深田 上 免田 岡原 須恵

ヨケマン談義9. 人吉球磨地方の伝承文化

9-3. 棒踊り

 猿の子どもや男の子は棒切れで遊ぶのが好きである。それは昔から、棒切れが身近な狩猟道具であり、攻撃や防御のための道具であった証なのだろう。女の子でも戦時中は、B29に立ち向かうとかで図1に示すような竹槍訓練にかり出された。今回は人吉球磨地方の伝承芸能、臼太鼓踊り、球磨神楽に続いて第三弾のヨケマン話、「棒踊り」の話である。

竹槍訓練 猿 棒踊り
図1. B29に立ち向かう往時の竹槍訓練 図2. 棒踊り(宇城市小川町)

 棒踊りとは、図2のように棒を持ち、隊列を組んだ踊り子が歌囃子に合わせて棒を打ち合わせて踊るものである。棒は六尺棒や三尺棒、地域によっては棒の代わりに太刀や薙刀(なぎなた)、それに鎌(かま)などを持って踊る棒踊りもある。鎌が主体なった踊りが「鎌踊り」である。昔は本物の太刀や鎌が使われたが、今日では、安全のためすべて木製である。踊り手の数は、集団演技以外では3人、6人、多い場合は12人である。

 この踊りの始まりは15~16世紀の戦国時代と言われている。この時代の百姓や町民は,常に戦いの犠牲となり、安住の地をもとめ続けていた。武器を持つことが許されなかったが、窮余の一策は木製の薙刀や木刀、鎌などで自衛することであった。木刀が三尺棒や六尺棒となり、防御や攻撃の術が踊り化されたものと考えられている。これが真の理由であるならば、なぜ南九州に多いのだろう。棒踊りは日本全国に伝承されているはずである。戦国時代の戦場は南九州や鹿児島だけではなかったからである。そこで人吉球磨地方の棒踊りが、どこで、どのような地域的背景から伝承されてきたのか推考してみる。

 棒踊りが伝承されている地域と数をまとめたものが図4である。この結果は、公表されている各地域の伝承芸能データーベースや無形文化財リストを基に筆者が集計し、作図したものである。

棒踊り分布 伝承数
図3. 九州における棒踊り分布 図4. 沖縄・九州地方伝承の棒踊り数

 図3において、真っ黒く塗りつぶした部分が10か所以上の伝承集落のある市町村、中程度色の域が5か所以上10か所以下、もっとも薄く塗ってある部分が1か所から4か所の集落のある市町村であることを示す。この図には、鹿児島県の奄美大島や屋久島および種子島は図中にはないが、奄美大島では2か所、屋久島では1か所、種子島では16箇所で伝承されている。沖縄・九州での伝承棒踊りを数値で示したものが図4である。図中には鹿児島、熊本、宮崎県の主な伝承地域数を書き込んであるが、熊本県では球磨郡で最も多く伝承されている。ちなみに、人吉市は2か所であった。

 棒踊りの起源は、圧制に苦しむ庶民の自衛手段を踊りという形にしたとか、朝鮮出兵における薩摩軍の士気鼓舞をはかるために始まったとか、諸説がある。しかし、熊本県葦北郡の津奈木町や宮崎県西臼杵郡日之影町には、侍に虫けらのように殺された親の敵討(かたきうち)をするために娘が習い始めた武術が踊りとなったとの言い伝えがある。棒踊りは薩摩および旧薩摩領に多い。旧薩摩領というのは現在の地域名だと、宮崎県のえびの市、小林市、都城市、西諸県郡、北諸県郡など宮崎県の西部地方である。

 棒踊りの起源発祥の地が薩摩なのは、薩摩藩の「郷中教育(ごじゅうきょういく)」に下地があったと筆者は考える。筑波大学の酒井 利信教授らの研究(武道学研究、42-2009)によると、郷中教育とは薩摩藩独特な青少年教育法であり、地域ごとに自発的に実践された集団教育のことである。この教育の最大の特色は、居住地を碁盤の目のように小さく区分し、先輩が後輩を指導し、お互いに助け合い、学びつつ教え、教えつつ学ぶといういわば教師なき教育法であった。

 ここでは学問のほか、体力づくりが中心で武術・剣術は特に厳しく指導し、稚児のうちから稽古を行った。現在でもそのカリキュラムが残されているが、多くは今に残る武術の一種である「棒術」や「棒の手」の稽古である。これらが社会的に無理なく伝承されていくためには「棒踊り」のような踊りにすることが最適だったと思われる。ところで、旧薩摩藩領でもなかった球磨地方にどうして沢山の薩摩棒踊りが伝わったのだろうか。球磨地方に伝わる棒踊りの起源は、雨乞いや豊穣祈願などとされているが、根本はあさぎり町須恵上手地区で伝承されている「上手石坂棒踊り」のように、村や集落を守るために身近な棒を使った「棒術」が踊りとなったものであろう。その伝搬ルートは、種子島や水俣、高千穂の棒踊りは薩摩地方からの移住者や出稼ぎ者によって始められたと言われているように、球磨の棒踊りも肥薩間の人の移動が頻繁であったことを示している。


↑ 戻る 

談義9-2へ | 目次-2 | 談義9-4へ