戦後の球磨地方における稲作苦労についてのいろいろなご意見と感想
皆様から寄せられたご意見と感想を掲載します。
➊ 焚きもん山、当時住んでいた上村には一時期「焚きもん山」として秋から初冬に掛けて雑木を切り出し、焚きもんにしたり、炭にしたりしていた時期が有りました。
私が小学生の時に弁当を持って、役場から我が家に与えられた区画や隣の区画で炭焼きをしている山に出掛けました。
場所は、夫婦岩から右手に数百メーター程登った所。その後、根を掘り出して、そこに杉の苗の植林を行った。
15年以上も前に、その木が伐採の時期になったので、「母名義の木の伐採権を譲ってくれんね」との電話が山の管理者(当時の遊び仲間で年上の人)から掛かって来ました。植林した母は既に他界しており、何本だったのかも聞かずに即OKしました。(関西会、YTさん 74歳)
❷ 焚きん山は、深田の荒茂地区にもありました。正月前には、地区の人何人かで出掛けていました。
記憶が曖昧ですが、おやじ、おふくろと切った木を「きんま」に乗せおろした記憶があります。薪や炭焼きに使用していました。
荒茂では山の場所を「ひゃくさんさん」と言っていました。(関西会、RFさん 77歳)
❸ 杉下様の労作「戦後の球磨地方のおける稲作苦労」を拝読させていただきました。
まず、氏と私では9歳の年齢差、それを思うだけでも私との経験知にこれだけの差異があるのか、と感じた次第でした。ここに紹介された氏の労作の内容については、球磨地方の生を受けた同輩の方々が、若干の差こそあれ等しく体験されたものばかりであろうと思います。
現代の機械化された農業と、かつての牛馬に頼ったそれとでは雲泥の差があるはずです。いえ実は、今日の球磨地方における農作業がどのようなものであるか、私自身見る機会はほとんどないし、またはっきりとした想像すらできません。数年振りに故郷の空気に触れてみるとき、田畑を見たら「随分と変わったなぁ」と感じます。
当時の様々な農機具さえ忘れてしまっています。この杉下様の労作は、少なくともそれらの一部だけでも思い出させてくれました。他にも唐箕
(とうみ)などの記憶も残っていますが、ある時それらを含めた農機具などが出展されている写真を目にしたことがありました。今では博物館の陳列品になっているのですね。
今から60年も70年も昔の農作業、当時はけっこう辛くきつい仕事でありました。この際、戦後の塗炭の苦しみを僅かでも知る我々の世代が、今だからこそ後世に語り継いでいくことも必要であろう、と思われます。戦後間もなくの、本当に貧しい時代でもありました。それでも、それなりの嬉しい思い出や悲しい思い出がどなたにでも脳裏深く残っていることと思います。孫子世代にぜひ遺していきたい「稲作苦労」です。 小川 龍二 令和七年十月
❹ ・・読ませてもらいました。よく、こんな多方面の資料と情報をどこから仕入れるんですか?
まるで生きている博物館だなあ。でも戦中戦後は、農家でも食糧難だったなんてピントきません。(S・H 元会社員・岡原出身・神戸市)
❺ 先生が元気であることに加え、記憶力の良さに感銘を受けています。小学校6年だけでは、私の記憶はほとんど残っていない状態です。以下の感想を書かせていただきました。
今回の記事を読んで、前回と同じく、先生との年の差を感じました。それにしても記憶力が良いですね。前回申し上げましたように、私は満州引揚者です。帰国後、父の郷里であった都城市に2年ほど滞在し、その後、母の実家がある延岡市に居を移しました。そこは農家でしたので、先生の記事にあります、薪拾い(裏山で薪を拾いましたが、肩に担いで帰るので、薪の結び方が得意になりました)山草集めを手伝ったことくらいしか、私の記憶にはありません。母の実家の離れでの生活も2年ほどですので、田植えなどの手伝いはしていません。そう言えば、いつ頃まであったかは分かりませんが、農繁期には学校の「早退き」がありましたね?
