語り継ぐ

終戦記念日           小川龍二

 

 今年も終戦記念日と呼ばれる8月15日が過ぎた。正式にはこれも終戦記念日ではなく大詔渙発の日であろうが、ここでその論を展開しようというつもりはない。
 310万人の戦争被害者を生じせしめて戦争は終結した、と考えられているが、もちろんその裏には、戦後も生き延びて様々な苦難を味わった一般市民も多いことは今さら言うまでもないことだろう。いや一般市民ばかりではない。かつての直接の戦争従事者たちも、様々な葛藤を抱えて戦後を生きてきたのである。戦中の出来事を、多くのかつての兵士たちは語ろうとしない。語っても、それはほんの一部に過ぎないのだ。
 今日、戦時中の惨状の実態が徐々に話題に上り始めた。かつての兵士たちにとって、その話題にはあまり触れてほしくないという向きは結構多い。その一つが、新兵に対する度胸付けの敵兵捕虜に対する刺突であろう。さらには斬首だ。
 一兵卒とは言え、元は人の好い農民や商人たちだ。相手も敵兵ながら一個の人間なのである。その殺害に快哉を思うはずはない。運よく戦後に生還した彼らにとっても、出来得れば己の胸の奥にしまい込んだまま墓地まで持ち込みたかったのでは、と思う。決して快事ではなかったはずだ。人によってはこれが戦争トラウマとなって、生涯を苦しんで過ごした。
 私も身近にそのような元兵士を知っている。父だ。彼は今でこそ大きく取り上げられるPTSD(心的外傷後ストレス障害)であった。中国大陸において、敵兵の一人の斬首に手を染めたことがある、と言う。わが家に日本刀があった。その切っ先3寸付近に刃毀れがあったので、そのわけを聞いた折に父はその嫌な話題にも答えてくれた。何でも敵兵の斬首であった、と言う。さらには敗戦直後の民間宅の接収先では、手りゅう弾暴発事故に邂逅した、とも。その他の軍隊時代の思い出も決して快い話ではなかったはずだろう。
 これらの事実は、多年にわたって父を苦しめた。彼はその生前、「戦中、戦後の恐ろしい夢を見る」と言って夜中にうなされていた。私はその姿を記憶している。ただ、おかしな言動がないでもなかったが、家族に対し暴力を振るう、またアルコールに依存するような人では全くなかった。そしてその後、治療と称して父は入院加療ということになったものの、ただ当時は、単なる精神疾患として隔離さえされていたのである。その彼も戦後15年を経て、もがき苦しみつつ生涯を閉じた。
 戦争は戦勝国にも敗戦国にも多大な苦しみを強いる。核爆弾の使用などあってはならないことはもちろんのことだ。ただその前に、各国家間の紛争処理のための戦争など、これらの暴挙に訴えてはならないことは言うまでもないことである。

令和七年八月十八日    

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