深田 上 免田 岡原 須恵

ヨケマン談義1.100万年前の人吉球磨湖

1.古 人吉湖のイラスト

 今から260万年位前に、地殻変動による陥没によって人吉球磨盆地は形成され、盆地に水がたまり、100万年くらい前までは大きな湖だったそうである。
球磨郡相良村が発刊した相良村誌自然編-1) の中に、人吉球磨地方の小中学校で長く教鞭をとられていた地質学会会員でもある原田 正史先生が幻の人吉湖について記述されている。
それは図1に示すような形と大きさであったと紹介されている。イラストの中に書いてある湖の名は「人吉湖」であるが、その後の資料では古代の「古」をつけ「古 人吉湖」と記されている。しかし、後述するように、湖は人吉球磨盆地がすっぽり入るほどの大きな湖であり、ここでは「人吉球磨湖」と呼ぶことにする。湖の長さ40キロ、最大幅10キロほどで、今の琵琶湖に次ぐ大きさであったようである。湯前駅から市房ダムあたりが湖の東端で、現在の多良木町もあさぎり町も錦町も人吉市街地も湖の底であった。球泉洞あたりの狭窄部が湖の西の端であったが100万年くらい前に、球泉洞駅の近くの大阪間あたりの鞍部(山の尾根の一部が低く窪んで馬の鞍状になっている所)が決壊して湖の貯水量は減少し、球磨川が誕生して湖は消えたと考えられている。

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人吉湖
図1.古 人吉湖のイラスト(相良村誌自然編)

 湖の深さはどれ位あったのか、どんな魚や生き物が生息していたのか、子供の頃の球磨川や川辺川、津留川、井口川、免田川、胸川や万江川、百太郎溝や幸野溝等にも沢山いたシビンチャやホグラも生息していたのだろうか。人吉球磨盆地のどのあたりまでが湖だったのか、湖があったという証しはあるのだろうか、湖でなくなった盆地のその後はどのような運命をたどったのか、など幻の湖を推考してみる。

2.人吉球磨湖の深さと大きさ・形

 湖の発生は人吉球磨盆地の誕生に由来する。今から260万年ほど前、その頃の日本列島は、100万年くらい前までは、今のような八島からなる島国ではなく、日本列島の九州は大陸と陸続きであり、100万年前には図2のように、北海道も陸続きで、日本海は大きな湖になっていたとされる。このように、100万年前も地球規模での地殻変動の時期であったが、南の方からはナウマン象が、 北の方からはマンモスが陸伝いに行き来していた時代である。人類といえば、原人がアフリカ大陸を出て拡散し始めた頃で、50万年後には北京原人、20万年前になるとアフリカの旧人が進化し、ホモ・サピエンスという最も現代人に近い人類(現生人類:新人)が現れた。

 球磨盆地はこのような時代、ほぼ南北に引き裂かれるように陥没し、やがて扇状地と化した。南側では千数百メートルの山脈が形成され、南山地の隆起から取り残されるような形での盆地となり、そこに水が溜まり、湖ができたと言われている。

100万年前
図2.約100万年前の日本列島

 先ほどの図1は、湖がせき止められて出来たことを暗示したイラストになっていることにお気づきであろう。湖の西側に煙を吐き、溶岩が流れ下っている火山が描かれている。一つは、人吉市鹿目町にある鏡山(590m)である。この山は、昔の火口が今なおすり鉢状となっていて、今は死火山ではあるが、太古人吉にあった唯一の火山であった。これらの火山活動が球磨川をせきとめた。これだけではなく、湖ができた後も、時期は異なるが、遠く離れた加久藤、姶良、入戸、鬼界等霧島火山帯の火山活動による火砕物が湖へ降り注ぎ堆積と浸食を繰り返した。その証は盆地各所で観察できる。貴重な例の一つは球磨村総合運動場の人吉層を含む地層と断層の崖であるが、それについては後述する。

3.湖の形と大きさと深さ

 さて、本題の湖の話にもどろう。湖の南湖畔は人吉球磨盆地の南縁断層線、もっと分かり易く言えば現在の幸野溝に沿って形成され、西は球泉洞駅あたりの大坂間、東は市房ダムの直下あたりとする。残るは北側、つまり球磨川右岸の湖畔がどんな形であったかである。北側が決まれば湖の大体の姿が描ける。

 「ふるさとの自然・人吉球磨の地質考」2)の中で、原田正史先生は、人吉湖の大きさについて、「・・東方は水上村岩野から湯前町の猪鹿倉を結ぶ線、西は一勝地、北は相良村の上下坂、南は人吉市大畑町・・東西約30キロメートル、南北約10キロメートルの大湖水の出現・・」と記述されている。しかし、先生は「相良村誌」「自然編」では、人吉湖の水位について、「人吉湖の最大水位は各種の事実から海抜高度300メートルから350メートル程度に達したものと判断される」と記述されている。

