を抜け出して二十数キロの道程を我が家に向かっていたことがある。鉄道線路上を主に歩いて、我が家まで残り五キロほどの地点であった。その地でかつての父の知人が発見してくれて親戚に通報、わが家にもその報がもたらされた。取り敢えず、一旦我が家に連れて帰ることにしたが、病状は思わしくない。従って、せっかくの徒歩も全くの無駄で、そのまま再び療養所に連れ戻されることになったのである。後日療養所まで面会に行った母の話によると、その時の父の足は腫れあがっていた、という。
 後日、僕はどう考えても腑に落ちず、また悲しかった。あの時、父が正常であったのでさえあれば、もう少し家に居てほしかったのである。だが、すぐさまのように療養所まで追いやったようなものであった。しかしながら死んでのち、やっと安住の我が家に戻ってきた父。そのかつての行動を考えると、やはり哀れにしか思えなかった。
 葬儀の準備が進んで行く。父の遺体の傍らで、母はあたり構わず泣きじゃくっている。僕も最後の対面で新たな涙に誘われ、裏手に回って一頻りしゃくり上げた。
あの芯の強かったわが母。まだ父の傍でオイオイ泣きながら、
「どうしたら良かと? これからどうしたら……」 と、いつまでも身を震わせている。
再び遺体の傍に戻った僕。涙はもう涸(か)れた。一方、いつまでも泣きじゃくる母を見て、
――見苦しい―― と思った。母を疎ましくさえ思った。普段は勝気な母である。その勝気な母であればこそ、父の療養中の僕ら兄弟の世話ができたのだ。しかし、人目憚(はばか)らず泣きじゃくる弱い母を見たのは、この時が初めてであった。
 葬儀には、級友や教師達が来てくれていたらしい。ただ、僕は遺体の傍に付きっ切りで外に出なかったから、誰が来てくれていたのか知らない。周囲は一切見えていなかった。
多美子やその両親が来ていたのかどうか、それも知らない。僕の全身は空虚で中身のない体躯と化し、ただボンヤリしていたのだろう。
 野辺の送りは、わが家の裏手の共同墓地で済ました。夜遅くまで卒塔婆の前の灯明が点っていた。
その父の死は、それは僕の上級学校への進学を意味していた。ただ、家の貧しさは変わらない。これまでかかっていた父の入院費用が必要なくなっただけのことである。
年が明ければ三年生だ。勉強しようと思った。


     (十三)

 多美子がその後どうなったか、僕は知らない。
誰かに消息を聞こうともしなかったのは、田舎特有の物見高い好奇心のみで、面白おかしく取り沙汰されることを恐れたからである。
 僕は上級学校へと進んだ。多美子は僕より一歳年上だから、きっとどこかへ就職したのだろう。終ぞ、進学したという話しも聞かなかった。戦後十五、六年の、社会はまだ騒々しく、経済も安定していない時代である。中学を卒業して仕事に就くことは決して珍しいことではなく、どこにでも見られる光景であった。東京や中京さらに京阪神を目指してがむしゃらに、日本全国の集団就職列車は突き進んで行っていた時代なのである。
 その頃、多美子に関して親戚筋からそれとなく耳にしたのは、
「多美子と隆吉さんは相思相愛の仲じゃったと。可哀想にね」と、多美子の母親が相も変わらず言い触らしているという、そのような話ばかりであった。何をもって「可哀想に」と母親が話しているのか分からなかった。思うに、わが娘多美子は、思いを断ち切って遠くに行ってしまったのに、とでも言いたかったのであろうか。あるいは、僕が多美子と別れざるを得なかった、とばかり信じ切っている母親は、僕のことを哀れだと考えて同情していたのかもしれない。 しかし、その後も僕自身は、多美子を思い詰めているという特別の意識はなかった。だから、単に聞き流すばかりであった。
 気にならないわけでは決してなかった。やはり、いつしか一人の娘を思慕し、いつまでも執着しているような不様な姿など、誰にも見せたくなかった。そのように誰かに推測され噂されること自体、僕のプライドが許さなかったからである。だから、数十年の年月を経て壮年に達した今の僕でも、多美子がどこで、何をしているのか、一切知らない。いや、その生死さえ分らないでいるのである。
 多美子の「隆吉さん」と言う呼び掛けに対し、僕が「多美ちゃん」などと呼んだことなど一度たりともなかった。しかしながら、あの当時の多美子が、いま頻りと思い出される。淡く人恋うる感傷か、苦い感傷かは知らない。おそらくその両方だ。
 遠くなってしまった過去。いま思うとどこにでもある普通のことで、何の変哲もなかった少年の日々。それらが、無性に懐かしく蘇ってくるのはなぜだろう。
あの頃の多美子は、本当に僕を慕ってくれていたのだろうか。それとも、あの母親と仕組んだ二人芝居の一幕に過ぎなかったのであろうか。僕と僕の家族は、その哀れで滑稽な被害者であったのであろうか。 否、答えは否だ。
 ――少なくとも多美子はそうでなかった。彼女は何も知らなかった―― 多美子の掌(たなごころ)の上で、哀れなピエロを演じていたのかも知れないという僕のイマジネーション。しかし、それを頑な(かたくな)に拒む僕も、一方に存在する。
 仮に、だ。仮に、多美子がその田舎芝居に加わっていたにしても、演出者が悪かったのだ。芝居を面白くするもしないも、それは演出者の力量による。演出者は時代である。時代が醸成する貧困が、全ての悪の根源なのだ。そのさらなる淵源が戦争にある。
僕は今でも思う。いや、断言する。
 ――多美子は……、決して悪くない―― 本当に昭和も遠くなってしまった。僕らの世代が、見たこともない明治や大正が遠い過去と考えるように。
「隆吉さん」
懐かしく呼びかける多美子の声。いまにも、机に向かっている僕の後ろから聞こえてきそうな気がする。

                                    了
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