深田 上 免田 岡原 須恵

ヨケマン談義8. 人吉球磨地方の隠れ信仰と祈り

8-7. 一向宗と隠れ念仏

1. 球磨は祈りの隠れ里

 藩主がキリシタンであれば、形だけの禁教令となり、領民のキリシタン信仰も緩やかな取り締まりの中で拡大していったと推察される。しかし、仏教信者や寺院との関係はどのような状態だったのだろうか。隠れキリシタンが装っていた信仰は、仏教の観音信仰や民間信仰の地蔵信仰や子安信仰、神道の天神信仰及び道教の庚申信仰など、様々な隠れ蓑をかぶって信仰を全うしていたことを述べてきた。このことは、次のような事例からも明らかである。たとえば、四国八十八霊場の一つ、53番札所、円明寺には隠れキリシタンのものとされるキリシタン石塔(灯篭)がある。大分県臼杵市の十六天神隣の摩崖像は、まさしく観音菩薩像に似せたマリア像である。また、臼杵市の掻懐(かきだき)という地域には、「庄屋址」の碑が建っており、碑文には、禁教下でのキリシタンの大量発覚が明らかになったおり、庄屋が寺の和尚と相談して領民を救ったことが書かれていて、いまでもこの地区の人達はこのお寺へのお礼を欠かさないとのことである。北鎌倉の光照寺は、江戸時代のキリスト教弾圧が厳しくなる中、隠れキリシタンを受け入れていた寺院である。

 それでは、人吉・球磨地方ではどうであったのか、興味ある事実を原田先生は紹介されている。人吉・球磨地方で、明らかに隠れキリシタンの目じるし(指標)のある寺院僧侶の墓は36基あるとのことである。その指標とは、先にも述べたように、戒名に「天」「空」「心」などがあり、蓮華紋があり、卍があり、〇印が刻んであり、形は五角形である。全てを満たしているわけではないが、指標の三つは墓石の中で確認できる。このように仏教寺院側にもキリスト教信仰が広がっていれば、当然のことながら改宗した仏教徒もいたはずである。しかし、あくまでも禁教令下での信仰であった。それを物語る石像が幾つかある。あさぎり町岡原の宮原観音墓地には卍や蓮華紋の墓がいくつもあり、湯前町下里に建立されている庚申塔には、なんと蓮華紋が刻まれている。庚申塔は、以前にも述べたように、道教に基づく信仰であり、国東半島や球磨地方に最も多く存在するので、隠れ蓑としては絶好のものだったと考えられる。

2. 相良三十三観音は隠れ祈りの場?

 以前に筆者は、相良観音信仰の原点は神仏習合であり、阿蘇氏信仰の土壌の中で広まってきたと書いた。しかし、このように見てくると、この神仏の神は日本神道の神以外に西洋神、キリスト神も含むのではないかと考えることができる。つまり、隠れキリシタンの信仰は日本の神仏信仰を装いながら貫かれてきたことが明らかである。相良観音像はすでに平安時代に造立されたものもあり、古くから信仰されていたものであるが、相良三十三観音巡りは18世紀末の江戸時代、キリシタン弾圧が最も激しくなった頃から盛んになった。都合のいいことに、観音菩薩は相手の違いに応じて三十三種の姿に変えて顕現(けんげん:はっきりと姿 を現すこと)すると説かれている。いわゆる33化身仏であるからマリア観音となり得るのである。参考までに、マリア像とマリア観音像、それに相良三十三観音の一つ、合戦嶺の聖観音菩薩像を並べてみた。それが図1である。

聖母マリア 臼杵 観音菩薩
聖母マリア像 臼杵摩崖仏のマリア観音像 聖観音菩薩>
図1. 聖母マリア像とマリア観音像、山江村合戦嶺の聖観音菩薩像

 相良三十三観音堂には、浄土真宗(以前の一向宗)の本尊「阿弥陀如来」が祀ってあるところがある。十三番 観音寺観音(人吉市南願成寺町)、十八番札所 廻り観音(相良村川辺)、二十一番札所 永峰観音(あさぎり町深田永峰)、二十二番札所 上手観音(須恵村上手)である。

 四国八十八ヶ所霊場巡りの寺院のなかには、やはり「阿弥陀如来」をご本尊として祀っているところがある。第二番札所の極楽寺、第七番札所の十楽寺、第三十番札所の善楽寺、第四七番札所の八坂寺、第五十三番札所の円明寺、第五七番札所の栄福寺、第六十四番札所の前神寺、第六十八番札所の神恵院、第七十八番札所の郷照寺の9寺である。
禁止されていたはずの一向宗(浄土真宗)の最も大切な阿弥陀如来像がどうして真言宗系の寺でもないのに祀られ、ご本尊になっていたことは、これらの観音堂や霊場が一向宗信仰の隠れ念仏寺の役割も果たしていたからである。

