深田 上 免田 岡原 須恵

ヨケマン談義3.縄文時代の人吉球磨地方は九州のまほろば

 100万年前までは湖だったが、今から約1万年前の縄文時代、人吉球磨地方は九州のまほろばであった。「まほろば」とは、最も住みよい地、素晴らしいところ、という意味である。住みよい地であったかどうかは、他の地域と比べて当時の人口が多かったかことで分かる。

 人口の比較ではないが、図1は九州の縄文時代における遺跡数で、70ヶ所以上の地方だけを示してある。一番多いのは唐津・伊万里地方であり、二番目が人吉球磨地方である。唐津・伊万里地方は陸と海の相接する海岸地方であり、大陸からの渡来人が上陸した地域であれば古代遺跡が多いことは当然である。しかし、人吉球磨地方は、秘境に近い山間地域である。なぜ、この地域に人が集まり、住み着き、多くの遺跡が残っているのだろうか。

遺跡数
図1.九州の縄文時代遺跡数(70ヶ所以上) (原典:奈良文化財研究所)

 縄文人は狩猟採集民族であったことを念頭におくと、唐津・伊万里地方は、北東アジア方面からの移住者にとって漁労や貝類の採集に適した地であった。一方、南方からの移住者にとって、人吉球磨地方は、狩猟や果実の採集に適した地であったと考えられる。それは、九州の山林分布が八代・人吉球磨地方以南の南九州に集中しているからである。人吉球磨地方は南北二つの白髪岳と、これまた南北二つの国見山に囲まれ、森林面積は熊本県でナンバーワンである。

 山林や山野にはドングリなどの木の実が豊かに実り、イノシシやニホンシカが生息していた。縄文人の主たる狩猟・採集対象がこれらであったことが肥薩地方の縄文遺跡から出てきた骨や種子から明らかになっている。 平成27年度の野生鳥獣による都道府県別農作物被害状況(農林水産省)によると、 イノシシによる熊本県の被害額は九州各県のトップであり、約1万年を経た現在でも、イノシシは球磨の山野で幅を利かせている。

人吉球磨
図2.人吉球磨地方の縄文遺跡数 原典:奈良文化財研究所)

 それでは、人吉・球磨地方では、どこが一番住みやすい土地だったのだろうか、過去の人々の生活の痕跡、同地方の遺跡分布が図2である。図から明らかなことは、縄文時代、現在の人吉地区は盆地内で最も豊かであり、沢山人が住んでいたまほろばであったことが分かる。しかし、現在の人吉市は、熊本県では天草地方に次いで空き家率の高い地域になってしまっている。

  幾年ふるさと 来て見れば 咲く花 鳴く鳥 そよぐ風
  門辺の小川の ささやきも   なれにし昔に 変らねど
  荒れたる 我家に 住む人 たえてなく  

 これは、人吉出身の犬童球渓が明治40年頃に作詞した「故郷の廃家」の冒頭である。「住む人 たえてなく」なって廃屋が増えていることは全国地方市町村の今の実態であるが、九州の過疎化は、今から約2千年前の弥生時代に始まっている。

 弥生時代は、先住民の縄文人に加わって、環太平洋からの新たな渡来人が移住してきた時代であり、縄文人の狩猟採集と異なり、農耕定住社会を形成した民族である。図3は、その弥生時代の九州における遺跡で、30か所以上有る地域だけ抽出したものである。図から明らかなように、弥生時代の人吉球磨地方の遺跡数は、縄文時代に比べて激減して、住みよい地ではなくなっている。前述のように、弥生人は弥生時代、北東アジア系や東南アジア系の人達が海を渡って日本列島に来た。その人たちの新天地の定住先として人吉球磨地方を選ばなかった。その訳は何であろうか。大きな理由は二つである。

弥生時代
図3.九州における弥生時代遺跡(30か所以上) (原典:奈良文化財研究所)

