球磨ふるさと賛歌
<趣意> 机の引出し開けると、ごっちゃ混ぜになって懐かしい手紙や写真がでてきた。追憶は輪郭のない朦朧体であるが、何となく昔日がよみがえってきた。米寿を迎えて、いまここに、過日の情景を詠み残し老寿の証としたい。
<趣意> 球磨は県南東部の人吉球磨地方。湯殿(ゆどの)とは五右衛門の風呂場。生家は農家で、母屋と牛馬や鶏小屋があり、少し離れて五右衛門風呂場と便所があり、当時はどこも、家畜と湯殿や便所が向こう三軒両隣であった。
<趣意> 黒原は球磨盆地の南縁にある黒原山(1017m)のこと。焚き物とは、煮炊き燃料としての雑木で、冬場に村有林の麓の自由伐採が許されていた。農家の嫁たちは競い合って、雑木を鉈で切り倒し、束ねて我家へ運んだ。
<趣意> 焚き物で焚く竈(かまど)の大鍋で山茶の釜炒りである。山茶とは自生茶であり、その面積は、明治から大正時代まで、熊本県下最大であった。茶の香満ちる竈で、母は窯に頭を突っ込むような恰好で、うちわで山茶炒りをしていた。
<趣意> 戦局が厳しくなると飛行機の代替燃料として、松根油をとる松根掘りが総動員体制で進められた。黒原山で朽ちた松の根を探し、掘っていると、近くの神殿原(こうどんばる)飛行場から飛来した複葉の練習機・赤トンボが旋回していた。
<趣意> 地蔵出しとは、結婚披露宴席に、地元住人が地蔵さんを持ち込み、婚礼を祝う球磨地方の風習である。新郎新婦の初仕事は、地蔵さんによだれかけを掛けてやり、元の場所に戻すことであるが、どこからおいでなさったのか、さてさて・・。
<趣意> 小学校時代の学芸会である。出し物は、あめふり童謡劇 ♪あめあめ ふれふれ かあさんが じゃのめで おむかえ うれしいな・・・・ である。母親役は背の高い女の子、子役は小さい男の子が当てられた。背高の私は、その子役がいつも羨ましかった。
<趣意> テレビや電子ゲームのなかった時代、鎮守の杜で行われる村芝居、ゴザを敷き寝転ぶ人もあった。出演は地元の青年団や婦人会メンバーの流行歌や踊りである。肥後にわかは、熊本弁(球磨弁)の即興劇で、芝居の終わりに締めのだじゃれオトシが特徴である。
<趣意> 筆者の家の前の道を、幼子をおんぶした老婆が通っていた。すると幼児がねんねこから手をだし、あれっあれっと、私の家の垣根の朝顔を指さした。日傘からはみ出た幼児の白い二の腕、夏の日が容赦なく射していた。
<趣意> 木綿は綿の木、なぜあんな柔らかい綿ができるのか不思議だった。それに、綿の種を取り出すのが綿繰り機、綿を糸にするのが糸車。綿の塊が祖母の指先から、細い糸になってと出てくるのがなんとも不思議だった。
<趣意> 麦踏みとは、霜柱によって、土や麦の根が持ち上がるのを防ぐための真冬の農作業。地下足袋は、ゴム底で足の親指と残りが二股に分かれている作業用足袋。筆者の爪先幅は広く、麦踏に適しているとよく言われた。
<趣意> 干し味噌は、自家製醤油を作るときに出る醤油の搾りカスに胡麻、唐辛子、柚子、生姜等を混ぜて丸めて干したもので、球磨地方の伝統保存食であった。現在では、醤油や味噌の自家製はなくなったが、土産物として存続し、焦げ目がつくくらいに焼いたほうが香ばしい。
<趣意>「んまか」とは、おいしいの意味。高菜は、野沢菜や広島菜と共に日本三大漬け菜の一つとされ、九州を代表する漬物野菜である。ピリ辛油炒めは定番、浅漬けした高菜の葉で巻いたおにぎりは野趣あふれる。
<趣意> 二十歳過ぎの頃、見舞ってくれた友人を嘘の言い訳をして断った。焦燥感と病衣姿が無念で情けなく、会いたくなかった。療養所の汚れた窓越しに友を見送ると、友の情けを無にした悔いが込み上げてきた。
<趣意> 新米が出回る頃、母は米一升を送ってくれた。小包には、必ず手書きの便せんが米の中に埋めてあり、漢字は一つもなく、平仮名ばかりであった。お前たちが読めるように、漢字はないのだとうちの子等には説明した。
<趣意> チッキとは列車手荷物預かり票のことで、昭和61年には廃止されたが、生活用品を詰めた柳行李が手荷物として運ぶことができた。母は列車が動き出すと小走りで、大事だよ、なくするなと幾度も声をかけ続けた。