瀬原観音 見星寺 円明寺
瀬原観音のマリア観音? 見星寺のマリア観音 円明寺の十字架灯篭
図2. マリア観音とされる石像の例

 図2に示すように、相良三十三観音、十番札所 人吉市の瀬原(せはら)観音にはマリア観音と噂されている石像があり、臼杵市の見星寺(けんしょうじ)という禅寺にはマリア観音像がある。四国八十八ヶ所霊場の第五十三番札所の円明寺(えんみょうじ)には「十字架形の灯篭」があり、合掌するマリア観音とおぼしき像が彫られている。この寺は、一向宗徒の祈り場であり、また隠れキリシタンの祈りの場でもあった。

 一向宗禁教のなかで、もう一つの隠れ信仰、隠れ念仏の形態があった。それは懸仏(かけぼとけ)祈願である。懸け仏とは、図3に示すように、神の依代(よりしろ:神が宿るところ)である鏡の面(鏡面:表)に毛彫や線刻などによって描画されたもの(鏡像)である。

五佛鏡 五佛鏡-2 懸仏
線刻阿弥陀五佛鏡像裏面 表面(鏡面) 金銅釈迦如来懸仏
図3. 懸仏(かけぼとけ)の例
 

 図3は、わが国で最も古いとされている京都国立博物館の線刻阿弥陀五尊鏡像(重文)の懸仏(直径約11センチ)である。左が鏡の裏面、中央が表面で図柄のある鏡面で、阿弥陀如来像が線刻されている。 魔鏡の場合は裏面の図柄を投影して敬うものであったが、懸仏の場合は鏡面に描かれた仏 を直接見て拝むのである。右は、中尊寺の金銅釈迦如来懸仏が彫られた懸仏(約40センチ)で、やはり平安時代の作である。このように、懸仏は小さくて軽いので、懸けておけるだけでなく、持ち運びも可能であり、隠れ信仰には好都合な仏様であった。先ほども述べたように、懸仏は神仏習合、つまり、八百万の神々は、如来や菩薩や明王などの様々に仏が化身したものという考えに基づいているから、ご神体である鏡に仏を描画できるわけである。一向宗禁教において、信仰が発覚しても信者は神頼みができることになるわけである。

 あさぎり町須恵諏訪原(すわのはる)の諏訪神社には6枚の懸仏(銅製)が祀られている。また、同じ須恵地区には本如上人(ほんにょしょうにん)畫像と畫像の箱が残されている。本如上人は江戸後期の浄土真宗の僧で、浄土真宗本願寺派第19世宗主になった人である。このように、人吉球磨地方の人たちは、真宗禁制時代にあっても浄土真宗開祖の阿弥陀如来や高僧の御影を持ち込み、ひそかに信仰していたのである。

3. 一向宗(真宗・浄土真宗)禁止のわけ

 まず、一向宗(いっこうしゅう)の「一向」とは、鎌倉時代の浄土宗の僧であった「一向 俊聖(いっこう しゅんしょう)」が説き始めた仏教宗派の一つである。浄土宗(浄土真宗)というのは、鎌倉時代に法然や親鸞が説いた教えで「南無阿弥陀仏」という念仏をとなえることによって極楽浄土への往生を願う宗派である。現在のわが国における宗派別の僧侶数では、この浄土真宗(本願寺派)が最も多い。

 この一向宗を薩摩の島津家が禁止する処置をとったのは、徳川幕府がキリシタンに対する宗門改めの制度で「宗門改め人別帳」の作成を諸藩に指示した寛文4年(1664年)で、キリシタンと一向宗の禁止を抱き合わせで取り締まったころからとされているが、実際はもう少し早く、慶長2年(1597年)、第17代藩主、島津 義弘によって浄土真宗は禁止されている。相良藩の禁止もこの頃である。薩摩藩の一向宗に対する取り締まりや刑罰は厳しかったようで、浄土真宗本願寺蔵の「薩摩国諸記」という記録によれば、宗門取締り役所の庭に一向宗徒を引きずり出し、割木の上に正座させ、膝の上に五、六十斤(1斤=約600グラム)の石を乗せ、左右より棒で殴打、皮肉は破れ、血は流れ、脚の骨は砕けたとある。また、西本願寺鹿児島別院の境内には「涙石」が置かれている。この石が膝の上に置かれた石かどうか分からないが、石を抱かせて自白を迫ったとき、信者たちの苦しみと悲しみの涙が注がれた石という意味で「涙石」と呼ばれているとのことである。

 相良三十三観音十四番札所の十島観音(相良村柳瀬十島)には、浄土真宗禁制のころ、信徒たちが持っていた仏像、仏具、経典などが近くの神社で燃やされたと伝えられ、球磨郡相良村柳瀬には「仏像教典焼却の跡」の碑がある。さらに、柳瀬十島には「花立」という綺麗な名の地がある。室町幕府の時代、天文23年(1554年)、真宗禁止の頃、信者の家から仏像仏具が徴収・焼却されたが、その炎と煙を球磨川の対岸から、じっと眺めていた老婆が川端に花を供えて拝んだということから『花立』という地名になったとのことである。今も、球磨川右岸の岩崖の中に地蔵が立ち、切り花が備えてある。

