深田 上 免田 岡原 須恵

ヨケマン談義9. 人吉球磨地方の伝承文化

9-1. 臼太鼓(うすだいこ)踊り

 先にも述べたが、平成15年(2015年)4月、人吉球磨地方(10市町村)が日本遺産に認定された。その申請時のタイトルは、「相良700年が生んだ保守と進取の文化~日本でもっとも豊かな隠れ里-人吉球磨~」である、この「日本でもっとも豊かな隠れ里」という文言は、司馬 遼太郎さんが紀行集「街道をゆく3」「肥薩のみち」の中で述べておられるフレーズであることもすでに紹介した。この地方が世間から隔絶された山里であったがゆえに、先に述べた庚申信仰や相良観音信仰、それに隠れキリシタンや隠れ念仏の里にもなった。また、球磨拳や禁止されたはずのウンスンカルタなど昔の遊びが人吉球磨地方に伝承されているのも、遠隔の隠れ里であったため、時の権力者の伝達や取り締まりが徹底しなかった、とも言えるのである。

 今回から、相良700年の不易の里に伝承されてきた芸能や習俗を紹介し、その特色や伝承経緯を探ってみる。今回は、どこの地域よりも数多く根付き、伝承されてきた臼太鼓踊りについてである。そもそも臼太鼓とは、どんな太鼓なのかということから述べよう。「臼太鼓」という名の太鼓の種類はない。前に抱くようにして叩く太鼓が臼を横にしたようになっていることから臼太鼓と呼ばれる。しかし、沖縄の国頭郡恩納村では昔、木の臼を太鼓代わりに叩いたので、漢字では臼太鼓としたと伝えられる。

 鼓は大別して、胴太鼓と附締太鼓(つけしめだいこ)がある。胴太鼓はケヤキなどの丸太をくりぬき端面に皮を張ったものである。胴太鼓には、胴の長い長胴太鼓(ながどうだいこ)と胴の短い平胴太鼓がある。締め太鼓は、太鼓の皮を紐などで締めたもので、紐の締め加減で音を調節できる。桶胴太鼓(おけどうだいこ)は、胴太鼓と締め太鼓の特徴を生かした大型のもので、鉄の輪に皮を張り桶でできた胴にあてて紐でチューニングして使う。臼太鼓踊りという場合は、締め太鼓を使うのが一般的であり、大型の桶胴太鼓はほとんど使われない。

椎葉村 沖縄エイサー
図1. 椎葉村の臼太鼓 図2. 沖縄エイサー用締め太鼓

 図1は、典型的な締め太鼓の例で、宮崎県東臼杵郡椎葉村の民族芸能博物館に展示してあるものである。地方によっては薄型の臼太鼓が用いられている。図2は薄型の締め太鼓の例で、沖縄の伝統芸能、エイサーで用いられる直径30センチ位の締め太鼓である。

 「臼太鼓踊り」は先祖の霊を供養する念仏踊りが、華やかな衣装を付けた風流へと発展したもので、鹿児島県や宮崎県、それに熊本県の人吉球磨地方のいわば南九州一帯で踊られている。この「臼太鼓踊り」は鹿児島県や宮崎県側と人吉球磨地方とでは違いがある。大きな違いは「背負いもの」と「兜」を着用するか否かである。「背負いもの」というのは、背に負う飾り付きの槍や幟(のぼり)のことである。これは戦国時代の武将が戦場において、自分の背中や馬に取り付けて己の存在を誇示した長柄の先に付けた旗などに似ている。

 人吉球磨地方では立物(たてもの)という鍬形や獣の角の飾りのついた戦陣用の兜を着けるが、鹿児島や宮崎地方では、兜はなく「背負いもの」をつけて踊るのが原則である。違いの分かる典型的な例を図3に示す。図3の左は兜着用の人吉球磨地方の臼太鼓踊りの例で、水上村上楠(うわくす)の臼太鼓踊りであり、図4は、兜はなく「背負いもの」をつけた臼太鼓踊りの例で、西都市の下水流(しもずる)臼太鼓踊りの例である。「立物」と「背負いもの」の違い、同じ踊りでも所変わればこうも変わる例である。

