深田 上 免田 岡原 須恵

ヨケマン談義8.人吉球磨地方の隠れ信仰と祈り

8-8.人吉球磨地方の庚申信仰

1.庚申塔

 筆者の郷里(熊本県球磨郡あさぎり町岡原北)の実家の近くには、図1左のような石碑が立っている。何の石碑か分からないまま、石碑の傘の上に石ころを投げ上げる遊びをしたことや、この石碑の前に豆腐屋さんがあり、「かないさんに行って豆腐買ってきてくれ」なんて言われた記憶があるくらいであった。しかし、近年になって、人吉球磨地方などでは、「庚申(かのえさる)」のことを「かないさん」親しみをこめて呼ぶこと、そして、この石碑は庚申塔(こうしんとう)とか庚申塚(こうしんづか)ともいうものであること、さらに、この石碑は、道教に基づく庚申信仰がこの地にも根付いていた証であることを知った。
これまで気にも留めずいたこの石碑が、実は、今から300年位前の人吉球磨地方のあちこちに建立され、一番古いものは球磨郡錦町迫の庚申塔(図1中)であり、あさぎり町須恵地区にある平等寺の庚申塔(図1右)はこれについで古いものであることが分かった。

岡原 錦 須恵
庚申塔(岡原北) 庚申塔(錦町迫) 庚申塔(須恵平等寺)
図1.球磨郡の庚申塔

 それでは、人吉・球磨地方ではどうであったのか、興味ある事実を原田先生は紹介されている。人吉・球磨地方で、明らかに隠れキリシタンの目じるし(指標)のある寺院僧侶の墓は36基あるとのことである。その指標とは、先にも述べたように、戒名に「天」「空」「心」などがあり、蓮華紋があり、卍があり、〇印が 刻んであり、形は五角形である。全てを満たしているわけではないが、指標の三つは墓石の中で確認できる。このように仏教寺院側にもキリスト教信仰が広がっていれば、当然のことながら改宗した仏教徒もいたはずである。しかし、あくまでも禁教令下での信仰であった。それを物語る石像が幾つかある。
あさぎり町岡原の宮原観音墓地には卍や蓮華紋の墓がいくつもあり、湯前町下里に建立されている庚申塔には、なんと蓮華紋が刻まれている。庚申塔は、以前にも述べたように、道教に基づく信仰であり、国東半島や球磨地方に最も多く存在するので、隠れ蓑としては絶好のものだったと考えられる。九州におけるこの庚申塔の数は国東半島に最も多くて約780基、次いで多いのが人吉球磨地方で、約600基とされている。この数は庚申信仰の強さや広がりを示している。錦町迫の庚申塔は天文3年(1534年)の建立であり、あさぎり町須恵地区平等寺の庚申塔は、天文4年(1535年)の建立である。ちなみに、九州でもっとも数の多い国東半島で最古のものは永禄11年(1568年)のものであり、球磨盆地の庚申信仰は国東半島より30年も早く、鎌倉より130年も早かったことになる。

 大分県の国東半島地域で最古のものは1568年の建立である。元禄時代の1668年から享保年間の1736年までの48年に、実に519基の内の56%が造立されている。
我が国最古のものは、図2に示す、埼玉県川口市領家の日蓮宗実相寺にある庚申板碑。熊本県で最古のものは、図3に示すような、熊本市小沢町西福寺の庚申塔で、明応8年1499年の建立である。人吉球磨地方で最古のものは前掲の錦町迫の庚申塔で、1534年の建立である。

庚申板 庚申塔
図2.国内最古の庚申板碑(1471) 図3.熊本西福寺の庚申塔(1499)

 古来より人吉球磨盆地に近く、交流のあった鹿児島県伊佐市や出水市の庚申塔の建立年を調べてみると興味ある事実が分かった。

比較
図4.人吉球磨地方と伊佐・出水地方庚申塔の建立年比較

 図4は鹿児島県伊佐市や出水市に存在する庚申塔30基の建立年と人吉球磨地方の庚申塔32基の建立年を調べた結果である。図から明らかなように、人吉球磨地方の庚申塔の建立年は伊佐や出水地方より古く、約66年の差がある。しかし別途の調査結果によると、伊佐市や出水市より少し離れた姶良市蒲生町漆の庚申塔は大永3年(1523年)、薩摩郡さつま町虎居の庚申塔は享禄4年(1531年)、薩摩郡さつま町(旧鶴田町)の庚申塔は天文3年(1534年)の建立であり、いずれも鹿児島県内では最古級に属する。
ちなみに、球磨郡錦町迫の庚申塔は天文3年(1534年)であり、薩摩郡さつま町の庚申塔と同じ年である。薩摩郡のさつま町は伊佐市に近く、人吉球磨盆地に近い。つまり、姶良地区で最初の庚申塔が建立され、さつま町虎居方面へ北上し、さらに伊佐市に近い鶴田地区から人吉街道を経て錦町迫地区に伝わったと考えられる。このルートは、拙著「縄文人は肥薩線に乗って」で明らかにした旧石器時代人や縄文人の移住ルートに近いのであり、時代は変わっても人や情報の流れは変わらないということである。隣接地域である八代市にはこのような古い庚申塔はなく、数も人吉球磨地方とは比較にならないくらい少ない。

2. 庚申信仰とは

 このように、身近に民衆の中に浸透していった庚申信仰であるが、まず、「庚申」とは何かというと、これは干支(かんしえと)の一つであり、十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)を組み合わせた60を周期とする数詞のことである。甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)・丁(てい)・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛(しん)・壬(じ)・癸(き)が十干である。十二支は周知のように、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥である。