今年は新米の価格が大きく上昇していますが、日本の弱点はエネルギー資源の不足と食料自給率ですね。この問題を克服しない限り、物価高は繰り返し起こってきます。日本農業は後継者不足による農業従事者の減少が大きな問題になっています。逆に、これからの農業は若者にとって挑戦する価値があると思います。日本の農業を担ってこられた方々に敬意を表しながら、AIを駆使した新しい農業や農業の大規模化に大いに期待したいと思います。(原 彰 元大学教授 延岡出身・名古屋市)
❻ 戦後の稲作の労苦文、拝読しました。先生の幼い頃からの農作業手伝い、まことに感心しました。年令を重ねても幼い頃の体験はずっと続くんですね、おそれいりました。こちらは全くの不案内で、早乙女や田植え、はさ掛け、稲刈り等しかわかりません。まして農業機械の名前、写真も初めてみました。幼い頃、幼稚園や小学校までの道は田んぼの畦道を通りました。だから作業している農家の人たちの姿は見ていますが、表だけを見ていたたんだとつくづく思います。
気の利いた感想文は書けませんが、「畔塗り」の文言を夏井いつき先生の著書で見つけましたので、そのまま送信します。農作業の「畔塗り」は俳句の季語になっています。畔塗りとは、田起こしした後、モグラの穴から水漏れして崩れた畔を修復する作業です。水が漏れ出ないように丁寧に鍬で畔を繕い塗るのです。春の季語になっていますが、今は農業の機械化が進み、季語も絶滅状態になりつつあると夏井さんは危惧されています。
「畔塗りの ための有給 休暇かな」 厚味
農作業の秋の季語では「焼き米」があります。
「やき米や 仏の膝に あまる迄」 藤村
農家には土間がありましたが、俳句では土間のことを「夜庭
(よにわ)」といい、秋の季語になっています。土間で月明りを頼りに手動の籾摺り作業をしていました。この仕事も含めて「夜庭」とも言います。いろんな作業を経てお米が誕生するんですね、知りませんでした。ありがとうございました。(金子 千津子 エッセイスト・人吉出身・岐阜県)
❼ 拝読しました。A4版5枚余り、読み応え充分でした。ありがとうございました。福岡も米軍の空襲が激しくなり、一家は、当時の糸島郡に疎開しました。昭和20年、小生、3歳未満の頃です。当時の小学校に昭和24年4月に入学、3年修了まで過ごしました。その小学校の周りは殆ど田園や畑でしたので、先生の資料にあります「犂での田起こし」や「田植え風景」を思い出しています。また食糧難の時代で、疎開先では畑を借りて、一家で野菜(白菜、茄子、キュウリ、トマト)や薩摩芋などを栽培していまして、私も農作業手伝いの経験があります。4年生からは博多に戻りました。(前田 隼 元大学教員・博多出身・83歳・名古屋市)
❽ 前略、やっとアクセスでき、昼休みに読めました。馬が稲作を支えていたんですね!百太郎で人間と一緒に馬も水浴びだなんて想像できないです!
トシ婆ちゃんは、私が小さかった頃、いつも外風呂を焚くために焚きもん山からとってきた薪をくべていたことを覚えています。トシ婆ちゃんの湯治の話が出てくると嬉しくなります。(伊東 裕美 主婦・岡原出身・新潟県)
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❾ 10/23のNHKテレビにて人吉市の中学校生(多分、大畑の三中?)がカルガモ農法で育てた稲を脱穀する際、千葉扱き(せんばこき)や、足踏み脱穀機を使って居られました。当然、唐箕(とうみ)も使用されていたものと思えます。
小学時代に、この3種の農機具が自宅に有って、お手伝いのまねごとをした記憶があります。(関西会 YTさん 74歳)
(写真出典:三重県朝日町歴史博物館) |
❿ 「戦後の球磨地方における稲作苦労」を拝読いたしました。実家から、近所の農家さんから分けてもらって購入している新米を先月送ってもらったばかりですが、気候や天気、雨量など、人間のコントロールの利かない自然を相手に、収穫をしていく作業は、農機具が発達した現在でもとても重労働で在り、根気のいる仕事だと実感します。ましてや、当時は、全て人の手だったのですね。なのに、お昼御飯にはほぼタンパク源はなしとは・・当時の日本人の底力を感じれるエピソードでした。
『球磨地方では「かたい」とか「もやい」とか言うが「結
(ゆい)」である。
「かたい」とか「もやい」とは、住民が協力しあう助け合い精神、総合扶助、労力交換である』上記の言葉は、私のころには、「結」という言葉でのみ聞いたことがなく、言葉の歴史としてとても興味深い点でした。特に労力交換という視点は、面白いですね。
私は、昭和53年生まれですが、岡原小学校時代に同級生のお宅の田んぼ、田植えと稲刈りを体験させていただきました。たった1回ずつの貴重な体験でしたが、今でも田植えの時に、田んぼに足を突っ込んだヒヤリ、ぬるっとした感覚、泥に足をとられて思うように歩けない感覚は今でも昨日の事のように思い出されます。田植えも稲刈りも、腰をかがめて行う作業、子どもながらに、こんなに大変なことをしてお米ができているんだ・・・、と一粒一粒大事にしなくては・・と思ったことを覚えています。
また、石油発動機の不具合が、杉下先生の工学の道に進まれる原点となったエピソードも印象的でした。当時お父様が、発動機が動かなくて困っていらっしゃったのを助けたかったお気持ちとお父様と仲が良かったのだなあと、勝手に想像をかきたてられた箇所でした。
『球磨地方では「の」を「ん」と発音する』これも、確かに!でも、言われるまで気付かないもんですね。定年後の方が、楽しくお過ごしとの事、とっても素敵なことだと思います。私は、「人生8合目くらいからが面白い」を地で行っている気がします。 須川 可愛さん(岡原出身・福岡市在住・郷土史家・46歳)
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