<趣意> 冬の球磨川下りこたつ舟は温かい。持ち込んだ熱燗焼酎もほどよく、やがて急流、球磨の瀬にさしかかると酔いもまわる。こたつの中の向う脛(すね)が触れた、いや触ったと、大はしゃぎした若い日のこたつ舟である。
<趣意> 柿渋は発酵すると嫌な臭いを発するが、投網の防腐や防虫に効果があった。父は天気のいい日をねらって、庭先に干場をつくり、投網を柿渋に浸していた。投網が乾くと百太郎でホグラやフナや川エビをとっていた。
<趣意> 上げ法事は、「弔いあげ法要」のこと、地方により異なり33回忌や50回忌が最後の年忌法事である。父親の記憶はおぼろげで、33回忌上げ法事でも追憶には至らずうとうと・・・。木枠の回り灯篭がゆらゆら回っていた。
<趣意> 心見の橋とは、球磨地方で最も高い市房山(1721m)頂上谷間に、岩が挟まってできている天然橋である。風通しがよく、邪悪な心の人が渡ろうとすると岩橋が落ちるとの言い伝えあり、誰もがおそるおそる身構えて渡る。
<趣意> 白髪岳(1417m)は緩やかな稜線の山容であり、球磨盆地南域の大半を占める。帰省のおり同級生有志を誘っての登山。南限というブナ林、落葉した木の下で誰かが持ってきたボタ餅をほうばった。間もなく山頂は積雪する。
<趣意> 喜寿のとき、同級生の物故者12名の供養をしようと、12個の小さな凧を繋いで連凧とし、黒原山(1017m)の展望所からあげる企画をした。亡き友は手をつないだ格好で、麓からの千の風に乗って黒原山の峰より高く、空を泳いでいた。
<趣意> 球泉洞(きゅうせんどう)は、球磨郡球磨村にある鍾乳洞で、全長約4.8キロ、九州で最大である。涼しい洞穴を出ると、外は目がくらむほどの日差しと暑さ、日傘をさした入場待ちの人の列に容赦なく日が射していた。
<趣意> 遠来の友を迎えての長野県辰野町のほたる祭りである。定刻になると照明が消されて真っ暗になり、乱舞する蛍の灯りが唯一のたどる道しるべとなる。互いの腰のベルトを掴み合い、細い谷筋の木にはホタル灯のクリスマスツリーだった。
<趣意> 還暦の同級会の宴席。百太郎でホグラを突き、使用人部屋で一緒に受験勉強した昔の友がいないのに気づいた。尋ねても誰も知らず、噂もなかった。宴会の窓辺の木でツクツクボウシが鳴いていた。
<趣意> 何度 鮎を捕えても 呑み込ませてもらえず、主に従い客のために、舳先の漁火に映えて、出番を待つ長良川鵜飼舟の鵜たちに同情した。舟の仕出しは鮎の塩焼き、鵜の噛み傷のある鮎は天然鮎の証、高値だと船頭さんが教えてくれた。
<趣意> 開聞 薩摩半島南端の開聞岳(924m)、薩摩富士とも呼ばれている。遊子雲とは ゆっくりと流れる雲。開聞岳登山を終え 指宿の砂風呂に体を埋め、目だけを出して開聞岳を眺めながら棒足を癒した。この夜の宴会に遅れて到着した同級生は一番先に他界した。
<趣意> お龍は竜馬と新婚旅行で、この高千穂峰(1574m)に登ったとされる。山は四つん這いになって登るくらいの急登斜面であり、赤肌のガレ場である。お龍はどんな格好で登ったのか、逆鉾の峰は御鉢(おはち)のもっともっと先である。
<趣意> SL人吉号は1922年生。静態保存、動態保存、修復を経て、2020年7月の豪雨までは肥薩線を走っていた。その雄姿は憧憬の的であったが、ついに2024年3月23日博多―熊本間でラストランとなった。その発車汽笛はさわやかであり、動輪クランクの足取りも確かであった。
著者:杉下潤二 プロフィール
出自:熊本県球磨郡あさぎり町岡原北 昭和11年7月生 米寿
職歴:名城大名誉教授 工博 教務部長 教育開発センター長
専攻:材料科学 トライボロジー学 学術論文 58編
学会:日本機械学会 トライボロジー学会 材料学会 等
叙勲:瑞宝中綬章 受賞(2016年)
著作等:「縄文人は肥薩線に乗って」(熊日出版)、「わが熊襲国と幻の邪馬台国」(三景印刷)、「ヨケマン談義」、「さなぼり談義」等を「あさぎり町ふるさと関西会」HPに連載
杉下様から頂いた原稿にはビッシリとふり仮名がありましたが、有った方が良いと思われる箇所のみに勝手に減らしてあります。
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jun2415@m6.cty-net.ne.jp です。(HP管理人 種村)