7-6. ふるさとの峠道
1. 温迫峠(ぬくさことうげ)
「へエ!白髪岳を超えて行けた?そんな道あったん?」
・・・これは、中学生のころそんなことできるのかと思っていた白髪岳の峠を越えて宮崎県のえびのや小林方面へ山越え探検をした弟との昔話である。
改めて地図で確認してみると確かに道がある。県道43号線のあさぎり町上の榎田地区の白髪岳登山口から山道に入り、千望展望所を過ぎ登って行くと、白髪岳頂上への登山口分岐点に達する。そこから車だと数分の距離に温迫峠(ぬくさことうげ)がある。ここまでは舗装道路であり乗用車でも楽にいけるが、この峠の先は宮崎県となり、未舗装の砂利道である。宮崎県側から登って来たらしいライダーの若者が、先に進めば狗留孫峡(くるそんきょう)に行けると教えてくれた。狗留孫峡は巨大なクルソン岩(メンヒル)と紅葉の名勝地である。
温迫峠を越して谷筋に入るとそこは川内川(せんだいがわ)の源流のはずであり、白髪岳(1417m)や陀来水岳(だらみずだけ1204m)の真西にあたる。川内川はここを源流として延々と流れくだり、やがて東洋のナイアガラと称される「曾木の滝」となり、薩摩川内市を抜け、東シナ海の甑島(こしきしま)列島沖へ注いでいる川である。100万年前まで球磨盆地が湖であったころ、湖水の一部はこの川に流れ込んだとされている。
今回は、幼き日の夢と歴史ロマンを秘めた人吉球磨地方の峠道の話である。峠の順番は、あさぎり町を中心に右回りに盆地と隣接地方を結ぶ峠道を探訪してみることにする。先ずは、前述の温迫峠の写真を図1に示した。「温迫峠展望所」と書いてある看板であるが、文字が読めないほど朽ち果てていた。図2は、峠から樹林の枝葉を押しのけて撮影した江代と市房山の遠望である。
図1. 温迫峠(ぬくさことうげ)の道標 | 図2. 江代・市房山の遠望 |
2. 堀切峠・加久藤峠・久七峠
「堀切峠」と言えば、景勝地の日南海岸を走る377号線の「堀切峠」を思い浮かべる人が多いと思うがそこではない。人吉からえびの市へ抜ける221号線旧道の峠のことである。図3のように、現在では車は通行出来ないほど険悪な道となっている峠道であり、筆者も若いころ、険悪な道路事情下の「堀切峠」を先般他界した兄と越した覚えがある。この峠の300m西を新221号線のトンネルが突き抜けているため、新の加久藤峠は図4に示すループ橋の上である。トンネルを抜け、このループ橋の中ほどでは、図5のような、素晴らしい加久藤盆地や霧島連山の風景を眺めることができる。筆者はここが加久藤峠だと勝手に思っている。
図3. 旧道の「堀切峠」付近 | 図4. 加久藤ループ橋(峠) | 図5. ループ橋からの展望 |
西郷軍も越したであろう「久七峠(きゅうしちとうげ:地元では、くしちとうげ)」は、人吉から延びている267号線旧道にある肥薩道の峠である。司馬遼太郎さんは「街道をゆく3・肥薩のみち」の中で、人吉から肥薩国境を超える薩摩に至る道筋として「加久藤峠」越えではなく、「久七峠」越えで行くことにした旨のことを述べておられる。それは、「久七峠」が歴史の道だからであろう。確かに、221号線旧道の「堀切峠」や「加久藤峠」は肥後(人吉)と日向(えびの市)の国境であるが、旧薩摩藩時代のえびの地方は薩摩領地であり肥薩みちではなかった。
図6. 久七峠の石標 | 図7. 久七峠の説明版(前方が大口市) | 図8. 県境の石標 |
人吉から「久七峠」に至るには、219号線、人吉市西間上町の交差点から人吉街道と称される267号線を胸川に沿って南下すると西大塚トンネルに至る。トンネルの直ぐ手前を左折する道が旧道の人吉街道(267号線)である。道は、西へ大きく迂回し南下するが、やがて「久七峠」にさしかかると道路脇に図6のような「久七峠」と書いた石標が建っている。多くの場合、峠は国境であり県境になっているが、この「久七峠」は熊本県と鹿児島県の県境ではない。なぜなのか、県境近くの道路脇に建っている説明版図7に次のような説明がある。
「ここから600mの分水嶺に久七峠がある。昔は、肥後と薩摩の国境は稜線だったが、現在の県境はこの地である。昔、大口の町に久七爺さんという知恵者がいて峠の境界石を少しづつ移動させたからという言い伝えがある・・・」
熊本県と鹿児島県の現在の県境は確かに峠ではなく、熊本県側に図8のような、三面鏡みたいな県境石標が建っている。この豪華さには司馬遼太郎さんもびっくり、おそらく日本一とうならせた。この境界標は久七峠の石標から人吉側へ約600mの所に建っている。久七爺様の所業の真偽のほどは分からないが、前述したように、旧薩摩領地はかって、えびの、小林、都城市あたりまで含まれていた。先ほどの「堀切峠」も熊本と宮崎県の県境ではなく、やはり人吉側の坂道にある。これらを考え合わせると、薩摩愛国者の久七爺さんの話も薩摩藩の覇権拡張時代にふさわしい逸話かも知れない。しかし、忘れてならないのは、これら「堀切峠」、「加久藤峠」、「久七峠」などは、30万年前の破局的噴火によって形成された加久藤火山の外輪山の一部であり、その後の火砕流の砂防堰堤となったことである。