 図3は人吉球磨湖で、原田先生が「相良村誌・自然編」のなかで述べられている「湖は海抜高度350m・・」を参考に、筆者が現在の地形を考慮して描画したものである。

人吉球磨湖
図3.人吉球磨湖(湖畔の標高が約300mの場合)

4.湖水の流出ルート 

 よく分からないのが、一勝地の大坂間あたり鞍部が決壊するまで、時として、湖の水は鹿児島県の大口方面に流出したとする説である。まず決壊箇所の大坂間であるが、等高線が詳しく出ている地形図を見ると、球泉洞のある大坂間付近は確かに狭窄部であり、右岸の権現山(694m)の稜線が球磨川の谷に向かって伸びていて、標高400m以下の等高線は下流方向、つまり八代方向に曲がっている。球磨川左岸の稜線もそうである。決壊の跡形が等高線となって残っていると考えるのは先入観のせいであろうか。このあたりは大坂間構造線や、球磨川下流には緑川断層帯から連なる日奈久断層帯が存在することも堰決壊の要因であったかも知れない。

 人吉球磨湖の水が大口盆地方面への流出したルートは、現在の地形から推察すると、国道267号線沿いであろう。国道に並走する川の名は「胸川」である。この胸川流域の標高は、人吉市内で200m前後、上流の鹿児島県との県境でも500mほどである。この標高は、200万年位前の肥薩火山群の活動や数万年前の姶良・入戸火砕流、それに30万年前の加久藤火砕流等の堆積物によって嵩上げされた標高である。人吉球磨湖が存在した頃の標高が200mほどであったならば流れが大口盆地方向に流れていたかも知れないのである。

 この大口盆地は人吉球磨盆地と成立ちが大変よく似ている。基盤となる四万十層群の上に鮮新世から更新世にかけて活動した肥薩火山群の噴出物が重なっていること。この上に30万年前に加久藤カルデラから噴出した加久藤火砕流による溶結凝灰岩や2万数千年前に姶良カルデラから噴出した入戸火砕流によるシラスが積み重なっていること。入戸火砕流以後は湖ができ、沖積層が形成され、大口盆地の場合は川内川の浸食によって3千年前までに排水され盆地となったことなどである。

 大口盆地が人吉球磨盆地と似ているのはそれだけではない。後で詳述するが、大口盆地あたりの墓式は地下式板石積石室墓というもので、人吉市荒毛遺跡やあさぎり町の新深田遺跡のものと同じである。ということは両盆地の民族は同じで、同一祖先の可能性が高く、人吉から大口盆地に至るこの街道は今と変わらぬ重要な「ヒトの道」でもあった。

 5.人吉球磨湖のファンタジー

 先ほどから紹介している原田正史先生は、著書「ふるさとの自然、人吉球磨の地質」のなかで次のような想像をされている。「・・緑したたる周囲の連山にかこまれ、満々たる水をたたえた人吉湖の景観はまことにすばらしく、おそらく、さかさ富士ならぬ逆さ市房の姿を写しだしていたことだろう」と。

 そこで、筆者は空想たくましく、人吉球磨湖が現存したとして今の風景に重ねてみることにした。断るまでもなく、山が今のような姿や形、高さであったならばの合成写真である。

 図4は市房山(1721m)を湯前あたりの湖上からみたときの風景で、秀麗な山頂はこのように湖に映えただろう。同図の右は、南限のブナ林が太古から今も自生している白髪岳(1417m)が湖面に影を落としている風景である。後述するように、100万年前の湖底層を人吉層というが、その人吉層から古代のブナが化石の形で発見されている。白髪岳のブナ林は百万年も前から続く悠久の大自然である。

市房山 白髪岳
図4. 人吉球磨湖から見た市房山(1721m)や白髪岳(1417m)

 図5は岡原地区の黒原山(1017m)と深田地区の高山(275m)である。黒原山に至る岡本谷にはジュラ紀(約1億5千年前)の頁岩が露出している。この頁岩の露出層は旧深田銅山あたりやあさぎり町須恵と多良木町大豊の境界あたりの山道でも容易に観察できる。頁岩は堆積岩の一種であるから昔は海の底であった。これらの地区から貝の化石が発見されていると聞く。1億数千年前の日本列島の基盤岩を今にみることが出来るのはロマンをかりたてる。

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黒原山 高山
図5. 湖から見た黒原山(1017m)や高山(275m)

 同図の右は、あさぎり町免田東地区の湖上から見た深田の高山(276m)である。高山がなぜ湖上に浮ぶ島になるかというと、湖畔の標高を200mとすると高山は275m、すそ野は200mにも満たない標高だからである。湖畔標高が300mだとすれば高山は完全に湖に没してしまう。

