深田 上 免田 岡原 須恵

ヨケマン談義2. 30万年前の凝灰岩風景

2-2 加久藤凝灰岩を利用した人工物

1) 人吉駅の石造機関庫と大畑駅の給水塔

 加久藤溶結凝灰岩でできた今に残る幾つかの有名石造建造物を見てみよう。図8は明治44年(1911年)に建造された人吉駅の石造機関庫であり、人吉駅のプラットホームからもよく見える。しかし、駅裏の大村横穴群のある村山公園側にまわればよりアプローチできる。加久藤溶結凝固岩の頑丈さとSLの煙にいぶされた建物の岩壁が重量感を一層かもし出している。図9はループ線とスイッチバックを併せ持つ駅として知られる肥薩線大畑駅の石積み給水塔である。築造は、明治43年(1910年)で、同じようなものが大畑の先の矢岳駅にもある。

人吉駅機関車庫 大畑駅給水塔
図8. 人吉駅の石造機関庫 図9. 大畑駅の石積み給水塔

2) 多良木町の交流館石倉

 図10左は昭和10年(1935年)建築の多良木町の「交流館石倉」、国登録有形文化財であり、人吉球磨地方では最大の加久藤溶結凝灰岩を使った石造物である。 図10右は、あさぎり町岡原の「やったろう館・蔵」である。いずれも、石材は加久藤溶結凝灰岩の深田石であるが、内装は木柱で当たりをやわらげ、各種イベント会場として現在も利用されている。

交流館石倉 やったろう館
図10. 左:交流館石倉(多良木町) 右:やったろう館・蔵(あさぎり町)

3) 石水寺のめがね橋と山門

 図11は人吉球磨地方で最も古い加久藤溶結凝灰岩で作った石造物とされる人吉市下原田の石水寺のめがね橋である。このめがね橋は、嘉永7年(1854年)の建造で、人吉球磨地方では唯一の江戸時代の眼鏡橋だそうである。めがね橋の壁石や輪石、そしてアーチ頂上の要石も欄干も苔むしていたが今なお健在であった。

めがね橋 山門
図11. 左:石水寺のめがね橋 右:山門(人吉市原田町)

 石水寺は、応永24年(1417年)、永国寺開山僧実底和尚の隠居寺として開山された曹洞宗の禅寺である。4月はじめの海棠(かいどう)まつりの頃は境内がピンクに染まる寺として有名であるが、同図右に示すくり抜き石造の山門のある寺としても有名である。寺の説明では、この山門は二代目で初代の山門は折れたので檀家の人たちが近くの山から一枚の凝灰岩を切り出し、くり抜いて作ったものだそうである。近くの山というのは、多分、人吉市上原田町の菖蒲谷石切り場であろう。今から約30万年前、このあたりも加久藤火山の噴出物に覆われた時代があったのである。


4)人吉城御館御門橋と百太郎堰旧樋門

 図12左は、人吉城内の御館御門橋である。「御館」とは、代々の城主が居住していた所で、現在は熊本県の指定文化財となっている。この橋の築造にあたっては、山田村の石材を切り出し、領内各村に割当して運搬させたとある。したがって、石材は加久藤凝灰岩であろう。人吉城の武者返しで有名な石垣も恐らく同じ石材が用いられたと考えられる。

御館御門橋 樋門
図12. 左:人吉城址内の御館御門橋 右:百太郎堰旧樋門(多良木町)

 図12右は、多良木町の百太郎公園に移設保存されている鎌倉時代の百太郎堰旧樋門(ひもん)
である。樋門とは、用水を取り込むため、堤防を横切るようにして設けた通水路(暗渠:あんきょ)のことである。樋門は、約30万年前の噴火による火山灰が固まって岩となった溶結凝灰岩を加工したもので、高さ5.8 m、長さ9.5 m、構築年代は鎌倉時代と考えられている。百太郎溝本流の完成は1710年頃であるから、400~500年を経て百太郎本流は完成したことになる。樋門のそばによって見ると激流の砂粒にさらされ続けた傷跡が痛々しい。


