11-41. 桑の実
5月も半ばを過ぎる頃になると黒く熟した桑の実で唇や衣服を紫色に染めながら桑の実を食べた思い出ある人も少なくないだろう。旧深田村(現在、あさぎり町深田)に住んでおられたことのある御年81歳の方から、「・ ・ 私にとって桑の実は戦時中のことです・ ・ 」というメールをいただいた。筆者と同じ年齢、筆者と同じような桑の実の思い出である。桑の実は、誰でも知っていて、誰でも歌える「赤とんぼ:三木露風作詞、山田耕作作曲」にでてくる。
♪ 夕焼小焼の 赤とんぼ 負われて見たのは いつの日か
山の畑の 桑の実を 小籠(こかご)に摘んだは まぼろしか
十五で姐やは 嫁に行き お里のたよりも 絶えはてた
夕焼小焼の 赤とんぼ とまっているよ 竿の先 ♪
もっと古い歌、万葉集(巻七)に作者未詳として、桑の歌がある。
「たらちねの 母がそのなる 桑すらに 願へば衣に 着るといふものを」
この意味は、願えば桑の葉も衣服になるように、恋も成就しないわけはない。
後で述べるように、桑の木の皮も繊維になり織物となったようであるが、ここでは、桑の葉が衣服になるというのは、蚕(かいこ)が桑の葉を食べて糸を吐き、その糸を織って衣服となるという意味である。桑には、養蚕のための葉の収穫を目的にした「ヤマグワ」と、桑の実の収穫を目的にした「西洋桑」があるそうであるが、こどもの頃に食べた桑の実は養蚕のために植えられていた桑の木であった。桑の実は甘酸っぱく、地方によっては桑酒や果実酒の原料となり、高い抗酸化作用で知られるアントシアニンをはじめポリフェノールを多く含んでいて健康にもいいとか言われている。
図1. 桑の皮 | 図2. 桑の実 |
さて、筆者の桑の実の思い出は、戦時中の小学校1年生(当時は国民学校)か終戦間際の 2年生の頃の話である。戦時中は低学年であっても、勤労奉仕にかり出された。勤労奉仕というのは、正確には「学徒勤労動員」または「学徒動員」のことで、第二次世界大戦末期の昭和18年(1943年)以降に深刻な労働力不足を補うために、生徒や学生が農村や工場の生産に強制的に動員されたことである。期間は4~5日で、9~10歳以上の学徒がその対象であった。勤労の内容は、図1に示すような桑の木の皮を剥ぐ仕事である。
筆者らの動員先は、村の養蚕農家で、厳しい戦況や労働力不足など9歳ぐらいの筆者らは知る由もなく、言われるままに桑の木の皮を剥いた。その剥いた皮は兵隊さんが使うものになるようなことを大人は言っていたような記憶だが定かではなかった。そこで、草稿にあたり改めて調べてみると、ウィキペディアには、「桑の皮は、主として網索、テックス、紙原料等として使用されるが戦時中は落綿等の屑繊維と混紡して雑繊維糸の紡出又は家庭綿と称する代用衛生綿の製造に用いられた」とあった。
ところが、和紙文化研究会会員である長瀬 香織(ながせ かおり)さんは、「中国手漉き紙の世界」の中で、中国西北部にある新疆(しんきょう)ウイグル自治区ホータンには「桑皮紙(そうひし)を作っている人があり、その製法を紹介されている。桑の皮で紙が昔から作られていて、今でも新疆ウイグル自治区ホータンでは、その製法が伝承されているとのことである。筆者ら子供の頃に剥いた桑の皮はごわごわした織物になったのか、楮(コウゾ)や三椏(ミツマタ)のような和紙の原料だったのか分からない。筆者が食べた桑の実(図2)は、この皮むき作業中の幹に鈴なりになっていた実である。