 この十干と十二支を組み合わせたのが「干支」であり、10と12の組み合わせであるから60通りある。十干の一つである「庚」と十二支の一つである「申」が組み合わさったものが「庚申」であり、60年に1回「庚申」の年がくる。日数にすると60日に一回である。
この年の夜、ないしはこの日の夜に人の体内のムシが、その人の罪を天帝(天上の最高神)に告げるために体から抜け出す。告げられた天帝は罪深き者を早死にさせるという。このムシのことを「三尸:さんし」という。この「三尸」を封じ込めるために、庚申の夜は身を慎み、夜通し仲間と集まり酒盛りや話をして過ごす。これが「庚申講:こうしんこう」や「庚申待ち」である。この行事を3年続けた記念に集落で建立したのが写真のような「庚申塔」とか「庚申塚」である。後でのべる青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)を祀る御堂が庚申堂であり、やはり集落の中心の道筋に建っている。

三尸
図5.三尸(さんし)右から上尸、中尸、下尸    出典:ウイキペデア

 ところで、「三尸:さんし」というムシは人間の体内に棲み、宿っている人体が死ぬと自由に動き回るようになるという。このムシはどんなムシなのだろうか。
図5は中国唐代の書『太上除三尸九虫保生経』にある三尸の絵図である。三尸は上尸・中尸・下尸の三種類あり、上尸(じょうし)は道士の姿をしており人の頭の中に棲む。中尸(ちゅうし)は獣の姿をしており、人間の腹の中にいる。下尸(げし)は牛の頭に人の足の形をしている。大きさはどれも約3センチで、人間が生れ落ちるときから体内にいるとされる偶像物である。

 では、人吉・球磨地方に広まり信仰されたこの庚申信仰とはいかなる信仰なのであろうか。庚申信仰は道教に基づくものであるが、その道教とはどんな教えかということから述べよう。
道教は漢民族の土着的・伝統的な宗教であり、儒教・仏教と合わせて中国三大宗教と言われるものである。わが国には、少なくとも平安・奈良時代に伝来したと考えられ、江戸時代の1700~1800年代にはこのような庚申塔や庚申堂および、後ほど述べる青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)が盛んに建立された。

 今でこそ庚申信仰に関わる催事はないが、道教に基づく習俗は現代でも継続している。たとえば、安倍清明(あべのせいめい)の陰陽五行思想。この陰陽五行説に由来する八卦(はっけ)や易(えき)、五月端午の節句や桃の節句、ひな祭り、七夕、節句料理(おせち、七草粥)、鯉のぼり、盆の行事やお中元。針や鍼灸や漢方薬などの東洋医学、さらに、健康療法として知られる「氣功」や「太極拳」もそうであり、日光東照宮の「不見・不聞・不言」の三猿像も道教に関わりがある。仏教における信仰対象の1つである青面金剛明王(しょうめんこんごうみょうおう)、など列挙したら切りがない。この青面金剛明王はインド由来の仏教尊像ではなく中国伝来の道教思想に由来し、庚申信仰の中で独自に発展した尊像である。この明王さまは、庚申信仰行事において、どんな役目をなされるのかは後述するが、球磨郡山江村の西川内(にしごうち)には、庚申橋(かないさんばし)と名付けられた橋もあって、庚申信仰の名残は今も身近に球磨地方にはある。

 この庚申信仰は人吉球磨地方に一体どこから伝わってきたものだろうか。現存する最古の庚申塔は、埼玉県川口市領家の日蓮宗実相寺にあり、文明3年(1471年)建立である。また、この近くの埼玉県戸田市の平等寺には1490年建立の庚申塔があり、東京都練馬区には1488年、千葉県成田市小野には1492年建立のように、関東にはわが国最古級の庚申塔が存在する。これらの事実や図4の結果から、庚申信仰の伝来は、どうやら南九州方面からではなく関東地方からではなかったかと考えられる。

3.青面金剛

 庚申信仰において欠かせないのが青面金剛(しょうめんこんごう)であり、それを祀るのが庚申堂である。青面金剛は、日本仏教における信仰対象の1つであり、青面金剛明王とも呼ばれている。

金剛像 庚申堂 金剛像-2
図6.最勝院の青面金剛像 図7.あさぎり町岡原の庚申堂青面金剛像

 図6は青森県弘前市の金剛山最勝院の青面金剛立像であり、図7は、あさぎり町岡原に現存する庚申堂と堂内に安置されている青面金剛立像であるが、庚申信仰の由来を知らない子供達の遊び道具となって手がなくなった木彫である。先に述べたように、青面金剛はインド由来の仏教尊像ではなく、中国の道教思想に由来したもので、日本の民間信仰である庚申信仰の中で独自に発展した尊像である。青面金剛明王がなぜ庚申信仰に関係し、庚申講の本尊となっているのかというと、人の体内に棲み、告げ口をするとされる三尸(さんし)というムシを抑(おさ)える尊像とされるからである。「青面:しようめん」とは青色の肌のことで、一説によれば青は釈迦の前世に関係し、諸行無常の象徴色であるためとのことである。

 さて最後に、庚申信仰がなぜこの山あいの人吉球磨盆地で広まったのか、庚申塔が最も多い国東半島地方と何か類似点があるのだろうか。共通性があるとすれば神仏習合文化ではないかと筆者は考える。
神仏習合とは、日本土着の神道と仏教が結びつき一つの信仰体系、宗教現象のことである。国東半島の宇佐神宮は仏教文化と我が国固有の神道を習合したもので、神仏分離以前は宇佐八幡宮弥勒寺と呼ばれていた。青井阿蘇神社も近世までは神仏習合であった。


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