5)ちょっとおしゃれな石蔵

 それは、球磨川鉄道の相良藩願成寺駅を降りて球磨川方面に徒歩約15分、高台の木立の中にある石蔵のカフェ「Kura-倉Café」である。フランス料理もさることながら、高台からの見晴らしや、なんと言っても図13左のような石蔵の建物がモダンである。
図13右は、築100年の木造駅舎と知られる肥薩線嘉例川駅から6キロほど所にある石蔵旅館の「妙見石原荘」である。案内パンフによると、分限者ドンを夢みていた館主は、昭和の初期に建てられ、長年にわたり米倉庫として使用されていたものを解体し、2007年の秋、天降川(あもりがわ)渓谷沿いに石蔵旅館を完成させたとのことである。

kura cafe 妙見石原荘
図13. 左:「Kura-倉Café」(人吉市) 右:「妙見石原荘」(隼人町嘉例川)

 加久藤カルデラ噴火による火山灰の溶結したものが加久藤凝灰岩であるが、それを加工して石材としたものが深田石である。この深田石として加工された石倉や石蔵建造物は、以上の他にも、人吉球磨地方にはたくさん残っている。なかでも、地区100年を超す石蔵があさぎり町上地区にある。犬童家の石蔵で、緑青の銅板扉のついた見事な蔵である。ここは、RKKの「熊本の心」番組で取り上げられた「植林人生:犬童敬太郎」さんの生家である。

 人吉球磨地方の近郷ではないが、鹿児島市には由緒ある素晴らしい石造建築物がある。写真は省略するが、それは、鹿児島の尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)である。この石造洋風建築物の機械工場は鹿児島県最古の石造建築物であり、1865年(慶応元年)に建てられた。石材は「小野石」という加久藤溶結凝灰岩である。この「小野石」と言うのは、「深田石」が主産地の深田地区であったのと同じように、桜島の真西にあたる鹿児島市小野町(昔は小野村)付近でとれた石なのでそう呼ばれた。「深田石」が人吉球磨盆地建造物の材料として使われたのと同じく、「小野石」も甲突川五石橋などの用材として江戸時代の重要な建設資材であった。

↑ 戻る 

3. 人吉球磨地方は「石の郷」・石蔵(倉)の数

 深田石の採石場、石切り場跡があさぎり町深田地区に残っている。場所は内山観音の直ぐ近くで、図14に示すように、今は木立に埋もれていて、地元の人でなければ探し当てることができないとのことなので、近くの石材店、東宗博さんが案内してくれた。深田石崖の高さは7m位であるが、地下3mくらいまで岩が続いているとのことであった。戦後も付近一帯から石が採掘されていたが、今は業者もほとんどなくなってしまったと話してくれた。

 図15は、人吉球磨地方の石倉(蔵)の数である。石蔵と石倉の違いは、「蔵」はお金や家宝など大事なものをしまっておくところ、「倉」は米など穀物を保存しておくところ、だったそうである。熊本大学の伊藤重剛先生は、「人吉球磨の石倉」1)の中で、人吉球磨地方を「石の郷」と呼ばれているくらいこの地方には石蔵(倉)が多い。図中の数値は、球磨郡湯前町の湯前マンガ美術館の学芸員、溝下昌美氏の「球磨の石倉」2)を参考に筆者が図化したものである。

採石場 石倉数
図14. 深田石の採石場跡地(あさぎり町) 図15。人吉球磨地方の石倉数

 市町村別では、あさぎり町の53棟が最も多く、次いで人吉市が38棟、多良木が34棟、総数は164棟であるが170余はあるとされている。これらの石倉建設用材は加久藤溶結凝灰岩である。その産出場所、石切り場は30万年前の加久藤火山火砕物の堆積場所だったからである。その場所は、あさぎり町深田地区の他、山江村では山田甲の大王谷や山田乙の円蔵山、人吉市では上原田の菖蒲谷である。あさぎり町須恵では阿蘇などの採石場があった。 

 加久藤火山灰が高温で溶結した凝灰岩の深田石は、「灰石」とも呼ばれたがこれも火山灰が固まってできた岩石であることからの呼び名であろう。この「深田石=灰石」は、表面に気泡があり、比重は1.8でコンクリートより軽量であり、湿度や温度調整機能に優れていたため穀物等の常温倉庫などの用材として盛んに使用された。大いに利用された理由の一つが加工性である。加久藤系溶結凝灰岩は阿蘇火山系のものより溶結の度合いが弱く、硬くなく、加工しやすく、建築用材として適していた。


