7-8. 人吉球磨地震の可能性
熊本地震は布田川-日奈久断層帯の活動によって引き起こされた。その布田川断層帯は、熊本県阿蘇郡南阿蘇村から上益城郡益城町(かみましきぐんましきまち)木山付近を経て、宇土半島の先端に至る断層帯である。「布田川」というのは阿蘇郡西原村の沼田から熊本空港の南側を流れ、木山川、加勢川となり、緑川と合流する川である。日奈久断層帯は、上益城郡益城町木山付近から葦北郡芦北町を経て、八代海南部に至る断層帯である。この断層帯の全体長さは81kmで、概ね北東−南西方向に延びている。この日奈久断層帯の八代海区間における地震の規模はM7。3程度、布田川断層帯と連動して発生するならばM8と想定されおり、その発生確率は、30年以内では0%~16%だそうである。
人吉球磨盆地は、こういった布田川-日奈久断層帯線上にはなく幸運であるが懸念がないわけではない。それは図1に示すような人吉盆地南縁断層があるからである。「人吉盆地南縁断層」は大分大学の千田 昇教授が提唱された断層帯である。この南縁断層の他にも、球磨盆地の北縁には錦町や相良村を通る活断層や推定活断層があり、布田川-日奈久断層帯線上にないから、30万年前の加久藤盆地が火口となるような破局的噴火は絶対起きないとは断言できない。
図1. 人吉盆地南縁断層 |
資料: 地震調査研究本部 ・ 国土地理院 |
図2. 九州の地殻移動 |
資料: 地震調査研究本部 ・ 国土地理院 |
図2は、GPSという人工衛星からの電波を受信して、正確な位置を知る技術を利用して作られたもので、熊本地震発生前から1年間の地殻移動である。
小さな矢印➤の長さが5cmである。不思議なことに、人吉球磨地方から鹿児島県では矢印➤の向きが南ないし南東方向であり、大分や北九州地方とは異なっている。四国をはじめ西日本は大部分、地殻の移動は西ないし西北であるから、南九州の地殻変動は異常である。このような実態が人吉盆地南縁断層の存在とあいまって地震発生の予測を困難にしている。
人吉盆地南縁断層は航空写真からもはっきりと分かる。
湯前町あたりから多良木町、あさぎり町、錦町、人吉市の東南部と、球磨盆地の南縁を走る延岡-紫尾山(しびさん)構造線の一部、それが「人吉盆地南縁断層」と称されている断層である。盆地の航空写真を見ると、ほぼ現在の幸野溝や県道、錦-湯前線の県道43号線に沿っているが、湯前町-多良木町の久米-あさぎり町の岡原-上-錦町にかけて盆地山間部と平野部がくっきりと直線状になっていている。数回前に述べた幸野溝は、この断層帯に沿って作られた用水路である。
この直線状の地形を専門用語では「リニアメント」という。リニアメントとは、空中写真で良くわかる地表に認められる直線的な地形のことであり、その成因は侵食、堆積、断層など地下の地質構造の変化によるものである。この地形は、あさぎり町須恵や深田地区および錦町北部など盆地北側のジグザグな地形とは対照的である。この「リニアメント」は宇土付近から水俣あたりまでの八代海に急迫する山地の直線部もそうであり、「日奈久断層」の地形的風景に他ならない。
独立行政法人産業総合研究所(産総研)の活断層研究センターは、2006年初め、この人吉盆地南縁断層帯の活動履歴を解明するための掘削調査を行った。
場所は、人吉盆地南縁断層の西端である球磨郡錦町一武字宮の谷である。このときの公開写真には、約15000年前の扇状地堆積物の上に約7300年前の鬼界火山灰である赤いアカホヤ(イモゴ)が堆積し、それがすべり、右上にせり上がった断層(正断層)が色違いの地層になって見えていて、確かに15000年前には断層が動いたことを示している。この頃の縄文人・球磨んモンは肥薩火山(矢筈岳、鬼山、大関山、鏡山、国見山)の活動による火砕物降下と直下型の活断層地震によるダブルパンチを受けていたはずである。
紫尾山(しびさん)は、現在の鹿児島県出水市とさつま町の中ほどに位置する標高1067mの北薩地域では最高峰の山である。その山と延岡を結ぶ構造線、つまり断層が球磨盆地の南縁を走り、人吉市の大畑(おこば)に達している。南には、このような人吉盆地南縁断層が存在し、五木村や球磨村あたりから大坂間あたりに、つまり人吉球磨盆地の北側には大坂間断層があり、新深田断層、高原-朝ノ迫断層、それに相良村の北にも活断層があると推定されている。このように人吉球磨盆地は幾つかの断層に囲まれているのが実態である。これらの断層の最新活動時期は7千~8千年前とされていて、政府、地震調査研究推進本部によると、人吉盆地南縁断層による将来の地震の発生確率は「やや高い」部類だそうであるが、気になるのは、先に述べた人吉球磨地方から南の地方が大分や九州北部とは異なる方向に、引き裂かれるように地殻が移動している実態である。