 先ほど弥生時代第には、先住民族の縄文人と共存する形で西南方面の大陸から弥生人が渡来してきたと書いた。先住の縄文人の子孫が弥生人となっておれば、人口減少は生じない。しかし、破局的自然災害によって、そのようにならなかった。それは今から7300年ほど前の縄文時代、人吉球磨地方から170kmも離れた鹿児島県大隅半島沖の鬼界(きかい)カルデラ、火口が20kmもある火山噴火による火砕流や降灰による災害である。この時の火山灰は「アカホヤ」、球磨地方では「イモゴ」と言い、赤いさらさらした土である。今でも白髪岳や黒原山には50センチほどの層がある。

 人吉球磨地方に人類が住むようになったのは、縄文時代よりさらに古い時代、旧石器時代後期、今から約3万年前とされている。ところが、その2千年後の2万8千年頃、鹿児島湾を火口とする姶良(あいら)カルデラ火山の噴火があった。その時の火山灰が白色の「シラス」である。今でも球磨川右岸や須恵地区、錦町から人吉にかけて数メートルのシラス台地ないしは崖として残っている。この時代の住人は僅かであったが、やはりシラス火山灰に埋もれて全滅した。約7300年前の縄文人が全滅した証がある。

 湯前町の潮山遺跡、人吉市の白鳥遺跡、山江村の狸谷遺跡及び球磨村の久保遺跡などから、イモゴ層の直下から土器が出てきている。このことは、縄文人が60センチにもなる火山灰(イモゴ)に埋もれ、全滅したことを示している。図4に、その一例、山江村の狸谷(たぬきだに)遺跡の層位を示す。「層位」と言うのは、考古遺物を含む土層の上下関係のことで、新しい地層はより古い地層の上に重なり、上層のほど年代は新しく、下層のほど古い年代を示す。図において、約7300年前の鬼界カルデラ噴火による火山灰アカホヤ(イモゴ)層の中に、当時の縄文人が使っていた土器が埋まっている。この時代、山江地区で狩猟生活をしていた縄文人が火山灰に埋もれてしまったことを示している。

 また、この遺跡の層位から、旧石器時代人も姶良カルデラ噴火による火山灰、シラスに埋もれて壊滅していることが分かる。火山灰は、山江地区だけに降灰したわけではないから、人吉球磨地方、いや、九州全土の古代人は全滅したであろう。

狸谷遺跡
図4.狸谷遺跡(山江村)の層位 -1)

 弥生時代の人吉球磨地方が過疎地になってしまった二つ目の理由、それは、この地方の航空写真からも読み取れる。図5は、人吉球磨地方を空から撮った写真である。九大の教授だった宮地六美先生の人吉盆地の火砕流堆積物、図5によると、盆地平野部で黒っぽく見えるところが黒ボク地帯、白く見える部分が沖積低地である。沖積層は約2万年頃から、川の氾濫や土石流によって逐次形成された堆積地層である。図6の方がより明確であるが、あさぎり町や錦町あたりでは、球磨川の氾濫地域が現在の川幅の数十倍にもなっている箇所がある。球磨川だけではなく、盆地南縁から球磨川に注ぐ河川、たとえば免田川の氾濫低地も広範囲にわたっていたことが分かる。どうやら縄文時代から、球磨川と盆地南縁からの河川は暴れ川であり、氾濫を繰り返しており、農耕定住など不可能だったことが分かる。

盆地
図5.人吉球磨盆地の航空写真
地質
図6.人吉球磨盆地の地質 -2)

 書き忘れたが、人吉球磨地方の縄文時代や弥生時代の遺跡は、標高が200m前後の高台にある。これは、河川の氾濫災害から免れるための古代人の経験的知恵であった。ちなみに、人吉駅付近の標高は100m前後、人吉-水上を結ぶ広域農道フルーティーロードの標高はほぼ180m、錦町―湯前線の県道43号線は約200mの標高を走っている。


<本節の参考資料>
  1)図4:狸谷遺跡の層位(山江村)(原典:熊本県文化財調査報告集、第90集、狸谷遺跡
    熊本県教育委員会 1987,3)
  2)図6:人吉球磨盆地の地質(原典:宮地六美:人吉盆地の火砕流堆積物、九大地学研究
    報告20(1957), 9-17)


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