4. 加久藤溶結凝灰岩の球磨川右岸偏在とその理由

 ところで、どうして球磨川右岸域だけ加久藤の凝灰岩があるのだろうか。約30万年前、この地域に加久藤火山の噴出物が降りそそぎ堆積したということであるが、他の地域も同じように堆積したはずである。

球磨川右岸 横断面
図16. 左:加久藤溶結凝灰岩の球磨川右岸偏在 右:球磨盆地の横断面
図16左は人吉球磨盆地における加久藤溶結凝灰岩の分布である。この凝灰岩は、加久藤カルデラが約30万年前に大爆発を起こしたときの火砕流堆積物で、火山灰が溶結凝固した岩石である。人吉市や湯前町の球磨川左岸の一部を除いて、ほとんどの凝灰岩は球磨川右岸に偏在・分布している。加久藤カルデラ噴火による火山灰は盆地一面に降り注いだはずである。それにもかかわらず堆積物の露頭は球磨川右岸でしか見られないというのは不思議なことである。これは、太古の昔、球磨川を境にした垂直変位があったことを示している。つまり、盆地に堆積した加久藤火砕流堆積物が球磨川左岸では陥落し、その場に大規模な扇状地が形成されたためで、堆積物(凝灰岩)は地上では見ることができなくなったというわけである。図中に「陥没域」と表示してある地域が断層線に沿って陥没した。研究者は、その形成過程を詳細に図示説明しているが、より分かり易くするために、筆者が作図した球磨盆地横断面プロフィール図16右をもとに補足する。図は、相良村、あさぎり町及び多良木町の3町境界点から球磨川鉄道の多良木駅を通り黒原山麓に至る約12キロメートルの盆地横断面プロフィールと地層モデルである。図のほぼ中央点が球磨川であり、川を境にして、右岸から盆地南縁までが陥没した。図16左に「陥没域(図のクリックで拡大)と記したが部分である。球磨川左岸は加久藤火砕物が堆積し、その上に扇状地堆積層があることを示しているが、2万数千年前の地殻変動によって球磨川左岸を境に陥没し、その上に扇状地堆積物や沖積層が堆積した。


5. 人吉球磨地方には阿蘇山噴火による溶結凝灰岩もある

 以上は加久藤カルデラを噴出源とする溶結凝灰岩であったが、人吉球磨地方には阿蘇火山の噴火による溶結凝灰岩もある。阿蘇火山は30万年間のうち4回の大噴火を起こしているが、今から8万年ほど前の4回目の噴火・火砕流(Aso-4)が最も大きく、噴出物も広範囲に及び、その痕跡が人吉や錦町中心に見られる。最も身近に観察できるものが、図17左に示す人吉駅裏の大村横穴古墳のある岩壁である。この古墳は阿蘇凝灰岩を利用して、6~7世紀の古墳時代後期に造られたものである。同じ6世紀頃のものと考えられているのが図17右に示す錦町西蓑毛田の京ケ峰横穴古墳群である。この断崖も人吉の大村横穴古墳群と同じような地層であり、阿蘇火山灰が溶結した凝灰岩の崖を利用したものである。しかし、阿蘇火砕流堆積物が溶結した凝灰岩は溶結度が強く硬いため、加久藤凝灰岩よりも加工はしにくく、これらの古墳の築造は大変だったと想像できる。

大村横穴古墳 京が峰横穴古墳
図17. 左:人吉駅裏の大村横穴古墳群 右:京ヶ峰横穴古墳群(錦町)

 阿蘇系の火山噴出物は、県外では、宮崎県高千穂峡の柱状節理の岸壁が有名である。ここの柱状節理は大きくて、人吉の「鹿目の滝」とは比べ物にならない。阿蘇4回目の爆発(Aso-4)による火砕物の広がりは、遠くは山口県の秋吉台あたりまで達しているが、風向きのせいなのだろうか、人吉球磨地方では少ない。


<本節の参考資料>>
  1)熊本大学 伊藤重剛「人吉球磨の石倉」
  2)溝下昌美氏の「球磨の石倉」:パンフレット「人吉球磨 石倉めぐり」


↑ 戻る 

談義2-1に戻る | 目次 | 談義3へ