深田 上 免田 岡原 須恵

ヨケマン談義10. 人吉球磨地方の産物

10-1. 球磨焼酎

 焼酎の年間生産量は91万1900キロリットル、日本酒の48万1500キロリットルのおよそ2倍である。日本人は焼酎が好きで、特に九州人は好きである。今日は、球磨人も大好きな焼酎の話をしよう。筆者の祖父もよく焼酎を飲んで、クダ巻き母を困らせていた。焼酎は酒である。酒はいつ頃からあり、先祖はいつ頃から酒を飲んでいたのだろうか。

 昭和29年(1954年)、鹿児島県伊佐市大口町の郡山八幡神社(図2)の解体修理の際、屋根裏から大変なものが見つかった。それは図1に示すような、日本人が焼酎を飲んでいたことを示す落書きの木片であり、日本における「焼酎」という文字の最古の使用例とされている。木片に書かれている落書きは、次のような文言である。

  「其時座主ハ 大キナ こすてをちやりて 一度も焼酎ヲ 不被下候何共 めいわくな事哉」

木片 八幡神社
図1。「焼酎」の文字がある落書き木片    図2。伊佐市の郡山八幡神社

 原文の傍線部「こすてをちやりて」は方言で、「こすて」はケチ、「大キナこすて」で「大変なけち」、「ちやりて」は「~であって」の意味らしい。したがって意訳すると、「施主が大変ケチで、一度も焼酎を飲ませてくれない、えらい迷惑なことだ」になる。落書きの日付は、永禄2年8月、西暦では1559年、織田信長が尾張を統一して間もない頃である。

 この焼酎はどこの焼酎だったのだろうか、推測してみよう。鹿児島県といえば芋焼酎であるが、この落書きの焼酎は鹿児島の芋焼酎だったのだろうか。さつま芋の原産地はメキシコを中心とする熱帯アメリカである。コロンブスによってヨーロッパへ運ばれ、インドや中国、琉球を経由して日本に入ってきた。鹿児島に入ってきたのは1705年である。米焼酎の原料である米は高価であったが、さつま芋はやせたシラス台地にも適し、栽培面積が拡大した。その結果、原料をさつまイモとする芋焼酎が多く作られるようになった。落書き木片の日付は1559年であり、芋焼酎が出来ていたかも知れない年より146年も前のことである。

 薩摩の芋焼酎でなければ、では球磨焼酎なのだろうか。人吉球磨地方には、現在28の蔵元があり、古い老舗でも江戸時代の創業である。しかし、1559年前後の相良氏の勢力は薩摩の大口地方や葦北地方にも及んでいたことを勘案すると落書きにある焼酎は「球磨焼酎」であった可能性は高い。 1559年、16世紀の中頃には焼酎を飲む習慣があったことが明らかになったが、実は酒を人が飲んだという記録は3世紀の「魏志倭人伝」という、あの邪馬台国の場所が書いてある中国の歴史書の中にある。原文はこうである。

 「其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘曰。當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、擧家詣水中澡浴、以如練沐」

 意訳すると、「人が死ぬと10日あまり号泣し、喪につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌い踊る。埋葬が終わると水に入って体を清める」。このように、当時の倭人は飲酒していたこと、つまり酒があったことが分かる。

 7世紀に編纂された日本書紀には、日本武尊(やまとたけるのみこと)が熊襲征伐のとき酒を飲ませ、酔ったところを刺殺した旨の記述がある。古事記や日本書紀には、素戔嗚尊(須佐之男命:スサノオノミコト:アマテラスの弟)がオロチ(大蛇)に酒を飲ませ、酔わせて退治する様子が記されている。これら神話時代の酒とは一体どんな酒・焼酎だったのだろうか。

 日本書紀には、甕(かめ)に仕込んで糖化発酵させた酸味のある濁り酒のような「天の甜酒:あまのたむざけ」という酒の記述がある。古事記には、仕込みと熟成を繰り返し、アルコール度数の高めた「八塩折の酒(やしおりのさけ)という酒の記述がある。さらに古事記は、どんな酒だったが分かる記述箇所がある。それは、速須佐之男命(すさのおみこと)がオロチを退治する場面で、少し長いが原文は次の通りである。

 「爾速須佐之男命 乃於湯津爪櫛取成其童女而 刺御美豆良 告其足名椎手名椎神 汝等釀八鹽折之 亦作迴垣 於其垣作八門 毎門結八佐受岐此三字以音 毎其佐受岐置酒船而 毎船盛其八鹽折酒而待 故隨告而如此設備待之時 其八俣遠呂智 信如言來 乃毎船垂入己頭 飮其 於是飮醉 醉留由伏寢 爾速須佐之男命 拔其所御佩之十拳劔 切散其蛇者 肥河變血而流」

 意味は、そこで速須佐之男命は、その娘を爪型の櫛に変えて頭の髪に挿し、老夫婦の神に「おまえたちは八度醸(かも)した酒を作り、垣根を廻らして八つの門を設け、それぞれの門に八つの桟敷を用意し、桟敷ごとに酒船を置き、それに八度醸した酒を満たして待ちなさい」と仰せられた。言われた通りに準備して待っていると、ヤマタノオロチが言葉通りの姿でやって来て、それぞれの酒船ごとに頭を突っ込んで酒を飲み、酔いつぶれて寝てしまった。そこで、速須佐之男命は、持っていた十拳劔(とつかのつるぎ)でオロチを斬り刻むと、斐伊川(ひいかわ)が血となって流れた。

 傍線部の八度醸した酒の箇所がどんな酒であったかを示している、この「八」は、八度という数を表したものではなく、何度も醸(かも)した酒という意味で、アルコール度の高い強い酒という意味であり、球磨の焼酎であったと考えられる。

   球磨焼酎の「球磨」は地名である。酒類で地名を冠する例は少なく、ブランドであることが保護されている。
焼酎では、「球磨焼酎」のほか、長崎県壱岐市の「壱岐焼酎」、沖縄県の「琉球焼酎」、鹿児島県の「薩摩焼酎」の4種だけである。清酒では、石川県白山市の「白山清酒」、ワインでは山梨県の「山梨ワイン」があり、全部で6種しかない。この地名表示が認められるようになったのは、農産物のブランド化と付加価値を高めることを目的に、2014年、政府が「地理的表示法」を成立させたことによる。

ガラ
ガラ:球磨焼酎酒器

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