深田 上 免田 岡原 須恵

ヨケマン談義11. 昔懐かしふるさとの味

 「ヨケマン」とは、人吉球磨地方の方言である。時間帯でいえば午前の10時頃、朝食と昼食との間の休息時間帯や、その時の飲食物のことで、昔だったら手を休めてお茶を飲み、ダゴなどおやつをたべ、タバコを吸ったりして休息した。田仕事であれば畦道(あぜみち)に腰を下ろし、山仕事であれば木株に腰かけてである。午後のヨケマンは、昼食と夕食の間、3時頃である。東北地方の「小昼こびる」と同じである。

 ちなみに、「おやつ」の語源は、昔の日本の時刻制度においては午後の2時頃を「やつどき:八つ時」と言い、ここからきた言葉である。つまり、江戸時代の時刻は、日の出の時刻が「六つ時:明けの六つ」、お昼の正午が「九つ時」、夕方の六つ時は「暮れの六つ時」といった。江戸時代の食事は一日に朝夕の2回で、その間の間食が午後の2時頃の「おやつ」なのである。午後2時頃を意味する「八つ」が「お八つ」→「おやつ」と呼ぶようになった。したがって、「おやつ」は、お菓子や果物に限定する必要はなく、球磨郡の「ヨケマン」みたいなものである。

 今回のヨケマン談義は、「昔懐かしふるさとの味」である。この味は、まさに母の味であり、おふくろの味である。本稿では、人吉・球磨地方に伝わってきた昔懐かしふるさとの味を記録に留め、懐かしい味を思い起こしていただくものである。この調査は、今も人吉球磨地方にお住まい方や当地出身者の方から口伝(くでん)や記憶を辿っていただき、教えていただく方法でおこなった。読者諸氏からいただいたお便りに筆者の記憶を重ねて「昔懐かしふるさとの味」を紹介するのであるが、筆者の知らない、知っていてもうろ覚えの味の場合は、頂いたレシピをもとに筆者自身で再現してみることにした。最後までご笑覧いただければ幸いである。

11-1. 漬物 ・ お茶請けの漬物

 筆者は、お茶請けに「漬物」が出るという人吉球磨地方の独特のお茶接待の習慣が、少し気恥しく思っていた時期がある。球磨地方で、「まあ、お茶でも飲んで行かんせ!」と言われて、縁側に腰を下ろすと、お茶を出してくれるのだが、必ずと言っていいくらい、図1のように、盆の上の小皿に漬物が二切れ乗せてあり、時には山盛りして箸も添えてある。このような、お茶請けに漬物の「おもてなし」は限られた地方だけのことだと知ったのは、そう昔のことではない。

茶請け
図1. 漬物のお茶請け(球磨地方の例)

 茶請け(ちゃうけ)とは、茶を飲むときに食べる菓子や漬物のこととある(大辞林第三版・デジタル大辞泉)。辞書にもあるのだから、気恥ずかしいことはないはずであるが、筆者の住む名古屋・東海地区では漬物がお茶請けに出ることはないからである。大阪をはじめ関西地区でも出さないと聞いた。それにしても、お菓子は分かるがなぜ漬物なのだろうか。お茶請けに漬物を出すことに対して、長野県出身の爪楊枝さんが面白いプログ質問をされているので紹介しよう。

「子供の頃から、お茶うけには必ず漬物が出てきました。お客様が来るとお茶に漬物がついていて、それが当たり前と思って大人になりました。野沢菜漬けとかナスの粕漬とか、そのような習慣が空気のような存在で、深く考えたこともなかったのです。しかし結婚して県外へ出て、それが当たり前ではなかったことに気が付きましたが、気付くまでに、何度かお茶うけに漬物を出してしまいました。お客様方は何も言わなかったけど、内心どう思われていたんだろうと思っています、皆さんはどう思いますか?」

こんな問いプログに対して、長野市でも、お茶請けに漬物は当たり前のおもてなし文化であり、「寒天」が出ることもあると付け足された方がある。東北出身の方も、この地方でも漬物が出るとの返信されており、北陸出身の方もお茶請けに漬物が出ても違和感はないとのことであった。茨城県の農村部では、今でもお茶請けには漬物が出て、おばあさんが手の平の上に箸で取って載せてくれるとのことである。筆者も母の実家に挨拶に行くと、ばあさんから「たくあん」を手のひらに乗せられて、渋々口に入れた覚えが幾度もある。千葉県南房総地域では、漬物だけでなく「イワシの胡麻漬け」や「イワシの塩辛まぶしの白菜漬け」もお茶請けに供されるとのことである。

 日本に茶が入ってきたのは、今から1200年ほど前の平安時代、最澄(さいちょう:天台宗の開祖)や空海(くうかい:真言宗の開祖)は中国唐代の茶を持って来ているし、鎌倉時代には、臨済宗の開祖である明菴栄西(みょうあんえいさい)が、やはり中国の宋から茶を持ち帰って来たのが始まりである。しかし、当時はお茶という飲み物ではなく「薬」としての利用法であったらしい。

 現在のような四畳半草庵茶室が出来、茶道具に凝り、精神性が付加されたのは室町時代から戦国時代にかけての八代将軍 義政の時代からだそうである。この時代のお茶請けは、肉や野菜を詰め込んだ甘くない饅頭、木の実、アワビ、松茸の煮物味噌を付けた餅、焼き栗などであったという。また別資料では、戦国~安土桃山時代の茶席においては、焼き麩(ふ)や栗、干し柿、シイタケを味噌で炊いたものなどがお茶請けとして出されていたとある。

 このように遡ってみると、人吉・球磨地方のお茶請けに漬物というのは、歴史に踏まえた伝統的おもてなしであり、作法といえる。現代における関東地方でのお茶請けは雑菓子、関西地方では生菓子が代表的なお茶請けとされているが、人吉球磨地方では漬物が主流であったことを自負してもよい。この頃はクッキーやケーキがお茶請けにだされることが多いが、やはり、漬物や時にはイキナリダゴやネッタくりが出てくるような食文化を継承してほしいものである。ただ断っておくと、田んぼや山仕事でのおやつは図1のようなお盆つきの上品なものではない。お茶はヤカンから注ぎ、おやつは握り飯やダゴやボタ餅である。

 茶道においてはお菓子を先に頂き、そのあと抹茶をすする。これは、茶カテキンやカフェインといったお茶の成分が胃を刺激するため、お茶請けを先に入れておくことで、胃への刺激を和らげるためであり、作法も理にかなっている。ただ、漬物を先に食べても同じ効果があるのかどうか、筆者は確答できないが、和菓子や砂糖が貴重品だった時代、漬物がその代替品であったことは確かである。作家の宇野 千代さんは、「漬物が旨ければ幸せ」と語られている。

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