補遺「球磨ふるさと賛歌」
「注釈」 百太郎沿い多良木方面に向かうと岡原と多良木の境界あたりに家畜市場があ りました。秋になると当歳牛の市がたち、売られて肥育牧場へ向かうのです。親と同じ 小屋で過ごし、母乳を呑みながら育った子牛が売られていく日です。小屋から引張り出 され、遠ざかるにつれ親がモウーと呼ぶと子牛もメエーと応え、その後は歩こうとしま せん。この時節は、牛の繁殖農家の一番うれしくもあり、切ない日でした。
田植え綱 ピンと上がれば 後ずさり 脚絆の植女 蟹の横這い
「注釈」 綱張り田植えの頃の情景です。畔から投げられた苗束を拾えば田植え綱が上がり、ぴんと張られると脚絆の植女達が一斉に、蟹の横這いで植えていきます。私も列に入れて貰いましたが、植えたのは身の前の4株だけ、手早い隣の植女さんが植えてくれました。
「注釈」柿の実は熟して落ちてしまい、枯葉となった頃、母が、柿の木の枝にブランコを作ってくれました。紐は藁縄(わらなわ)で、危なっかしいものでしたが、危なかったのは藁縄紐ではなく柿の木の枝でした。折れはしなかったが大きく撓むと、母は走り寄ってきて笑っていました。
「注釈」 屋久島へ同級生と喜寿の旅をした時の情景です。島には紀元杉、弥生杉、縄文杉など樹齢千年以上の屋久杉が現存します。老樹にあやかり、長寿の秘訣を聞いてみようということになり、樹齢三千年という老樹の幹に耳と押し当てました。巨木のブナでは、樹の中を流れる水音が聞こえる と言いますが、屋久杉の老僕は苔肌がひんやりとしているだけでした。やはり長寿の秘訣は水だと思いました。
「注釈」 昔の大らかだった小学校の運動会風景です。棒倒し、騎馬合戦、タワーピラミッドもありました。お昼は、身内の応援者が来ていない子があれば、呼んでお重の弁当を共にしました。お昼はそこそこに屋台の出店を回るのが楽しみで、昼休みはあっという間に終わりました。今は屋台の出店はなく、危ないとかで組体操もなく、身内の応援出席のない子もあることを考え、親子昼食はなく、学校給食のところが多いと聞きます。
「注釈」 子供の頃の私は、田んぼのレンゲは、お百姓が村を美しくする為に種を蒔くのだと思っていました。花が咲くと惜しげもなく田んぼに鋤き込まれてしまうのです。土の肥沃増進を図るためだそうですが、この花盛りが惜しく、私は飼っていた子兎たちを連れ出し、レンゲの中に放して遊ばせたことがあります。こちらも暫し休息、レンゲ絨毯(じゅうたん)の上に大の字になりました。
「注釈」 夕方の子供番組なんかなかった時代、缶蹴り、縄跳び、かくれんぼ、すっかりあたりが暗くなるまで、家の心配など気にせず、外で遊んでいた頃があります。誰かが、もう帰ろう!というと、わが家の方をふり向き、灯りがついているのを見ると、あっ!夕飯だといって帰ったものでした。
「注釈」 ちょんかけとは、肥後のちょんかけゴマのことです。コマは、直径が十三センチほどの皿状で、器の高台に当たる部分に紐をかける鉄芯が打ち込んでありました。コマは、紐の速度差をつけた上げ下げで回転を与えます。大振りは、コマを両肩より高く空中に放ち捕捉する技です。鍋蓋や急須の蓋でもコマの代用ができますが、陶器蓋だと地面に落とせば割れてしまいます。私は鍋蓋回しが得意で、余興では一番うけました。
「注釈」 九州や沖縄では、十五夜の晩に綱引き行事があります。五穀豊穣や無病息災を願っての秋祭りですが、集落の協調と懇親を深める催しでもありました。綱は藁縄で、長さは50mもあり、15センチほどの直径で、子供は抱きつき、ぶら下がって参加していました。
綱引きの場所は往還(おうかん:大きな道路)の真ん中、警官がでてきて交通整理をすることもありませんでした。車は分限者(ぶげんしゃ:金持ちの人)しか持てなかった時代でしたから・・。
「注釈」 畑で草取りをしていたとき、昔懐かしい友からの電話でした。子供だけで映画館に行くのはご法度の時代、映画を二人で行った話だったのですが、見たのはチャンバラだったかマンガだったか。マンガだったと言うと、マゴ?と孫の話になってしまい、同じことを何回も聞き返し、言い直して二人の内緒話も空に筒抜けていました。