6-10. 球磨んモンは天草からの開拓民
先に、百太郎や幸野溝が灌漑用水として機能するようになったことによって人吉球磨地方が天草からの移民の移住地として選ばれたと書いた。今回は少し詳しく、天草から人吉球磨地方への集団移住について触れてみようと思う。
この移住政策は、明治新政府の発案というより、白川県の殖産興業や地租税増収政策が根底になっている。この白川県というのは、廃藩置県実施当初の明治4年(1871年)、肥後国は熊本県と八代県であったが、その後に白川県と改められ、 明治6年(1873年)、白川県と八代県が合併して白川県となった。そして明治9年(1876年)、再び改名されて現在の熊本県となった。今でこそ地租税は地方税を経て固定資産税という形の地方税になっているが、明治の初年頃(4~6年)は国税であり、地方に対して強い税収増策の実施が要請されていた。それに応える形で、白川県でもこの天草島民の人吉球磨地方移住計画が捻出されたわけである。
どんな仕組みかというと、白川県が天草在住の名望家(めいぼうけ)に出資を呼び掛ける。この名望家というのは、当時の地域社会において名声や人望を兼ね備えた家のことで、旧家とか、名士とか言われ、財産家・分限者のことである。五木の子守歌の歌詞でいうと、
♪ おどま かんじん かんじん あんひとたちゃ よか衆 よか衆 よか帯 よかきもん ♪
この「よか衆」のことである。出資は投資でもあり、たとえば、1,500円集まると、半分は牛深で商社設立の経費にあて、残りは人吉球磨地方の農地や原野を購入する資金にあてるのである。
人吉球磨地方での開墾地が購入できた時点で天草在住者から移住希望者を募り、人吉球磨へ送り込むというわけである。つまり移住者は、名望家である「不在地主」の「小作人」となるのである。こうした仕組みによって農産物の生産量が増せば政府の税収も増えることになる。
慶応義塾大学の柳田 利夫先生の「明治初年における天草郡の名望家と地域:天草郡の人の人吉移住を通じて」(史学、Vol.67、No3/4、1998)という研究によると、移住者には一戸あたり35円の移住助成金が出たそうである。白川県としても、この施策を国にも認めてもらう必要があった。先ほどの柳田先生の報告書の中に次のような面白い記事が載っている。
<移民之儀ニ付伺>
「當縣下天草郡ハ土地狭隘ニシテ人民衆多ニ付、山野尺寸之地モ無開墾致、・・・又球磨郡ハ土地廣坦ニシテ人民至少ニ付未開墾地並ニ天然生之茶山許多ニ有之得共、・・・」
<移民伺い>の内容は、「天草郡は土地が狭いのに人口は多く開墾するような山野もない、、、それに比べ、球磨郡には広くて平らな土地があり、人口も少なく、まだ開墾されていない土地がある、また、天然のお茶の木も沢山ある、、、」
これは、明治8年(1875年)6月、当時の白川県の権令(今の県知事に相当)が内務卿の大久保 利通宛に出した移民伺い書(原本は縦書きであるが横書きに直した)である。このときに、「天草郡球磨郡比較表」も添えて提出したそうである。それが表1である。これも縦書きであるが、横書きに筆者が書き直した。表中に米の生産量単位が「石高(石)」となっているが、「石(こく)」とは、 1石=10斗=100升=1000合、メートル法では1石=約150kgである。
表1. 天草郡と球磨郡の石高と人口比較 |
まず、この伺い書に対して、大久保利通はその年の7月には認可の返書を送っており、政府容認の移住政策となった。
ところで、球磨郡よりも天草郡の人口がどれくらい多いかは天草郡と球磨郡を数字で比較した表1から理解できる。
現在の天草は、諸島も含めた面積は約1000平方キロメートル、人吉球磨盆地の総面積は約1536平方キロメートルであるから、約1。5倍の広さでありながら、明治7年(1874年)の球磨郡の人口は、天草郡の約1/3以下である。米の生産量も、明治8年では半分である。天草は狭い土地に人口過剰状態だったことが分かるし、人吉球磨盆地がいかに開拓開墾の地として希望に満ちていたかが分かる。
「求麻郷土研究会」の尾形 保之氏が「郷土」誌で報告された「天草郡民百戸球磨移住の記録」は、明治8年~9年において、天草の小宮地村(新和町などを経て現在は天草市)などから現在のあさぎり町岡原北地区に移住してきた世帯主70人の名前が添付されている。天草の小宮地村は、再三の町村合併によって現在は天草市新和町となっているが、球磨郡への移住者は、当時の町村名でいうと、御所浦村、櫨宇土村、大多尾村、宮地岳村、牛深村、宮地村、新合村、中田村、碇石村、久留村など、天草本島の八代海沿岸部村々の住人である。たぶん、八代海をわたり、現在の葦北町の野坂の浦に上陸し、佐敷川や現在の27号線ルートを陸路として人吉球磨盆地へたどり着いたのだろう。
これらの地区から、人吉球磨地方への農民移住者は100戸、500人を超えていたようで、筆者の「杉下」姓もあり、友人の「久保田」姓も、「小辻」姓も、「森」姓もあった。岡原や球磨住人の先祖は天草からの人が多いと言っていた祖父や兄の言葉を思い出した。明治のはじめ、球磨郡は天草の植民地であった。
■ 本稿への感想、質問などは、杉下先生へのメールでお願いします。