6.人吉球磨湖が存在した証

 湖は100万年まえに消失したとされ、発生からおよそ160万年間、湖とした存在した。その証が今でも球磨村総合運動公園で見ることができる。図6がその一部である。遠くからでも湖底層だった白い層と火砕物が縞模様となって観察できるが、近寄って見るとこれらの層は何層にもわかれて堆積している。層と層の間の境界面を層理面というが、この層理面の上の黒っぽい層は火山噴出物のなかで粗粒の火山礫(かざんれき)、下の赤っぽい層は細粒のアカホヤ(イモゴ)層である。前述したように、湖は百万年以上にわたって肥薩火山群の活動やその後の加久藤、姶良・入戸及び鬼界火山や阿蘇火山からの火砕物(かさいぶつ)が降り注いで堆積した。その状況を示しているのがこの写真である。

露頭崖
図6.球磨村総合運動公園の湖底層の露頭崖
(図のクリックで拡大)

 このあたりの現在の標高は180メートル前後であるが、露頭崖は正断層あり、逆断層あり、さらに褶曲していて湖底だったあとの地殻変動の跡を見せてくれている。この球磨村総合運動公園」の人吉層が正面に見える公園の一角に、地質学会会員である原田正史氏の「球磨村総合運動公園人吉層露頭図」の看板が設置してある。この看板には、人吉湖の大きさ、人吉層の厚さ、地質や基盤岩の推定断面図などイラスト入りの案内板となっていて大変参考になる。

 人吉層はこの球磨総合運動公園の他に、人吉駅の裏山、あの大村横穴古墳のある村山台地の北側、そして日本の滝100選の一つ「鹿目の滝(かなめのたき)」の河原にも火砕物や溶岩に覆われ形で存在している。さらに、球磨川左岸の山手、人吉市の戸越地区にも人吉層で泥岩が見られる。球磨村の総合運動公園やあさぎり町の深田東では露出した人吉層が見られるが、一般には、もっと深いところにある地層である。さきに紹介した原田正史先生によると、人吉層の地中深さは200mから600mにわたって存在し、最大深さは人吉市内あたりで600m、錦町の高原(たかんばる)付近でも400mに達するとしている。

 余談になるが、ここで高原(たかんばる)から人吉層が発見されたいきさつを紹介しておこう。昭和30年代から40年代にかけて、もと海軍の飛行場があった高原には温泉があって、テント張りの食事場があり簡素ながらも戦後の保養温泉地として賑わった。この温泉掘削のときのボーリングコアに人吉層が含まれていることが偶然にも発見された。調べてみると、人吉層は地下200mから400mの所に存在することがわかって、原田先生などは飛び上がって喜ばれたそうである。それまで人吉層は人吉市や球磨村周辺だけでしか見つかっていなかったから、高原での発見は湖の大きさが盆地全体に及ぶことを示唆したのである。

7.湖にはどんな生き物がいたのか

 人吉層が湖底層であった証はドブガイ、カワニナ、タニシなど貝の化石がでている。「カワニナ」がいたのであれば蛍も舞っていたかも知れない。貝の化石のほか、当時の珪藻が珪藻化石となって露出し、検出されている。「珪藻化石」とはどんなものなのかというと、まず、「珪藻」とは、単細胞性の藻類で、淡水から海水に至るほとんど全ての水域に生息している植物プランクトンであり、食物連鎖の頂点ではなく最底辺に位置する生物である。細胞が石ころと同じ成分の珪酸質の被殻に入っているため何万年も何百年も腐らずにいるのである。大きさは0.01~0.5mm程度で、顕微鏡でないと見ることができない。形は円形、棒状、楕円形等さまざまである。

 湖の証である人吉層は、球磨村をはじめ西人吉、相良村や山江村あたり、つまり湖の最下流域では露頭を観察することができる。しかし、あさぎり町深田東地区の一部では露頭を観察できるが、上流域である多良木や湯前あたりの地表では見ることは出来ない。このことについて、原田正史氏は「ふるさとの自然・人吉球磨の地質考」の中で、「高原直下において約400mの層厚をもつ人吉層が急激にせん滅するはずはなく、人吉球磨盆地の大部分の地下に分布する可能性が濃厚である」と記述されている。

 球磨盆地は構造盆地である。構造盆地とは、プレート運動によって、平坦であった岩石層が歪力を受けて大規模な地質構造となるもので、沈降した場合は盆地となる。球磨盆地の南縁には断層があり、この構造線に沿って陥没した。このことについては、加久藤溶結凝灰岩(深田石)が、なぜ球磨川左岸に堆積しているかについては別項で述べる。

<本節の参考資料>
1)相良村誌編集委員会、相良村誌自然編、1994
2)原田正史、ふるさとの自然・人吉球磨の地質考、協和印刷、昭和63年
3)出典:相良氏の歴史・近世9 百太郎溝と幸野溝 人吉・球磨の部屋

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