水上村 西都
図3. 水上村上楠の臼太鼓踊り 図4. 西都市の下水流臼太鼓踊り

 臼太鼓踊りの起源については、地方によってまちまちである。たとえば、この西都市の下水流臼太鼓踊りは、秀吉の時代、朝鮮半島を舞台に行われた文禄・慶長の役(1592年~1593年)の際の加藤清正の戦術にあるとか、人吉球磨地方の臼太鼓踊りは江戸時代に武道奨励や士気鼓舞のため踊られ始めたとか、さらに、延岡市の行縢臼太鼓踊りは1578年、豊後の大友 宗麟が日向に攻め入ったとき、島津軍の大将が自軍の士気を鼓舞するために始めたとか、である。いったい臼太鼓踊りはいつ頃、どこで始まって伝来したものなのか、熊襲踊りに使う「バラ」という太鼓は臼太鼓の原型なのか、南九州に伝わる「バラ」踊りとの関連など、次に、臼太鼓踊りルーツを探ってみよう。

 臼太鼓踊りのルーツ探しにおいて避けて通れないのが南九州地方の「熊襲踊り」や「バラ太鼓踊り」、それに沖縄の「エイサー」や「ウスデーク」(臼太鼓踊り)である。どんな踊りかというと、まず、熊襲踊りは図5のように、背にしめ縄を背負い、胸から腹にバラ太鼓を抱え、鉦やバラを打ちながら「高い丘居から熊襲じゃないか鬼か鬼人か化け物か」などと唄って、走り、転げながら踊るものである。起源は熊襲征伐の祝い踊りとされているが、勇敢な熊襲先祖の鎮魂踊りであると筆者は思う。バラ太鼓の「バラ」とは、バラ竹と称する竹で編んだ丸い笊(ざる)や箕(み)のようなものである。鹿児島県姶良市蒲生町の「漆バラ踊り」は、編んで作った竹バラに和紙を貼ったバラ太鼓が用いられる。皮をはった太鼓ができる前の初期の太鼓はこんなものだったのかも知れない。

熊襲踊り 大バラ太鼓踊り
図5. 熊襲踊り(都城市庄内) 図6. 大バラ太鼓踊り(日置市伊集院)

 図6は、鹿児島県日置市伊集院の大バラ太鼓踊りである。太鼓は、直径1。5mの大太鼓を使用している。このようなバラ太鼓を利用した太鼓踊りは、先の鹿児島県日置市伊集院町の「徳重大バラ太鼓踊り」、また先の宮崎県都城市庄内の「熊襲踊り」、都城市山田町中霧島の「山内-バラ踊り」、東諸県郡国富町諏訪神社の「バラ太鼓踊り」など、3世紀頃の熊襲や7世紀頃までの隼人族の地とされるこの南九州で伝承されている。これらの事を考え合わせると、臼太鼓のルーツはこのあたりかも知れない。しかし、もっと南からの可能性も高い。

締め太鼓 大太鼓
図7. 締め太鼓のエイサー 図8. 大太鼓踊り

 沖縄や奄美諸島では図7・8に示すような、躍動的でリズミカルな「エイサー」が踊られ、沖縄本島北部では「臼太鼓:ウシデーク」が盛んに踊られている。これらの踊りは「念仏踊り」の影響を受けて進化発展してきたとされている。「念仏踊り」のルーツといえば、香川県綾歌郡綾川町滝宮に伝わる雨乞いの踊りであるが、時期的には9世紀であり、九州や沖縄の臼太鼓踊りには結びつかないように思う。臼太鼓踊りの起源はいつ頃か、というのははっきりしないが、どこから伝わってきたかは次の図9図10からおのずと推察できる。

分布図-1 分布図-2
図9. 九州南部の臼太鼓踊り分布> 図10. 沖縄本島北部の臼太鼓の分布

 図9は九州南部における臼太鼓踊りの分布であり、人吉球磨盆地は密である。図にはないが奄美大島には「ほうらしゃ六調太鼓」という踊りがある。図10は沖縄本島北部の「臼太鼓」の分布で、音楽学の小林 公江氏の「沖縄本島北部の臼太鼓」をもとに筆者が作図したものである。やはり「臼太鼓踊り」は南からやってきていたようである。このような踊りだけでなく、後述する「牛深ハイヤ節」や「球磨の六調子」なども、これら南方の地を経由して球磨地方に伝わってきたと考えられる。

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