柳瀬 柳瀬-2
図4. 十四人淵とその場所(球磨郡相良村柳瀬)

 この柳瀬の地には、もう一つ真宗(一向宗や浄土真宗)禁教による痛ましい門徒の話が伝わっている。川辺川は相良大橋を過ぎると大きく左右に蛇行して流れ、柳瀬あたりで図4に示すように、左に大きく向きを変える(写真の左が上流)。向きを変えるあたりが、通称『大曲りの淵』と呼ばれる淵である。この淵に、江戸時代の貞享4年(1687年)8月1日、細紐で互いの体を結び合った男女14人の死体が浮いた。この人たちは一向宗の隠れ信徒で、禁令を犯したことが役人に知れ、捉えられる前に入水自殺したものである。この淵が十四人淵(じゅうよったりぶち)と呼ばれる所以である。

 相良村の西隣が山江村である。その山江村山田の合戦峰(かしのみね)に伝助やその一族の墓や供養碑がある。この伝助という人は、一向宗の隠れ信仰を手助けした「毛坊主」であった。藩の厳しい一向宗取り締まりに対して、門徒たちは秘密の仏飯講(ぶっぱんこう)と呼ばれた隠れ信仰集団をつくり、その集団(講)の世話役が「毛坊主」と言われた人である。坊主頭ではなく「有髪」だから「毛坊主」らしいのだが、非専業ながら僧侶の手足となっていた人である。相良隠れキリシタンの著者、原田先生の調べによると、人吉球磨地方における隠れキリシタンであった専業僧侶の墓は36基、その半分は非専業僧侶の墓とされていて、隠れ信仰を支えた伝助のような人が沢山いて、禁制下であっても信仰を全うすることができた大きな理由である。

 相良藩や薩摩藩はどうして一向宗を禁止することになったのだろうか。その理由として、
①「阿弥陀如来の前には、全ての生きとし生ける命は等しく尊い」という浄土真宗の教えが、当時の封建体制にはなじまなかった。
②浄土真宗の特異性、たとえば、「肉食妻帯」「有髪僧(うはつそう)」など、仏教戒律に違犯し、それを誇るかの如き所行があったとされている。また、先に述べた「毛坊主」が主導した隠れ信仰集団(仏飯講)は、しばしば、領外の浄土真宗のお寺を通じて本山の本願寺への上納も行っていたようで、領内のこうした金銀流出という事態も藩が憂いた理由の一つである。しかし、最大の要因は、それ以前に発生していた「一向一揆(いっこういっき)」にあったと筆者は考えている。

 一向一揆というのは、戦国時代に浄土真宗本願寺教団の信徒たちが起こした権力に対する抵抗運動、戦いである。最初の一向一揆は文正元年(1466年)、将軍が足利 義政の室町幕府時代に起こった近江の国の金森合戦である。詳述は避けるが金森合戦とは、僧兵を持ち強大な権力を擁していた比叡山の天台宗延暦寺対蓮如上人が率いる浄土真宗門徒の争いである。しかし、一向一揆は、そのあと天正3年(1575年)までの約140年間にわたり、主なものだけでも10回ほど発生して、時の権力者に対する抵抗運動であった。筆者の住む桑名市長島町には、元亀元年(1570年)から天正2年(1574年)にかけて起こった「長島一向一揆」のことが今も伝承されており、一揆の拠点であった「願証寺」も場所は変わったが現存している。

 どうしても解せないのが相良藩の一向宗禁止である。何事にも積極的な大藩の薩摩藩の禁止策は理解できるが、幕府の禁令も早急には到達しなかった山奥の相良藩、キリシタン禁制にも寛容であった相良藩がなぜ一向宗禁止に踏み切ったのかである。一説によると、相良藩は肥後の諸地とは交渉がなく、地理的に南接する薩摩藩と深く関係があったようで、このことは古代からそうであったことを拙著「縄文人は肥薩線に乗って」でも明らかにした。したがって、宗教政策も薩摩藩に従って一向宗禁制を出すに至ったとのことである。しかし、そうだろうか。薩摩の島津本家は何かを恐れていたのではないだろうか。相良藩ではなく、それは豊後国(今の大分県)の大友 宗麟(おおとも そうりん)である。

 大友 宗麟は戦国時代、九州の豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後(北部)の6か国を支配下に収めるなど九州随一の勢力を誇った武将であった。何より有名なのはキリシタン大名だったことである。薩摩の島津家は、キリシタン武士や武将の信仰心に裏付けられた強さを一向一揆の武装集団と結び付け、恐れていたことが一向宗禁止を相良藩にも押しつけた理由であろう。そういう薩摩の戦略が功を奏したのか、天正6年(1578年)の耳川の戦いで大友 宗麟勢力は薩摩国の島津 義久に大敗して一気に没落の道をたどっていった。しかし、薩摩の島津家も、天正15年(1587年)、秀吉の島津攻略にあい秀吉に降伏し、九州が平定されたことは周知の事実である。

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